煉獄さんが無限列車に乗車することは決まってた? 姫路の奇祭に重なる「鬼滅の刃」

三ツ山大祭

Himeji’s ItateHyouzu Shrine has a festival that takes place once every 20 years.
姫路の射楯兵主神社は、20年に一度行われるお祭りがあります。

The three “Tsukuriyama” that resemble a Tsukuriyama mountain are for inviting the gods. Each has a story.
山に似せた3つの「造り山」は神々を招待するためのものです。それぞれに物語があります。

There seems to be a hint of Demon Slayer hidden in this story.
この物語には、「鬼滅の刃」のヒントが隠れていそうです。

(この記事は、第1巻、第2巻、第3巻、第5巻、第7巻、第8巻、第16巻、第19巻、第22巻、第23巻、アニメ版26話、ファンブック第1弾のネタバレを含みます)
 

一つ前の記事では、疱瘡を介した煉獄さんとミミズクの関係を見てきましたが、この記事では神使としてのミミズクに注目して見ていこうと思います。

調べてみると、「鬼滅の刃」の重要なヒントが隠れていそうですよ。

ミミズクが神使の「射楯兵主神社」

ミミズクを神使とする神社に、姫路にある射楯兵主神社(いたてひょうずじんじゃ)があります。

この神社に祀られているのは、次の二柱の神様です。

 

・射楯大神(いたてのおおかみ)
・兵主大神(ひょうずのおおかみ)

 

さらに播磨国の大小の明神・百七十四座が祀られていることから、「播磨国総社」(はりまのくに そうしゃ)と称しています。

「日本書紀」から見た射楯大神

射楯大神は「日本書紀」に出てくる五十猛命(イタケルノミコト)のことで、「古事記」では大屋毘古神(オホヤビコノカミ)のことと言われている神様です。

五十猛命は「日本書紀」では素戔嗚命(スサノオノミコト)の御子神として登場する神様で、日本中に木を植えてまわったことで「木の神様」といわれています。ミミズクのイメージは、こんなところからきているのでしょうか。

「古事記」から見た射楯大神

「古事記」に出てくる大屋毘古神は、伊邪那岐、伊邪那美の神生みによって生まれた神様で、大国主命(オオクニヌシノミコト)が八十神(ヤソガミ)の迫害から逃れるために根の国へ逃げるようアドバイスしてくれた神様でした。

「播磨風土記」から見た射楯大神

また、射楯大神は「播磨風土記」(霊亀713年ごろ)に出てくる神功皇后(じんぐうこうごう)の乗船守護神としてあらわれた「伊太の神」(いたてのかみ)のことと考えられて、この故事にちなんで御神徳は「勝利や幸運へ導く道開きの神」とされています。煉獄さんにぴったりですよね。

記紀から見た兵主大神

兵主大神は記紀(日本書紀、古事記)には出てきませんが、記紀に出てくる八千矛神(ヤチホコノカミ)のことと解釈されていて、大国主命と同一神と言われています。

「日本書紀」では大己貴神(オオナムチノミコト)、古事記では大穴牟遅神(オオナムチノミコト)として知られている神様です。

大国主命や大穴牟遅神は、善逸や宇髄さんとイメージが重なる神様でした。

 

 

参考 射楯兵主神社 | 播磨国総社 射楯兵主神社
 

将門につながる、ミミズクの神社に伝わる奇祭

この神社には20年に一度行われる臨時祭「三ツ山大祭」と、60年に一度行われる「一ツ山大祭」があります。どちらも天神地祇祭(てんしんちぎさい)として行われるお祭りです。

 

天神地祇
天地のすべての神々を指す。天つ神(高天原から降臨した神々)と、国つ神(この国に生まれた神、天孫降臨以前にこの国に存在していた神や豪族など)のこと。

 

お祭りの起源は、祭神の兵主大神を迎えたと伝えられている日にちにあります。

それが欽明天皇25年(564年)6月11日なのですが、この日がちょうど「丁卯の日」(ていぼうのひ)だったため、およそ60年に一度巡ってくる6月11日の丁卯の日に「一ツ山大祭」が行われていました。

三ツ山大祭は臨時祭で、承平5年(935年)に発生した平将門の乱と、天慶2年(939年)に発生した藤原純友の乱を鎮定するために、天慶2年(939年)に斎行されたのが始まりです。

どちらも武士の起こした反乱で、当時の朝廷の権力を揺るがした大事件です。

三ツ山大祭が始まったころは不定期の斎行だったようですが、播磨国守護職だった赤松晴政により、天文2年(1533年)から、20年に一度の式年祭と定められます。

「三ツ山」の名前のとおり、神門の外に3基の造り山が築かれ、頂上には神様を迎えるための山上殿(さんじょうでん)が設けられます。「二色山」には播磨国の大小明神、「五色山」には九所御霊大神(くしょごりょうおおかみ)、「小袖山」には天神地祇を迎えるとされています。

興味深いのは、この造り山を飾る、造り人形のモデルとなっている物語です。こんな感じ。

 

・小袖山(こそでやま) … 俵藤太の百足退治(三上山)
・二色山(にしきやま) … 仁田四郎忠常の富士猪退治(富士山)
・五色山(ごしきやま) … 源頼光の大江山鬼退治(大江山)

 

小袖山が教えてくれる無限列車のイメージ

小袖山

“Kosodeyama” is one of the festival decorations of the ITATE-HYOUZU-JINJYA shrine.
「小袖山」は、射楯兵主神社のお祭りの飾りの一つです。

Kosode is an underwear of the old days. They are attached to a surface that resembles a mountain called “Tsukuriyama.” It is designed so that a legendary giant centipede wraps around it.
小袖は昔の下着です。「造り山」と呼ばれる山を模した表面に貼り付けられています。その周りを伝説のオオムカデが巻き付くようにデザインされています。

This is reminiscent of the Mugen Train that carries a large number of people.
これは大勢の人を乗せて走る無限列車を連想させます。

 

たくさんの小袖が覆う造り山に、ぐるりと巻きつく大百足。この光景、大勢の人を乗せて走る無限列車の姿に重なって見えてきませんか?

この小袖は厄災と穢れの象徴で、京都の祇園会(祇園祭)と共通していると考えられるそうです。

 
参考 第46回:節目としての三つ山大祭 | 兵庫歴史ステーション 学芸員コラム れきはく講座
 

小袖山を飾るのは、三上山の大百足とそれを退治する俵藤太(たわらのとうた)こと藤原秀郷(ふじわらのひでさと)です。

秀郷は平将門の討伐を果たした武功により、武門の最高名誉職とされた鎮守府将軍となって、軍事的な支配権を確立した武士の祖とされています。

俵藤太の百足退治と無限列車の共通点

「俵藤太の百足退治」の詳細は、「御伽草子」(鎌倉時代末~江戸時代)の「俵藤太物語」に詳しく描かれています。ざっくりまとめるとこんな感じ。

 

朱雀院(930年~945年)の時代のこと、近江国にある勢多の橋(せたのはし)に長さが二十丈(約60m)にもなる大蛇が現れて、人々を恐れさせるということがありました。

誰も橋を渡れないでいたところ、京の都から帰ってきた若者が通りかかり、恐れる様子もなく大蛇の背を踏みつけて橋を渡っていってしまいました。この人が藤原秀郷です。

その夜、秀郷が東海道のとある宿に泊まっていると、美しい娘に姿を変えた大蛇が現れ、自分は琵琶湖にすむ龍神の一族の者で、秀郷の勇気を見込んで、一族を苦しめる三上山の百足を退治してほしいと頼むのでした。

秀郷は先祖伝来の太刀を腰に差し、五人張り(ごにんばり)重藤の大弓(しげとうのおおゆみ)に関弦(せきげん)を掛け、十五束三伏(じゅうごそくみつぶせ)もある三年竹に鏃(やじり)の根本が篦(の)の半分を超える大矢を三筋(みすじ)、脇に挟んで勢多へ向かいました。

琵琶湖の水際で待ち構えていると、三上山に稲光が何度も走り、風雨が激しくなる中を、比良の高嶺よりも高く焚き上げた2,000~3,000あまりの松明のようなものを伴って、三上山が動くがごとく揺れ動きながら迫ってくるものがありました。

「百千万の雷もかくやあらむ」というほどの轟音が谷を轟かせる様子にも、秀郷は驚くことなく、化け物が近づくのを待ち、眉間の真ん中を狙って矢を放ちます。

一の矢、二の矢は跳ね返されてしまうのですが、最後の三の矢を放つとき、鏃につばを吐きかけて「南無八幡大菩薩」と祈りながら矢を放ったところ、松明のような明かりが一度にパッと消え、百千万の雷のごとき轟音もやんで、ようやく倒すことができたのでした。

これは最後の三の矢を射るときに鏃につばを塗ったためで、物語では「唾は総じて百足の毒なればなり」と説明されています。

召使いの者に松明をつけさせ、化け物の様子を確認したところ、まごうべくもなき大百足で、2,000~3,000あまりの松明と見えたのは、百足の足だったことがわかります。件の矢は、眉間の只中を通って喉の下まで突き抜けていました。

大百足がいなくなって喜んだ龍女は、秀郷を竜宮へ連れていき、お礼として尽きることのない米俵や巻絹、子孫も守ってくれるという太刀や鎧、日本の国の宝として釣鐘を贈りました。

このことから、秀郷は「俵藤太」(藤太は藤原の長男のこと)と呼ばれるようになったということです。

 

五人張り(ごにんばり)
五人がかりで張る弓のこと。
重藤の弓(しげとおのゆみ)
木材と竹を組み合わせたものに藤蔓を巻きつけて補強した大弓のこと。重藤の弓は、波除稲荷神社では源為朝公に由来する大弓が疫病除けに使われたり、大相撲の結びの一番の後に行われる弓取り式でも使われています。
関弦(せきげん)
弦苧(つるお)に黒く漆を塗った上に絹糸を巻き、さらに上から漆で塗り固めたもの。
十五束三伏(じゅうごそくみつぶせ)
握りこぶし一五個分の幅に指三本を伏せた幅を加えた長さ。通常の矢は十二束。

 

こうしてみると、谷に響き渡る轟音をあげながら山の動くが如く進む百足の様子は、機関車の姿にも重なってきますよね。

アニメ版26話の最後には、山へ向かって走っていく無限列車が出てきますが、上空から見下ろした光景が「頸の骨のように見える」とSNSで話題になっていました。

頸の骨のように見えたという客車の窓から漏れるいくつもの光が「何千もの松明を灯したかのように見える大百足の足」と見れば、無限列車は俵藤太の大百足とも言えそうです。

 

追記
映画「鬼滅の刃 無限列車編」では、伊之助の見る夢の中で、ムカデのような足を生やした機関車が洞窟の中で眠っている様子が描かれていました。意外とアニメのほうがストレートに描かれているのかもしれませんね。

 

炭治郎とも重なる小袖山

そして、この小袖山は、炭治郎にもイメージが重なりそうなのです。

炭治郎が住んでいたのは、東京都、山梨県、埼玉県の1都2県にまたがる雲取山です(ファンブック第1弾 26頁)。この山には「平将門迷走ルート」があります。

丹波山村に残る将門伝説をもとに、2017年6月に観光向けに設置されたもので、七ツ石山から雲取山に至る道に合計12カ所の看板が設けられています。

 

(平将門 迷走ルート モノローグ)
1. 将門、丹波山に来る
2. お祭と鴨沢の福寿寺
3. 釜場(かんば)タワ
4. 小袖(こそで)
5. 茶煮場(ちゃにっぱ)
6. 風呂岩(すいほろいわ)
7. 堂所(どうどころ)
8. 紫久保(むらさきくぼ)
9. 七ツ石神社と七ツ石山
10. 大血川の悲劇
(平将門 迷走ルート エピローグ)

 

この中で興味深いのは、「4. 小袖」と「2. お祭りと鴨沢の福寿寺」です。

「4」にまつわる伝説は、川で寛いでいた将門一行が夕立にあって慌てて身繕いしたため、後には将門の小袖が残されていたといいます。そのため、川と土地の名前が「小袖」になったのだそう。

雲取山の登山口となる丹波山村村営駐車場から10分弱ほど登っていくと、「小袖山」(1054m)の三角点があり、山の名前にもなっています。

射楯兵主神社の造り山の名前「小袖山」と、雲取山の平将門迷走ルートのそばにある山の名前「小袖山」が一致しているんですね。

「2」にまつわる伝説は、「ここまで来れば大丈夫」と安心した将門一行が、呑龍神社(呑龍権現)の神楽堂で、三日三晩のお祭り騒ぎをして寛いだといいます。

そして、このそばには飛龍山の登山口があって、西東京バスのバス停があるのですが、この名前がずばり「お祭」というのです。

「具体的には何を司る神ですか?」と尋ねる炭治郎に、宇髄さんは「派手を司る神、祭りの神だ」と名乗っていたのを思い出しますよね。(第8巻 71話)

そもそも敗走して逃げている最中に、やたら寛いでいるのはどういうことかと、小一時間ほど膝を突き合わせて将門公に問いただしたいところですが(笑)

俵藤太の他に小袖山も、将門伝説につながっていくのは興味深いものがあります。

鬼滅の刃に織り込まれた源平の歴史

二色山

Nishiki-yama, as the name suggests, is a mountain made of two colors of cloth wrapped in white and blue. These two colors represent Mt.Fuji.
二色山は、その名のとおり、白と青の2色の布でできた山です。この2色は富士山を表しています。

It expresses the legend of Tadatsune Shiro Nitta, a loyal retainer of Minamoto No Yoritomo.
源頼朝の忠臣、仁田四郎忠常の伝説を表現しています。

 
参考 三ツ山大祭Liveダイジェスト版 | NPO法人姫路コンベンションサポート(Youtube)
 

二色山に表現されている武者は、仁田四郎忠常(にった しろう ただつね)です。

源頼朝の挙兵(治承4年、1180年)から付き従っていた忠臣で、武勇の誉れ高い鎌倉武士です。平氏追討では頼朝の弟・範頼に従って各地を転戦。義経を追討した奥州征伐(文治5年、1189年)にも加わりました。

頼朝が亡くなった後も二代目将軍・頼家に仕え、頼家の嫡子・一幡(いちまん)の乳母夫(めのとぶ)に就任するほど信任を得ていました。

造り山に表される「富士猪退治」は、建久4年(1193年)5月に行われた、富士の裾野の巻狩りの場面。頼朝に向かってくる大猪を見事に退治したという逸話が元になっています。

また、忠常は、建仁3年(1203年)5月~6月にかけて、伊豆国から駿河国に移動して行われた巻狩りにも参加していて、頼家の命で富士山の人穴(ひとあな)(富士の風穴のこと)を探索しています。

ここで不思議な光に包まれた、富士浅間権現を思わせる怪異に遭遇するのは有名な話です。

 

建仁3年(1203年)に行われた駿河国の巻狩りにおいて、山麓の大谷で大きな穴が見つかり、頼家の命により忠常が探索に出るのですが、洞内で災難に遭ってしまいます。

家来5人を連れて行き、戻ってこれたのは忠常と家来1人だけでした。

その報告によると、洞内は流れの激しい河があって先に進むことができず、その向こうには燃える火の光とは明らかに違う光が見え、その光の中に鬼とも神ともつかぬ白衣白髪の不思議な人の姿があったといいます。

その光を見た途端、家来4人が死んでしまうのですが、忠常はその御霊を礼拝したところ、かすかな声で導きがあり、今回の探索で頼家からたまわった剣を河へ投げ入れることで難を逃れることができたのでした。

忠常の帰還後、人穴探索の話を聞いた地元の古老は、「この穴は浅間大菩薩の御在所(ございしょ、すんでいるところ)で、昔から誰もあえて覗くことはなかった」「今回の出来事も当然、懸念すべきではないでしょうか」と話したといいます。

 

コミックの幕間が教えてくれるヒント

小袖山と俵藤太(藤原秀郷)が平将門伝説につながっていくことを考えると、二色山にも仁田忠常から何か伝説につながりそうですよね。

ちょっと興味深いのは、第8巻 69話末のイラストです。鋼鐵塚さんの好物が、みたらし団子であることが紹介されています。みたらし団子の由来は諸説ありますが、その一つに後醍醐天皇にまつわる伝説があります。

賀茂御祖神社(通称・下鴨神社)に後醍醐天皇が参詣された折、御手洗川の水をすくったところ、泡が1つ現れ、続けて4つの泡が現れたことから、その様子を団子で表したのがみたらし団子の始まりというもの。

後醍醐天皇といえば、南北朝内乱の中心人物で、源氏が樹立して北条氏(平氏)が継いだ鎌倉幕府を倒した人物です。

どこか武張った印象があるのですが、意外なことに「源氏物語」の研究家である丹波忠守(たんばのただもり)の門下に入って、「源氏物語」の研究をしているのです。

鎌倉幕府を打ち倒して建武の新政に携わる忙しい合間にも、自ら「源氏物語」の登場人物の系図を作ったりしていたのだとか。

後醍醐天皇も考察が好きなの? と、一気に親近感が湧きますが、これは理想とする王権のための事業とも考えられるみたいで、趣味というのとはちょっと違うようです(汗)

ともあれ、大きな意味で「源氏」につながる人物といえそうですね。

しかも元号に関しても、興味深いエピソードがあります。

鎌倉幕府滅亡後、元号を「建武」とする勅旨を出すのですが、これは周囲の大反対を押し切っての改元でした。この時代、戦乱が収まった後に改元するのはよくあることなのに、一体どうしたんでしょう?

それは、以下の2点に原因があったようです。

 

・日本では元号を決める際、他国と重なるものは避けるという原則がある
・「武」という字が嫌われた

 

「建武」という年号は、漢の光武帝が漢王朝を再興して、後漢を建てたときに用いたものです。

「逆説の日本史 6 中世神風編 鎌倉仏教と元寇の謎」によると、「建武」は劉秀(りゅうしゅう、光武帝)が王莽(おうもう)という漢朝の簒奪者を倒して改元した年号なので、幕府という簒奪者を倒した後醍醐天皇自身を光武帝になぞらえて、「建武」という年号にこだわっていたと考えられるのだそう。

そして反対する貴族たちにとっては、言霊から見て、「武」は「兵乱を呼ぶ」ことに通じるので、大反対したと考えられるそうです。

「鬼滅の刃」では、元号が変わっていることを聞いた手鬼は大激怒していました(第1巻 7話)。

怒る理由は少し違いますが、このシーンはもしかすると、後醍醐天皇の改元のイメージに重なるのかもしれません。

というわけで、「鬼滅の刃」と関わりのありそうな源氏、平氏を歴史で見ていくと、けっこう物語と重なるところがありそうです。

参考 「逆説の日本史 6 中世神風編 鎌倉仏教と元寇の謎」井沢 元彦

信仰の山「富士山」と火の神様の関係

「二色山」を飾る青と白の色布は、富士山を表現しています。

富士山といえば、古来より噴火を繰り返してきたことから、火を司る心霊が宿る神体山(しんたいさん)として遥拝する対象で、禁足地になっていました。

現在の「山宮浅間神社」(やまみやせんげんじんじゃ)や「北口本宮冨士浅間神社」(きたぐちほんぐうふじせんげんじんじゃ)は、遥拝所だった場所にできた神社です。今はそのイメージもかなり薄まっていますが、富士山は信仰の対象となる山だったんですね。

富士山を御神体とする神社はいくつもありますが、代表的な神社は「富士山本宮浅間大社」(ふじさんほんぐうせんげんたいしゃ)です。

御祭神は木花之佐久夜毘売命(コノハナノサクヤヒメノミコト)、別称として浅間大神(アサマノオオカミ)と呼ばれる神様が祀られています。

 

遥拝(ようはい)
遠く隔たったところから神仏などをはるかに拝むこと。拝むために設けられた場所を「遥拝所」といいます。

 

この神様は、「日本書紀」には神吾田鹿葦津姫(カムアタカアシツヒメ)、別名・木花開耶姫(コノハナサクヤヒメ)という名前で登場します。

皇孫である天津彦火瓊瓊杵命(アマツヒコホノニニギノミコト)の子を一夜にして身籠ったことから、瓊瓊杵尊から自分の子ではないのではないかと疑われたため、自ら産屋に火をつけて、その中で三皇子を無事出産することで身の潔白を証明してみせたという、火山の激しさを感じさせる神様です。

 

皇孫(すめみま)
天照大神の御孫(みま)のこと。

 

禰豆子と角行の共通点

豊臣秀吉が織田信長に仕えはじめたころになるようですが、そんな富士山に「富士講」という信仰が生まれました。

酒肉を断って精進潔斎をした信徒たちが、先達(せんだつ)と呼ばれる先輩格の人に連れられて、富士山を集団登拝するというものです。富士の山神を神仏習合化した仙元大菩薩(せんげんだいぼさつ)に、天下泰平を祈願していました。

集団登拝するための資金を確保するために皆でお金を出し合い、代表者が集団登拝するのですが、この集団を「講」といいます。富士山を登るのが難しい人のためには、各地に富士山をかたどった富士塚が築かれました。

この信仰の開祖は長谷川角行(はせがわ かくぎょう)という長崎の武家の子と伝わる人物です。藤原氏の祖・藤原鎌足の子孫ともいわれています。

18歳のころから山岳修行に励み、大峰や富士山に登拝を重ね、富士の人穴で千日間もの「立ち行」を行って悟りを開いたと伝えられています。

また、角行が修行していたという「忍野八海」(おしのはっかい)は、出口池を北極星に、お釜池、底抜池、銚子池、湧池、濁池、鏡池、菖蒲池を北斗七星に見立てていて、妙見信仰も絡んでいるようです。

さらに富士講の縁起には、徳川家康は角行から法を伝授されて江戸幕府を開いたと説いているそうで、徳川家康ともご縁があるみたいですよ。

どこまで本当かはわかりませんが(汗)

ともあれ、呪術的なところが江戸庶民に広く受け入れられていたようで、元和年間(1615~1623年)に流行病が蔓延した際には、仙元大菩薩より授かったとする「富世貴」(ふせぎ)という呪符を人々に配っていました。

興味深いのは、禰豆子の好きなものは「金平糖」というところ。(ファンブック第1弾 34頁)

金平糖が日本に伝えられたのは、安土桃山時代。ポルトガル人宣教師たちが喉薬として利用していたものを日本に持ち込んだのが始まりとなるようです。

つまり、角行の出身地と、禰豆子の好きな金平糖の伝来の地が一致しているわけです。

そういえば禰豆子の理想の男性は、「飛車みたいな人」でした(第3巻 25話末)。

縦横に何間でも動ける飛車は最も強い駒。終盤に入ってお互いの玉を詰めていく「寄せ合い」の局面では主役にもなるのに、「居飛車」や「振り飛車」といった戦法は初心者でもわかりやすいところが魅力です。

居飛車の戦法の一つ「雀刺し」は、飛び道具と呼ばれる、角、桂馬、歩、香車、飛車を一筋に集めて一点突破を狙う戦法なのですが、まるで鎹鴉の雀を従えて霹靂一閃を極める善逸のようです。

角行は飛車と並ぶ大駒の一つ。「飛車みたいな人が好き」という禰豆子は、やはり角行と関わりがあるのかも。もしかすると、この辺も物語のヒントになっているのかもしれませんね。

そして、山の神様に関連しているところも見逃せません。「鬼滅の刃」ではなんとなく存在を感じさせるだけの山の神ですが、二色山に関する富士山の逸話を見ると、やはりイメージが重なってきそうです。

五色山の表す世界観

五色山

Goshiki-Yama expresses the demon extermination of Mt. Oe.
五色山は、大江山の鬼退治を表現しています。

It is a Tsukuriyama mountain wrapped with five colored cloths of green, yellow, red, white, and purple, and this color is related to the Yin-Yang Five Elements philosophy.
緑、黄、赤、白、紫の五色の色布を巻いた造り山で、この色は陰陽五行思想に関連する色です。

 

五色山には、緑、黄、赤、白、紫の五色の布が巻かれています。

これと同じ色を使っているものに、能舞台の橋掛かりに設けられた揚幕(あげまく)があります。

役者が登場したり、退場したりする橋懸(はしがかり)の向こうに掛けられるのですが、これは「現世の万物を表している」とされていて、幕の向こうはこの世ならぬ世界であり、橋懸はこの世とあの世の懸け橋と考えられているのだそう。

五色山に使われている五色の色布も、もしかするとこうした「世界」を表す五色の解釈が込められているのかもしれませんね。

 
能舞台
 

興味深いのは、この色はお寺でもよく見かけるというところ。仏教では青、黃、赤、白、黒は如来の精神や智慧を表すものとされています。

青は緑に、黒は樺や紫に置き換えられることがあります。

 

青(緑) … 如来の毛髪の色
赤 … 如来の血液の色
黃 … 如来の体の色
白 … 如来の歯の色
黒(樺、紫) … 如来の袈裟の色

 

そして、陰陽五行にも似たような考え方があって、古代中国の哲理を起源とする五色を、世界を構成する5つの要素に割り当てています。

青は緑に、黒は紫に置き換えられることがあります。

 

青(緑) … 木【陽】
赤 … 火【陽】
黃 … 土【中間】
白 … 金【陰】
黒(紫) … 水【陰】

 

つまり五色山の5つの色は、仏教や陰陽五行に通じる色でもあるわけです。

炭治郎や善逸には、道元禅師のイメージがありましたが、これは造り山の五色のイメージに重なるのかもしれません。

 

 

そして「鬼滅の刃」には陰陽五行が巧みに織り込まれていて、日輪刀も陰陽五行から見ると意外とすっきりと説明できそうなのですが、これも五色のイメージに重なるものなのかもしれませんね。

 

 

造り山のテーマは、源頼光の鬼退治

五色山を飾るのは、清和源氏3代目となる源頼光(みなもとのよりみつ)です。

摂津源氏の祖であり、渡辺綱(わたなべのつな)・坂田金時(さかたのきんとき)・碓井貞光(うすい さだみつ)・卜部季武(うらべのすえたけ)といった頼光四天王を従えていたことでも有名です。

造り山に表現されている場面は、源頼光と四天王が成し遂げた「大江山鬼退治」です。

源頼光の鬼退治は古い話だけあってさまざまなパターンがあり、大きく分けて鬼のすみかを丹波の大江山とする「大江山系」と、近江の伊吹山とする「伊吹山系」の2種類があります。

どちらの物語も山の神の加護を受けて生まれた子どもが人々を惑わし、やがて鬼になり、各地を放浪した末に大江山(もしくは伊吹山)にすみつくという共通の展開があるのですが、そうした鬼伝説の中で興味深い題名のものがあります。「御伽草子『大江山奇譚』」です。

「奇譚」といえば、「鬼滅の刃」第1巻 3話末の「大正コソコソ噂話」の中で、「こんなタイトルを考えていた」という候補の中に、「鬼滅奇譚」、「滅々奇譚」、「空想鬼滅奇譚」と3つも入っていました。これは匂います(笑)

室町時代の鬼滅の刃「大江山奇譚」

「御伽草子」は室町時代から江戸時代初期頃までに制作された物語のジャンルの一つで、「大江山奇譚」が収録されているのは享保の頃に発行された「御伽文庫」に収録されています。

ざっくりした内容は、こんな感じ。

 

一条院の御代(986年~1010年)、都から若い女人が次々と消える事件が起こりました。自身の娘もいなくなってしまった池田の中納言・國賢(ちゅうなごん くにかね)が安倍晴明を召して占わせたところ、千丈ヶ獄(せんじょうがたけ)の鬼、酒呑童子の仕業だと判明。

一条天皇の勅命を受けた源頼光は四天王と共に評議したところ、凡夫の力では事を成し遂げるのは難しいということで、神仏の加護を得るため各々神社に参詣することにします。

頼光は八幡宮に参り、金時は住吉へ参り、貞光・季武は熊野三所を勧請した結果、頼光は「損ずる意味があり大成は叶わないだろう。お前達だけでなく、叔父の保昌(やすまさ)にも相談しよう」と、武勇に優れた藤原保昌(ふじわらのやすまさ)も加えました。

それぞれ背中に笈(おひ)を一挺ずつ背負い、山伏の姿になって千丈ヶ獄へ向かって進んでいると、石清水八幡、住吉社、熊野三所の仏神化身である三人の男たちに出会い、鬼退治に必要なものとして、鬼が飲めば毒酒に変わって神通力を失うという「神便鬼毒酒」(じんべんきどくしゅ)を授かります。

そして男たちの案内で、一行は鬼ヶ城(おにがじょう)へ至る川まで辿り尽くことができたのでした。

男たちが姿を消した後、川の上流を目指していくと、若く美しい女性が一人で洗濯をしているところに出会います。

女性は都から鬼にさらわれた者の一人で、鬼ヶ城の中の様子を教えてくれるのでした。

女性の案内で鬼の住処に辿り着いた頼光一行は、異形の恐ろしき鬼どもが出てきても平気な顔をして城の中へ入っていきました。

鬼たちは山伏姿の頼光たちを鬼の流儀でもてなし、頼光も鬼たちを毒酒でもてなし、お互いに舞をまったりするうちに酒呑童子は毒酒に酔って寝所へ退散してしまいます。

眷属の鬼たちも毒酒が体に回って苦しむ中、頼光たちに討ち取られていきます。

 

「大江山奇譚」で、鬼退治に向かう面々はこんな感じになります。

 

・源頼光(みなもとのよりみつ)
・渡辺綱(わたなべのつな)
・坂田金時(さかたのきんとき)
・碓井貞光(うすい さだみつ)
・卜部季武(うらべのすえたけ)
・藤原保昌(ふじわらのやすまさ)

 

現代に伝わる鬼退治に比べると、一人増えて6人になっています。増えているのは、藤原保昌です。

実はこの人、昔の鬼退治には登場するのに、現代バージョンでは姿がまったく見えなくなってしまった人物なのです。

頼光と保昌、二人の違い

藤原保昌は、「尊卑分脈」(南北朝時代)には「勇士武略の長、名人なり」とあり、「十訓抄」(鎌倉時代)には、「世に勝れたる四人の武士なり」として、源頼信(みなもとのよりのぶ)、平致頼(たいらのむねより)、平維衡(たいらのこれひら)と並び称されていました。この四人は「道長四天王」とも呼ばれています。

でも、武芸に優れ、記録にも残る有名人。どうしてそんな人が鬼退治の物語から消えてしまったんでしょう?

「コンサイス 日本人名事典」で保昌と頼光の活動を見てみると、こんな違いがあるようです。

 

藤原保昌 天徳2年(958年)~長元9年(1036年)
平安中期の官僚。
寛弘8年(1011年)十四位下 左衛門督、長和3年(1014年)左馬頭。この間に肥後、丹後、摂津、大和守を歴任。

・藤原道長、頼通親子の家司をつとめる。

源頼光 天暦2年(948年)~治安元年(1021年)
平安中期の武将。
天禄元年(970年)ころ中央の官職につく。寛和2年(1086年)ころ春宮権大進となる。
正歴3年(1092年)肥前守。長保3年(1001年)美濃守・正五位下。寛弘3年(1006年)ころ但馬守。1011年春宮権亮・十四位下。長和2年(1013年)再度美濃守、これ以前に内蔵頭に就任。寛仁2年(1018年)伊予守。1019年左馬権頭。治安元年(1021年)摂津守。

・永延2年(1088年  藤原兼家の二条京極邸新築に際し馬30頭を献上
・長和4年(1015年) 女婿藤原道綱が頼光邸で藤原道長のために宴する。
・長和5年(1016年) 道長を見舞うため任地美濃国より上洛。
・寛仁2年(1018年) この年、道長が土御門邸を新築し、頼光はその家具調度類すべてを献上、耳目を驚かせる。

 

保昌は官僚、頼光は武将と、職種が違うようですね。頼光は何かにつけ、有力者にせっせと贈り物をしているのが特徴みたいです(笑)

保昌の務める「家司」(けいし)というのは、親王家、内親王家、摂関家、そして三位以上の家に置かれる職で、その家の伝統や文化を実務面で支え、家政をつかさどる者のことです。

家の中だけでなく対外的な仕事も務めるようで、源経基(みなもとのつねもと)が「将門に謀反あり」と朝廷に告発した際、藤原忠平(ふじわらのただひら)が事の真意を問う御教書(みぎょうしょ)を将門に下すのですが、このとき使者として東国へ向かったのが忠平の家司です。

保昌も頼光も同じように国司を務めていますが、携わっている職業としては、保昌のほうが少し政治に近い感じです。

保昌は、貴族階級出身の武の者

それもそのはず、保昌は藤原南家の家柄で、文章博士・藤原菅根(ふじわらのすがね)の曾孫に当たります。武家ではなく貴族なんですね。

しかも、ただの貴族ではありません。祖父の藤原元方(ふじわらのもとかた)は、娘の祐姫(すけひめ)が村上天皇の第一皇子を生んだことから、藤原北家の面々に次ぐ大納言にまで昇進していました。

でも、皇太子に立ったのは憲平親王(のりひらしんのう)(冷泉天皇)です。藤原北家の藤原師輔(ふじわらのもろすけ)の娘・安子が生んだ、村上天皇の第二皇子でした。

権力争いに敗れ、すっかり落胆した元方は、その後すぐに病没してしまいます。

もしも何かのタイミングが違っていれば、元方の南家が摂関家になっていたのかもしれません。

でも現実は、いくら身分が高くても、後ろ盾となる人物を失った貴族は没落してしまうことが多かったようです。南家も元方以降、政治的にはぱっとしませんでした。

「栄花物語」(平安後期)や、「大鏡」(平安後期)によると、元方と祐姫はその後、怨霊となって、師輔の身内や冷泉天皇、さらにはその子孫にも祟ったといいます。

伝説によると、鬼退治に行く保昌は、その家系から鬼(怨霊)を出していることになるんですね…。この辺はお館様と少し似ているところがありそうです。(第11巻 97話、第16巻 137話)

兵(つわもの)の家にてあらず、ということ

そして、「貴族出身で、兵の家の出身ではない」ということが保昌の伝承に影を落とします。

盗賊・袴垂(はかまだれ)が保昌に出会った話が収録されている「今昔物語集」巻二十五「兵」の巻では、保昌のことをこう評しています。

 

兵(つわもの)ノ家ニテ非ズト云へドモ、心猛クシテ弓箭(きゅうせん)ノ道二達レリ
兵の家の出身ではないが、心は勇ましく、「弓箭の道」に達していた。

 

ただ、その後、こんな文言が続きます。

 

但シ子孫ノ無キヲ、家二非ヌ故ニヤ、卜人云ケルトナム語リ伝へタルトヤ
とはいうものの、子孫のないことは、(保昌が兵の)家になかったためであろうかと、人々は言い合い、語り伝えたということだ。

 

ここに出てくる「兵の家」というのは、「今昔物語集」巻二十五に登場する武将たちのこと。

平将門や藤原純友が起こした「承平・天慶の乱」を鎮圧した人や、その家系につながる人々のことです。

出身が違うからといって、ずいぶん酷い言われ方ですが、これは保昌に限ったことではなく、他にも例を見ることができます。

平家が滅亡した源平合戦では、平時忠が「自分は武門の者ではない」と助命を訴えて認められているのです。(「吾妻鏡」(鎌倉時代末期))

時忠は清盛たちと同じ葛原親王につながる人ですが、その後に板東武者へつながっていく高見王の系統ではなく、中央政界に残って堂上平氏と呼ばれた、高宗王の系統につながる人でした。

 
平家の系図
 

また、平治の乱で自害に追い込まれた信西(藤原通憲)は、当世無双の宏才博覧(こうさいはくらん)と称された藤原南家の人ですが、「今鏡」(平安末期)には、「陰陽道の家の者でもないのに、天文に通じたがために災いを受けた」と書かれています。

「逆説の日本史 6 中世神風編 鎌倉仏教と元寇の謎」では、日本は古来から血統信仰があると指摘しています。

後醍醐天皇の改革が失敗したのも、後醍醐天皇の目指した実力主義の体制が、「日本の根本的な統治理念である『血統信仰』に抵触するものであったことが、新政失敗の最大の原因ではあるまいか。」というんですね。

だとすると、兵の家の者ではない保昌は、あるべき姿から外れた者として、時代が下るにつれてその存在が消されていったのかもしれません。

「政府公認の組織じゃないからな俺たち鬼殺隊」(第7巻 54話)と言って大切な刀を隠さなければならなかった炭治郎たちと、「兵の家にてあらず」と姿を隠されてしまった保昌は、どこか重なるところがありそうです。

こうしてみると、20年に一度の三ツ山大祭は、鬼滅の刃と重なるキーワードやイメージが多数隠れているお祭りと言えそうですね。

次回の三ツ山大祭は令和15年(2033年)に開催予定、そして一ツ山大祭は令和29年(2047年)に開催予定なので、少し先になりますが、機会のある人は実物を見ることができますよ。

一ツ山大祭は五色山を一つだけ設置するようです。

 
参考 酒典童子絵巻(しゅてんどうじえまき) | 京都府立博物館
参考 室町物語 | 天竺老人 浮世絵
参考 大江山奇譚 佛教大学図書館デジタルコレクション
参考 三ツ山大祭
 

「鬼滅の刃」では「6」という数字がかなり重要な鍵になっているようです。射楯兵主神社の「一ツ山大祭」は60年に一度。何かのヒントになっているのかもしれませんね。

そして「三ツ山大祭」は、平将門の乱と藤原純友の乱を鎮定するために行われた臨時祭が始まりですが、煉獄さんのイメージと重ねると鹿児島にある愛宕神社に辿り着くようです。

こちらの記事も、よかったら覗いてみてくださいね。

 

 

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