宇髄さんがアオイちゃんのお尻を叩く行為は否定的な意見が多いのですが、日本の文化を通して見ると、少し違って見えます。
There seems to be a hint in the pillow book by Sei Shonagon.
「枕草子」にそのヒントがありそうです。
(この記事は、3巻、8巻、20巻、21巻、ファンブック第一弾のネタバレを含みます)
宇髄さんがアオイちゃんを攫う場面で、アオイちゃんのお尻を叩いてから返却しています。(第8巻 70話)
現在の感覚で見ると、性的な問題で不謹慎ということになってしまいますが、「鬼滅の刃」には日本古来の文化、宗教、そして歴史が、かなり綿密に織り込まれている可能性があるんですよね。
例えば第3巻 24話に出てくる「俺は長男だから我慢できたけど、次男だったら我慢できなかった」という炭治郎のセリフには、日本八大天狗の長男格である太郎坊天狗の名前のついた京都の大火のイメージがありました。
では、お尻を叩くことにも、何か重なるイメージがあるのでしょうか?
日本のお尻を叩く文化
「お尻を叩く」というと、現在は、しつけや催促、励ましといった意味になります。
「鬼滅の刃」第20巻 172話末のイラストでも、カナヲがアオイ直伝の叱り方を実践しているところが描かれていました。
でも、このお尻を叩くことは、かつて「嫁たたき」という行事があったことを思い出させます。
平安時代の「粥の木」の行事
「嫁たたき」とか「尻たたき」という風習は、今ではちょっとわかりにくくなってしまいましたが、行事自体はかなり古くから行われていて、「枕草子」にもその様子が描かれています。
十五日、節供まゐり(せっくまいり)据ゑ(すえ)、粥の木ひき隠して、家の御達(ごたち)、女房などのうかがふを、打たれじと用意して、常に後を心づかひしたるけしきも、いとをかしきに、いかにしたるにかあらむ、打ちあてたるは、いみじう興(きょう)ありてうち笑ひたるは、いとはえばえし。ねたしと思ひたるもことわりなり。
十五日、節句を献上して供え、粥の木を隠し持って、女官や女房たちが機会を狙っているのを、打たれまいと用心して常に後ろを注意している様子もたいそうおもしろいのに、どのようにしたものであろうか、打ち当てて、とてもおもしろがって大笑いしているのは、たいへん見ばえがして輝くようである。悔しがるのも当然である。
新らしう通ふ婿の君などの、内裏へまゐるほどをも心もとなう、所につけて我はと思ひたる女房の、のぞき、けしきばみ、奥の方にたたずまふを、前に居たる人は心得て笑ふを、「あなかま」と、まねき制すれども、女はた知らず顔にて、おほどかにて居たまへり。
新しく通うようになった婿君が、宮中へ参内するときをも待ち遠しく思って、ここは我こそはと思う女房が、ものの隙間から伺い、そわそわしながら、奥の方に立ち止まっているのを、(女君の)正面にいる人が事情を悟って笑うので、「あら、静かに」と、手まねでとどめるけれども、女君は全くわからないでいるような顔つきで、おっとりしていらっしゃる。
「ここなる物、取りはべらむ」など言ひ寄りて、走り打ちて逃ぐれば、ある限り、笑ふ。男君もにくからずうち笑みたるに、ことに驚かず、顔すこし赤みて居たるこそ、をかしけれ。
「ここにある物をお取りしましょう」と言いながら近づいて、サッと打って逃げ去れば、残らず皆笑う。男君も感じよく微笑んでいるが、(女君は)特に驚くこともなく、顔をいくらか赤くして座っているのも愛らしいことだ。
また、かたみに打ちて、男をさへぞ打つめる。いかなる心にかあらむ、泣き腹立ちつつ、人をのろひ、まがまがしく言ふもあるこそ、をかしけれ。内裏わたりなどのやむごとなきも、今日は皆乱れて、かしこまりなし。
その上に、(女房たちは)互いに打ちあいながら、男までも打つことがあるようだ。どのような心情であろうか、泣いて腹を立てながら、人を罵り、憎らしく言う人もいて、こっけいである。宮中辺りなどの高貴な身分の方々も、今日は皆きちんとした態度もなくなり、慎むこともない。
十五日の節句というのは、「望粥(もちがゆ)の節句」ともいって、宮中では穀物を7種類使った七種粥(ななくさがゆ)を、そして一般では小豆を入れた小豆粥をつくっていました。現在の小正月の小豆粥につながる行事です。
旧暦の十五日は満月(望月)です。この日に食べるので望粥といいました。
無礼講で皆が楽しむ中、おっとりとした反応の女君は、ちょっとカナヲに似ているところがありますよね(笑)
「粥杖」(かゆづゑ)とも呼ばれる道具で、正月十五日の粥を炊くときに使う、かき混ぜ棒のことです。粥を煮る際に使い、米粒がどんなふうにつくのかで、その年の作物の出来を占ったりしていました。
また、粥杖で女性の腰(お尻)を打つと、男児を産むと言われていました。
少しずつ形が変わってきているようですが、現在も安産祈願や子授け、夫婦円満を祈願する行事として、「嫁たたき」を伝える地域があります。
正月行事「嫁ごの尻叩き」
前年に結婚した花嫁のお尻を子どもたちが藁を束ねた棒で叩くというもので、水利の便が悪い小倉村にお嫁さんが居着いてくれるように、また子宝に恵まれるようにという願いを込めて行われます。
※1月14日頃に開催
弁財天宮のお祭り「しねり弁天たたき地蔵まつり」
6月30日の夜に、男性は「しねり弁天」と声をかければ女性の腕をつねる(魚沼地方の方言で「しねり」)ことができ、女性は「たたき地蔵」と声をかければ仕返しに男性の背中を叩くことができます。女性が男性の背中を叩くのはお礼の意味もあるとのこと。
宝暦年間に上野・不忍池の弁天堂で正月・初巳の日に行われていた安産祈願の行事が由来といい、当時は女性のお尻をつねり、つねられた人は感謝の気持で相手の背中をたたき返したといいます。
お祭りでは、金精様(こんせいさま)と呼ばれる男性のシンボルを模した御神体が町を練り歩く神事も行われます。
※毎年6月30日に開催
参考 嫁ごの尻たたきについて知りたい。 | レファレンス協同データベース
参考 天下の奇祭 しねり弁天 たたき地蔵 | 新潟県魚沼市で毎年6月30日に行われる しねり弁天たたき地蔵まつり公式サイト
嫁たたきに使われる樹木
「嫁たたき」に使われる樹木は、ヌルデやクリ、カシ、ヤナギなど、いろいろな樹木が使われていました。
「鬼滅の刃」にも関連していそうなヤナギとタラノキは、陰陽五行に沿った理由があるようです。
梅若伝説に登場するヤナギ
ヤナギといえば、梅若伝説でも「墓標としてヤナギを植えて欲しい」と梅若丸が言い残していましたよね。
ヤナギは水辺や山地に生息する樹木で、春の芽吹きが早く、陰陽五行の「陰」の季節である「冬」を送り、「陽」の季節である「春」を迎えるとされる樹木の一つです。
この世とあの世の境の象徴とも考えられていて、江戸時代の絵画などでは、ヤナギの下には幽霊がつきものでした。これはヤナギ(陽)と幽霊(陰)が補い合う陰陽調和の組み合わせになっています。
また、神霊を降臨させる力があると考えられていて、地域によっては門松にヤナギを加える所もありました。
参考 手づくりミニ門松講座 | 森と水の郷あきた あきた森づくり活動サポートセンター 総合情報サイト
炭治郎につながるタラノキ
粥杖では使用例が見当たりませんでしたが、タラノキも節が少ないため嫁たたきにふさわしい材料とされていたようです。
こちらもヤナギと同じく陽の光を好む樹木で、伐採や山火事で土地が開けると、他の樹木に先駆けて生育を始めるパイオニア植物です。
鋭いトゲは悪霊を払う力があると信じられていて、瀬戸内海西部ではオニグイとも呼ばれ、節分の魔除けにタラノキの枝が使われていました。
また、タラノキの別名は、ずばり「ヨメタタキ」といいます。
「秋田のケズリカケとその伝承について」によると、由利郡象潟町大森では「柄の部分だけ皮を残してはいだ棒に白和紙の切紙を結びつけたもの」が使われていたのだそう。
ファンブック第一弾では、炭治郎の好きなものは「タラの芽」(26頁)と紹介されていて、「嫁たたき」の行事と関連していそうです。
参考 秋田のケズリカケとその伝承について 木崎和広 秋田県立博物館研究報告 | 秋田県立博物館
興味深いことに、「山の神 易・五行と日本の原始蛇信仰」では、日本でも古くは祖霊・先祖霊として蛇が信仰されていたのではないかと指摘していて、神木とされる樹木には以下の特徴があるといいます。
蛇の特徴は手足がなく、頭から尾まで一本棒で、全体の形は男根相似である。そこでこの蛇に相似の樹木は神木として信仰された。
この特徴を持つ神木として、「蒲葵」(びろう)が挙げられています。
まっすぐのびた幹の先に葉がまとまって生い茂っているわけですが、上の図のように、この形はヤナギやタラも似てるんですよね。
もしかすると、蒲葵と同じように「祖神としての蛇に見立てた」植物なのかもしれませんね。
参考 園芸おもしろ豆知識 2020年 | 公益財団法人 岡山市公演協会
参考 「山の神 易・五行と日本の原始蛇信仰」吉野裕子著
嫁たたきにつながる祖霊信仰と山の神
「嫁たたき」が行われていた旧暦1月15日は小正月といって、「とんど焼き」や「左義長」(さぎちょう)などの火祭りが各地で行われる日でもあります。
とんどの火で正月飾りを焚き上げることで、一年間の災いを払い、五穀豊穣や無病息災、子孫繁栄を願います。また、書き初めの清書をとんど焼きの火に入れて、書いた紙や燃えかすが高く舞い上がるほど習字が上達するとも言われていました。
こうした火祭りを行う地域の中には、「正月に迎えた神様を炎や煙とともに送るのだ」と説明する所もあります。
参考 紀文のお正月 お正月のいわれ 大切にしたいお正月の風習 お正月と年神様 | 紀文
柳田国男説では、「田の神、山の神は春秋に交代する輪廻の相をもつ」という言い伝えが日本全国に広く残されていることから、「田地を大切にする暮らしの中から生まれた田の神は、山に鎮まる先祖の霊ではないか」と指摘していて、上図のようなサイクルを巡るとしています。
こうしてみると、山の神に関わる重要な行事「事八日」(2月8日と12月8日の行事)を中心に、「鬼滅の刃」のキャラクターと重なるものが見つかりますよ。(ファンブック第一弾 46頁、70頁、34頁、74頁、26頁)
- 田の神の事始め(2月~3月)、多くの地域で2月8日 … 冨岡義勇の「誕生日」
- 田の神の事始め(2月~3月)や田の神の事納め(10月)に餅やおはぎをお供えする … 不死川実弥の好きなものは「おはぎ」
- 年神様の事始め(12月8日)、田の神の事始め(2月8日)の裁縫上達を願う針供養 … 竈門禰豆子の趣味は「裁縫」
- 年神様を迎えるための飾り松を年内(多くは12月13日)に切りに行き、12月28日には飾り付ける … 竈門禰豆子の「誕生日」。
- 年神様の事納め(1月~2月)、地域によっては1月7日 … 不死川玄弥の「誕生日」
- 小正月の嫁たたき(1月14日夜~1月15日)に、タラノキも使われている … 炭治郎の好きなものは「タラの芽」
小正月の早朝に、梅や柿などの果実の豊作を祈願して、鉈(なた)や粥杖を持った1人が木の幹を打ったり傷をつけたりして、「なるか、ならぬか、ならねば切るぞ」と唱え、もう1人が「なります、なります」と答えて豊作を約束する行事。
ブルガリアにもクリスマスイブに実をつけない果樹に斧を振っておどす習俗があり、成木責めの行事と対応していると指摘する研究者もいます。
旧暦10月に行われる農事。関東では「十日夜」(旧暦10月10日)、関西では「亥の子」(旧暦10月の亥の日)といいます。
今年の収穫に感謝し、翌年の豊穣を願って餅やおはぎ(ぼたもち)を田の神にお供えします。関西では亥の子の日に火を入れると火事にならないといって、お茶の炉開きをしたり、こたつ開きをしたりします。陰陽五行で「亥」は水に属するためです。
「尻たたき」が示すヒント
宇髄さんがアオイちゃんのお尻を叩いたのは、こうした山の神の文化を背景とした「尻たたき」を示すヒントだとすると、いろいろ興味深い点が浮かび上がってきます。
例えば、宮中の「尻たたき」の行事を描いた「枕草子」の作者である清少納言や、別記事で煉獄さんの趣味と一致することで注目した能「隅田川」(観世十郎元雅作)に出てくる山王権現です。
清少納言につながる鬼退治
父は歌人の清原元輔(きよはらのもとすけ)で、「万葉集」の訓読作業や「後撰和歌集」の編纂にあたった梨壺の五人の一人。そして祖父は、中古三十六歌仙の一人である清原深養父(きよはらのふかやぶ)です。清少納言も女流文学者なので、学者の家系といえそうですね。
でも、清少納言の兄・清原致信(きよはらのむねのぶ)は少し変わっていて、藤原保昌の郎党だったことから武芸に覚えのある人物だったようです。
藤原保昌といえば、貴族の出身でありながら武芸に優れていると評価され、古典の鬼退治伝説にも登場する人物です。
血縁関係のない従者のこと。血縁関係がある者は「家の子」と言います。
清少納言自身も、晩年に落飾して尼になった姿を「鬼の如くなる形の女法師」と形容されたりして、妙に鬼に縁があるんですよね。
清少納言が仕えていたのは一条天皇の皇后・定子ですが、一条天皇にはもう一人の皇后・彰子がいて、彰子の女官には「源氏物語」の作者である紫式部がいます。「源氏物語」は「鬼滅の刃」の物語の中でも、度々、重なるイメージがありました。
また、藤原頼通(ふじわらのよりみち)が、父・道長から譲り受けた宇治の別邸を寺に改めて平等院としたのは1052年のこと。清少納言や紫式部が活躍した時代に重なります。
平等院には煉獄さんの弟・千寿郎につながるキーワードがあり、平等院を構成する世界観には12鬼月と9人の柱に重なる両界曼荼羅がありました。
源頼光らが退治した酒天童子の首級は、帝らの検分を終えた後、平等院の宝蔵に納められたという伝説もあり、平安時代に重なるキーワードは全て緩やかにつながっていくのです。
梅若丸に生まれ変わった比叡山の神
そして、隅田川の木母寺に伝わる「梅若伝説」に出てくる神様「山王権現」は、名前に「山王」とあるように、山に関わる神様です。
子宝を願って吉田少将惟房(よしだしょうしょう これふさ)と妻・花御前(はなごぜん)が参拝した「近江国坂本の日吉山王」というのは、現在の滋賀県大津市坂本にある日吉大社(ひよしたいしゃ)のこと。
「山王権現」は「日吉山王権現」の略で、日吉大社や日枝神社の祭神のことです。
比叡山・延暦寺の守護神であり、京都の鬼門を守護する神様でもあります。
「山王」の名前は、最澄が比叡山に天台宗を開いた際に、唐の天台山守護神「山王元弼真君」(サンノウゲンヒツシンクン)にちなんで日吉大神(ヒヨシノオオカミ)のことを山王権現と称したのがその始まり。
多いときは60以上のお社があったようですが、焼失や再興を繰り返して、現在は東本宮に祀られる大山咋神(オオヤマクイノカミ)と西本宮に祀られる大己貴神(オオナムチノカミ)(=大国主命)を中心に約40のお社があり、総称して日吉大神と呼ばれています。
- 大山咋神 … 東本宮に祀られている神様
- 大己貴神 … 西本宮に祀られている神様
つまり、「山王権現=日吉大神」という一柱の神様がいるわけではなくて、長い歴史の中で様々な神様が比叡山に集まった結果が「日吉大神」で、その神々が「山王権現」とも呼ばれているというわけです。
日吉大社のホームページによると、日吉大神は平安京ができる以前から比叡山の麓に鎮座しているそうで、その創建は崇神天皇7年(紀元前91年)といいます。
大己貴神は、大国主命(オオクニヌシノミコト)のこと。この神様には善逸や宇髄さんと重なるイメージがありました。
そして大山咋神ですが、こちらは不明な点が多く、いろいろな解釈があるようです。
「國學院大學『古典文化学』事業」のサイトによると、「山」の字に上声(じょうしょう)の声注のあることから、「大山、咋」という構成ではなく「大、山咋」と考えられているとして、こんなふうに説明されていました。
- 「山咋」の意味は、その山の地主神の意ではないかとする説
- 「山咋」は「山杙」(くい)を意味し、山頂の境界をなす棒杙(ぼうぐい)の神格化とする説
- 山頂で行う祭に依代(よりしろ)として打ち込む斎杭(いくい)の神格化とする説
大山咋神は山にかかわる神様ということ以外、はっきりしたことはわからない神様のようです。
参考 神名データベース 大山咋神 | 國學院大學「古典文化学」事業
参考 日吉大社について | 山王総本宮 日吉大社
参考 山王鳥居・山王信仰とはなんですか? よくいただくご質問 | 山王総本宮 日吉大社
漢字には意味によって複数の音があるため、漢文にはどんな発音をする漢字なのか説明するための表記があります。
声柱は声調とも言うようで、平声(ひょうしょう)、上声(じょうしょう)、去声(きょしょう)、入声(にっしょう)の4種類があり、「古事記」では上声(尻上がりのアクセントを指定している)と去声(尻下がりのアクセントを指定している)があります。
訓読するときや、現代語訳で読むときは必要ないので省かれますが、どんな発音をする漢字なのかを知ることは、その漢字がどの意味で使われているのかを知ることにもなるので、原文を解読する際には重要な手掛かりとなります。
福岡からやって来た猿田彦の伝説
大山咋神もそうですが、日吉神社の神使とされている「神猿」(まさる)も、なぜ「日吉といえば猿」と言われるようになったのか、こちらもはっきりとはわからないといいます。
もともと比叡山には猿が多く生息していたとはいうものの、いつ頃から魔除けの象徴として大切に扱われるようになったのかは不明というんですね。
でも、ワニ先生の出身地である福岡県には、日吉神社に関してちょっと興味深い伝説が残っています。那珂川市(なかがわし)にある市ノ瀬日吉神社は、比叡山・日吉神社の元宮だと伝えられているのです。
日吉神社由緒記
猿田彦命(さるたひこのみこと)は古事記の天孫降臨(てんそんこうりん)の条に最初に現れる国津神(くにつかみ)であります。天照大神(あまてらすおおみかみ)から授けられた斎庭(ゆにわ)の稲穂を育てるべき水田を開拓して待ち給うた神と語られます。“さるた”とは今も対馬と種子島に僅(わず)かに保存されている陸稲(おかぼ)の一品種なる赤米のことであります。
(中略)
伝教大師(でんきょうたいし)最澄(さいちょう)は、延暦(えんりゃく)二十四(八〇五)年唐から帰朝の折に筑紫で最初の天台派寺院たる背振山(せふりさん)東門寺(とうもんじ)を開基(かいき)いたしました。そして、これを比叡山延暦寺に移した時に、その守護神としてここの山王神猿田彦命(さんおうのかみ さるたひこのみこと)を勧請(かんじょう)して彼の地に日枝神社(ひえじんじゃ)を創建したと言う伝説が残っております。
日枝神社は、現在の日吉神社のこと。
唐から戻った最澄が、最初の天台派寺院として開基した筑紫・背振山東門寺を比叡山・延暦寺に移したといい、その守護神として山王神猿田彦命も勧請して日枝神社を創始したというのです。
背振山東門寺は明治になってから周辺の神社と合祀を繰り返して、現在は市ノ瀬日吉神社となっているそうです。
参考 猿田彦大神 | ブログ「神話を科学する(神社探訪)」
参考 No.092 驚いた!福岡県那珂川の市ノ瀬・日吉神社は元宮であった | 宮原誠一の神社見聞牒
比叡山に残る猿田彦神
では、比叡山には猿田彦神の形跡はあるのでしょうか?
「山王一実神道」(さんのういちじつしんとう)では、大行事権現(ダイギョウジゴンゲン)は高皇産霊尊(タカミムスビノミコト)、もしくは猿田彦神に習合しているとしています。
大行事権現は山王二十一社(さんのうにじゅういっしゃ)のうち、中七社(なかななしゃ)の一社で、現在は大物忌神社(おおものいみのじんじゃ)と呼ばれています。
興味深いことに、「大行事権現」は山王権現の惣後見とされていて、山王曼荼羅などには猿の顔をした神様として描かれているのです。
いくつかの教義や主張を一つにまとめること。習合思想は本地垂迹思想(ほんじすいじゃくしそう)ともいいます。
「法華経」では、仏は無限の命を持ち、人々を導くために姿を変えて現れるといい、その一つがお釈迦様であると解説されているので、「じゃあ、日本の神様も入るじゃん」てことで、「本地仏が日本古来の神の姿を借りて現れる」という本地垂迹という考え方が生まれました。
【山王二十一社の神様と本地仏の一例】
現社名 | 祭神名 | 旧称 | 本地仏 | |
上七社
|
西本宮 | 大己貴神 | 大宮(大比叡) | 釈迦如来 |
東本宮 | 大山咋神 | 二宮(小比叡) | 薬師如来 | |
中七社 | 大物忌神社 | 大年神 | 大行事 | 毘沙門天 |
「山王一実神道」というのは天台宗から生まれた山王神道に基づく神道説で、「山王」と「一実」を結合させた南光坊天海(なんこうぼう てんかい)により発展しました。
南光坊天海は、徳川家康、秀忠、家光と3代にわたって仕えた天台宗の僧侶で、家康が亡くなった後、その神格化に大きな役割を果たした人物です。徳川家康は伊之助にイメージが重なる人物だったので、こういうところで関係者が関わってくるのも気になるところです。
そして、「大行事権現」(現在の大物忌神社)本殿後方にある山裾には湧き水があり、日吉大社ではこれを「大行事水」と呼んでいます。
「大行事水」は境内に張り巡らされた水路を通って大宮川へ入り、人里を下って、古来「水の浄土」として敬われてきた琵琶湖へと流れていくのです。
こうした神聖な水の流れの始まりを守る神様が、大行事権現なんですね。
大行事権現で祀られている大年神は、「古事記」では大山咋神の父神として登場する神様です。
「咋」の字が持つ、「猿」と「うた」の意味
- 背振山東門寺(現・市ノ瀬日吉神社)から比叡山へ、『猿』の字を持つ猿田彦命が勧請されたという伝説がある。
- 大行寺権現は猿面の神様として描かれ、猿田彦命と重なりそう。
- 大行事権現は、大山咋神の父神・大年神(おおとしのかみ)と言われている。
こんなふうに考えていくと、「大山咋神」にも猿の姿が見えてきそうです。試しに「角川 漢和中辞典」で「咋」の字を調べてみると、こんな字義が解説されていました。
1. くう(・ふ)、かむ
2. 大声
3. やかましい。かまびすしい
山で大声を出してやかましいもの、そして噛みつくものといったら猿ですよね。
「咋」の一つ前にある漢字「呷」(コウ、くう)には「呷呷」という熟語があり、鴨の鳴き声を意味する言葉だといいます。
もう一つ前の「呱」(コ)という漢字には「呱呱」という熟語があり、これは乳飲み子の泣く声を意味する言葉だと説明されていて、この並びからいっても猿っぽいですよね(笑)
「咋」の字には「咋咋」といった熟語はありませんが、「咋唶」(さくしゅう)という熟語が1つだけあります。意味は「ひなうた、俗歌」です。
そういえば、緑壱の奥さんの名前は「うた」でした。(第21巻 186話)
そして、源平合戦が起こる混乱の世に発生した大火には、炭治郎の「俺は長男だから我慢できた」というセリフに絡む大天狗「太郎坊」「次郎坊」の名前がつけられていましたが、源平合戦を引き起こす元凶となった後白河天皇も、親王時代は流行歌「今様」にのめり込み、その果てに歌謡集「梁塵秘抄」(りょうじんひしょう)(平安末期)を編集するほど、「うた」を愛した人物です。
兄・崇徳上皇(崇徳院)とは朝廷を二分する争いとなって、敗れた崇徳上皇は讃岐に配流後、怨霊になったという伝説があります。
つまり後白河天皇は、今様(うた)を愛し、怨霊(鬼)になった兄弟がいるという伝説を持つ人物なんですね。
猿のイメージのある「咋」の字は、文字の意味でも「鬼滅の刃」の物語に絡んできそうです。
こうしてみると、宇髄さんがアオイちゃんのお尻を叩いたのも、やはり面白半分に叩いているというわけではなさそうです。
「枕草子」にさらに注目していくと、また別のヒントにもつながっていきそうですが… これは別記事にまとめていきますね。
当ブログには、宇髄さんに関する考察が他にもあります。よかったらこちらも覗いてみてくださいね。