母の日について調べてみよう

白いカーネーション

海外の母の日事情を見てみると、お母さんにまつわる祝祭日はずっと昔からあるようです。

古代ギリシャでは、ゼウスを生んだ女神レア(Rhea)のための祝宴があったようですし、イギリスでは四旬節(Lent)に家族が集まって、母教会(mother church)へお祈りに行く習慣があったのだとか。

ちなみに四旬節の時期になると使用人も休みをもらって家族のもとへ帰ったことから、イギリスでは独自の母の日が生まれたようです。

日本ではアメリカで生まれた母の日がモデルになったと言われていますが、では、アメリカの母の日ってどんな祝日だったんでしょう。

調べてみると少し興味深いことがわかったので、ちょっとまとめてみることにしました。

アメリカで生まれた母の日について

ヨーロッパ諸国ではギリシャ神話や四旬節の風習をベースに母の日が生まれたようですが、それに比べるとアメリカの母の日は少し様子が違うようです。国の祝日として制定されたのは1914年。アメリカ議会で議決され、5月の第2日曜と定められました。

この休日の制定に尽力したのがアンナ・ジャーヴィス(Anna Maria Reeves Jarvis)という女性です。彼女の母親であるアン・ジャーヴィス(Ann Marie Reeves Jarvis)の記念礼拝をフィラデルフィアの教会で執り行ったことが、母の日が全米に広まったきっかけとなりました。

このとき母親が好きだったという白いカーネーションを霊前に供えたことから、カーネーションが母の日のシンボルとなりました。

でも、一人の女性が亡き母を偲ぶというだけで、なぜ全米に共感が広まり、大統領をも動かして国の祝日となったのでしょう。そのことを知るために、アンナ・ジャーヴィスのお母さん、アン・ジャーヴィスのことをもう少し調べてみる必要があります。

アン・ジャーヴィスってどんな人?

アン・ジャーヴィス(Ann Marie Reeves Jarvis/1832~1905)という方は、ご主人が牧師だったこともあってか福祉活動に尽力された女性のようです。

1858年にはバージニア周辺の女性たちを組織して「Mother’s Day Work Club」を結成。病気で苦しむ人々を助けるための募金活動をしたり、子どもの死亡率を下げるために公衆衛生の教育や環境を改善するための活動に従事していました。

そして、1861年に南北戦争がおこると、「Mather’s Day Work Club」は中立を宣言。南北両陣営の区別なく兵士の看病にあたったと言われています。

終戦後は分断された人々の心の絆を取り戻そうと、「Mother’s Friend ship Day」というピクニックを企画。南北の母親たちの友情と祈りのもと、政治に関係なく、兵士や地域の住民たちを招いて和解に力を尽くしたそうです。

積極的な福祉活動をしていたアン・ジャーヴィスが亡くなったのは1905年のこと。その2年後の1907年に娘アンナが母親の記念礼拝を行い、翌1908年からは毎年、すべての母親のために記念礼拝が行われるようになりました。

記念礼拝を取り巻く時代を振り返ってみよう

この間、一貫してアンナは母の日を記念日として制定することを訴え続けます。これは一体なぜでしょう? 亡き母を想う気持ちからだけなのでしょうか?

当時の様子を調べてみると、それだけではないようです。

連合の首都リッチモンドが陥落して南北戦争が終結したのは1865年。でも、だからといって急に争いがなくなったわけではありません。合衆国の軍政の下、経済の再建や産業の再生が図られるのですが、腐敗の広がりや政治闘争などが原因で、合衆国軍は再建半ばで北部へ撤退してしまいます。1877年のことです。

このように、初期に掲げた理想が後退していく中、平和活動家のジュリア・ウォード・ハウ(Julia Ward Howe)によって提唱されたのが「母の日宣言」(Mother’s Day Proclamation)です。1872年のことでした。

夫や息子を戦場に送ることを拒否し、「平和のための母の日」(Mother’s Day for Peace)として毎年一度、イベントを開こうと訴えるものでした。

南北戦争後のアメリカ

こうしてみると、アメリカの母の日は内戦の歴史と深くかかわっているようですね。試しに「Wikipedia」のアメリカ軍の戦歴などを参考にまとめてみました。

(2011/02/20 加筆修正)

南北戦争後のアメリカの略歴と母の日関連の流れ
1858年 アン・ジャービス、バージニア周辺の女性たちを組織して「Mother’s Day Work Club」を結成。福祉活動に従事する。
1861年 南北戦争開戦
「Mather’s Day Work Club」は中立を宣言。南北両陣営の区別なく兵士の看病にあたる。
1865年 南北戦争終結 合衆国政府による再建が開始されるが、南部諸州の合衆国復帰や解放奴隷の処遇をめぐって事態は紛糾。
ジョンソン大統領の南部融和政策により公職を解かれていた南部地域の指導者が復職。
1867年 軍事再建法制定 黒人に対する冷遇や暴力の横行から、南部は合衆国政府の軍政下に置かれ、旧指導者は再度公職を解かれる。
1868年 「Mother’s Day Work Club」の企画による「Mother’s Friendship Day」が開催され、南北の交流が図られる。
6月までには旧南部連合諸州の大半が連邦議会に復活。しかし再建された多くの州で、州知事や下院・上院議員の大半を北部人男性が占めるようになる。
1870年~1871年 KKKといった超法規的組織による混乱を受けて、執行法が可決。アフリカ系米国人解放民の公民権を奪おうとする者は厳しく処罰されることになる。
1872年 ジュリア・ウォード・ハウにより母の日宣言が提唱される。
5月、連邦議会は総合的な恩赦法を可決。旧反乱軍のおよそ500人を除く全員に政治権を全面的に復活させる。
1874年 女性や子どもの工場労働者の労働時間を1日10時間に制限する法律をマサチューセッツ州議会が可決。
1877年 南部再建終了 南部諸州で民主党の勢力が増す。大統領選挙をめぐる紛争で、共和党はラザフォード・B・ヘイズを勝者とすることと交換に、連邦軍を北部へ撤退。南部の監視が放棄される。
南部諸州でジム・クロー法(黒人差別法)が制定される。
1898年 米西戦争 カリブ海および太平洋諸島に対してアメリカは影響力を持つようになる。
1899年 米比戦争
1905年 アン・ジャーヴィス死去
1907年 1907年5月第2日曜日、アンナ・ジャーヴィスはフィラデルフィアの自宅に友人を招き、追悼会を行う。このときMother’s Dayに関する構想を発表。
1908年 アンナ・ジャーヴィスの働きかけにより、母アン・ジャーヴィスが20年以上サンデー・スクールの教鞭を執っていたアンドリューズ・メソジスト・エピスコパル教会で記念礼拝が行われる。
ジョン・ワナメーカーの店頭で行われた母の日の記念会が新聞に掲載され、注目を浴びる。
1910年 ウエストバージニア州で母の日が祝日として議決される。
1912年 アンナ・ジャービスは「second Sunday in May」と「Mother’s Day」を商標登録し、母の日を正しく運営するためにThe Mother’s Day International Associationを設立する。
1913年 下院議員において、連邦政府のすべての関係者が母の日に白いカーネーションを着用することを全会一致で議決される。
1914年 ウィルソン大統領により、母の日が国民の祝日として制定される。
1916年 アダムソン法が制定され、鉄道労働者の1日8時間労働が定められる。
1917年~1918年 第一次世界大戦
1920年 女性参政権が獲得される。
1923年 アンナ・ジャーヴィスが母の日を祝日とすることを差し止める裁判を起こすが敗訴。
1924年 ジョンソン・リード法が制定され、新しい移民の流入が永久的に制限される。
1929年 世界恐慌 ニューヨーク証券取引所で株価が大暴落したことをきっかけに生じた世界規模の大恐慌が発生。
1934年 アメリカ郵政省から母の日の記念切手が発行される。
1939年~1945年 第二次世界大戦
1948年 アンナ・ジャーヴィス死去

アンナ・ジャーヴィスの想い

内戦後、理想は完成されませんでしたが、政治の注目はやがて外国の戦場へと移っていきます。この時代、主戦場はすべて海外だったので、アメリカ国内は比較的平和で、戦争といってもどこか別世界の話のように感じていた人が多かったみたいですよ。

でも、アンナが生きた時代をよく見ると、女性の参政権が認められたり、労働条件が改善されていく歴史と重なっていくようです。

全米に母の日が広がっていったのは商業ベースにうまくのったことも大きな要因としてありますが、労働環境が改善されていく中で、家族の絆を見直すような雰囲気もあったんじゃないかなと想像してしまいます。

戦争中は南北両陣営の区別なく看病にあたり、戦争後は対立の火種が消えない中で南北の和解に奔走した、お母さんのアン・ジャーヴィス──

そんな母親を偲ぶ記念礼拝で、アンナはモーゼの十戒に出てくる「汝の父母を敬え」という節を取り上げ、「母たちの恩にどう報いるのかを考えてください」と訴えたことが伝えられています。

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