炭治郎の目が赤みがかっているのは、「達磨の目は青い」という伝説があるからかもしれません。
(この記事は、第1巻、第7巻、第16巻、第17巻、大18巻、第23巻、ファンブック第一弾、ファンブック第二弾のネタバレを含みます)
上の図は京都・宇治周辺の地図です。
「鬼滅の刃」には、物語の鍵を握っていそうな場所がいくつかあり、宇治神社・宇治上神社は炭治郎に、橋姫神社は禰豆子に重なりそうな伝説があります。
興聖寺も興味深い話があるようですよ。
曹洞宗のお寺、興聖寺
興聖寺の正式名称は「観音導利院興聖宝林禅寺」(かんのんどうりいん こうしょうほうりんぜんじ)といいます。山号は仏徳山(ぶっとくさん)です。
天福元年(1233年)に曹洞宗の開祖・道元禅師(どうげんぜんじ)が、京都市深草に曹洞宗の最初の寺院として建立したことに始まります。
その後、戦乱のため廃絶していましたが、慶安元年(1648年)に山城国淀藩初代藩主・永井尚政により現在の地に再興されました。
「鬼滅の刃」と重なる道元禅師
諸説ありますが、道元禅師は村上源氏嫡流の久我家に生まれたといわれていて、詳しく見ていくと「鬼滅の刃」に重なるところがいくつも見つかる興味深い人物です。
3歳のときに父を亡くし、8歳のときに母を亡くし、比叡山で出家をしたのは14歳のとき。
貞応2年(1223年)に先師である明全和尚(みょうぜんおしょう)とともに南宋に渡り、正師となる天童山の如浄禅師(にょじょうぜんじ)の下で悟りを得ます。
興味深いのは、安貞元年(1227年)に道元禅師が帰国する際、病で亡くなった明全和尚の遺骨を持って帰ってくるところ。
そして、明全和尚の弟子の依頼に応えるかたちで、明全和尚の略伝や舎利を持ち帰るまでの経緯をまとめた「舎利相伝記」を記しているところです。
この辺は、第23巻 204話、そしてファンブック第二弾「炭治郎の近況報告書」に出てくる善逸の姿に重なりそうです。
道元禅師の教えと炭治郎
そして道元禅師の代表的な著作「正法眼蔵」(しょうぼうげんぞう)(鎌倉時代)には、炭治郎の姿と重なるところがありそうです。
仏教思想が書かれた難しい本なのですが、「洗淨の巻」には、手足の爪を切ったり、剃髪したり、身だしなみを整えることが書かれていて、さらにはトイレ掃除の作法が細かく示されているのです。
「威儀即仏法(いぎそくぶっぽう)作法是宗旨(さほうこれしゅうし)」といって、こうした作法が仏道そのものであり、日常のすべてがそのまま修行であるというのが道元禅師の教えなんですね。
「掃除も修行」という道元禅師は、「掃除が趣味」という炭治郎につながるところがありそうです。(ファンブック第一弾 26頁)
また、食事を作ってもてなすこと、そして調理する環境を整えることも仏道修行とする道元禅師は、「典座教訓」(てんぞきょうくん)(1237年)という書も記しています。
そういえば柱稽古では、炭治郎の焼く魚や炊いたご飯がおいしいということで評判になっていました。(第16巻 134話、第16巻 134話末イラスト)
禅宗寺院で炊事を司る役職
重なる言葉、「簡単に私を認めないでください」
道元禅師は比叡山の修行時代から、ある疑問を持っていました。「仏教では人はもともと仏性を持つと教えるのに、なぜ私たちは修行をしなければならないのか?」。
その答えを得たのが、南宋の如浄禅師の下で坐禅をしていたときのこと。
早朝に大勢の雲水とともに道元禅師が坐禅をしていたところ、一人の雲水が居眠りをしてしまい、如浄禅師がこう叱咤したといいます。
坐禅を組むことは、すべて心身脱落のためでなければならない。ただただ居眠りばかりして、どうしてこれを行うために我慢をしないのか。
この言葉を聞いて、道元禅師は悟りを得たといいます。
それまで疑問だった「仏性を持つのに、なぜ修行をしなければならないのか」というのは、「修行をしなければならない」のではなく、「仏性を持つからこそ修行することができるのだ」と捉え方が大きく変わったようです。
そして、「心身脱落」というのは、身も心も己の執着から開放されて、仏道の働きそのものであることを明らかにするといった境地をいうようです。
この後、道元禅師は師匠のもとへ行き、「心身脱落し来る」と悟りを得たことを報告したところ、「身心脱落、脱落心身」と如浄禅師があっさり認めるため、道元禅師はこう返したといいます。
自分が体得したこれは、それほど時間をかけない技術的なことです。和尚よ、簡単にわたしのことを認めないでください。
弟子の修行者が悟りを得たことを認めて、師匠が証明認可すること。
これと似たようなことを、炭治郎も言う場面がありましたよね。(第16巻 135話)
達磨でつながる、猗窩座と炭治郎と義勇さん
道元禅師が開いた曹洞宗では、坐禅する姿そのものが「仏」であり、修行そのものが「悟り」であるといいます。
このことは「只管打坐」(しかんたざ)と表現されます。それぞれの文字の意味はこんな感じ。「ただひたすら座り続ける」といった意味になるようです。
管 … つかさどる、すべる、支配する、総理する。つらぬく意の語源(貫)からきている語
打 … 他動詞の接頭辞
坐 … すわる、ひざまづく、とどまる
この「只管打坐」について、ブログ「禅の視点 - life -」さんでは、ちょっと興味深い解説をされています。
人は誰もが本来、無色の心をもっている。
欲や煩悩が関わる以前の、素の心のことである。
この心を仏の心と呼ぶこともある。
だから自分の思いを差し挟むことがなければ、つまり無心であれば、人の心はおのずと素の心となり、仏の心でいられると考えたわけである。
参考 【禅語】 威儀即仏法 作法是宗旨 – 曹洞宗における「形」の意味 – | 禅の視点 – life –
無色の心。
これは、無限列車に出てきた炭治郎の無意識層(第7巻 57話)や、炭治郎が到達した世界(第17巻 151話)とも重なりそうです。
そして、素の心。
これは猗窩座が人間のころに習っていた、「素流」(そりゅう)につながらないでしょうか?(第18巻 153話)
そう考えると、ちょっとおもしろい人物が浮かび上がってきます。
道元禅師は、如浄禅師から仏の教えを受け継ぎました。
「正法眼蔵」の仏法の巻によると、如浄禅師は中国の禅宗祖師の東土二十三祖(とうど にじゅうさんそ)に当たる人物。
東土一祖は、釈迦から伝わる教えを中国に伝えた達磨大師ですから、東土二十三祖というのは、達磨大師から数えて23人目の悟りを得た人物という意味になります。
道元禅師の「只管打坐」に重なる炭治郎や猗窩座は、達磨大師にもつながっているということが言えそうです。
猗窩座に重なる達磨大師
達磨大師がどういう人だったのか、実ははっきりわからないことが多いのですが、5世紀後半から6世紀始めごろに中国にやってきたと考えられています。
上の図の黒い線は陸地を通るシルクロード、青い線は海を通るシルクロード、そして赤い丸は中継地点です。
大師の弟子の曇林(どんりん)が記した「菩提達磨大師略弁大乗入道四行観」(ぼだいだるまたいし りゃくべんだいじょうにゅうどう しぎょうかん)によると、西域(さいいき)の南天竺国(みなみてんじくこく)にあったという香至国(こうしこく)の婆羅門(ばらもん)国王の第3王子だったと記しています。
上の地図の緑色の部分は、6世紀頃まで栄えた「グプタ朝」のあったところをざっくりと塗り分けてみました。
北インドを支配していた王朝で、南北インドを初めて平定しました。全盛期にはスリランカやアフガニスタンの諸王も臣従を誓うほど勢力を伸ばしていました。
達磨大師は南天竺国の出身ということなので、南の緑に塗っていない所が故郷ということになります。
そして、楊衒之(よう げんし)が記した「洛陽伽藍記(らくようがらんき)」(5世紀)によると、菩提達磨は波斯国(はしこく)生まれの胡人(こじん)と記しています。
達磨大師が出家した際に師である般若多羅(はんにゃたら)からもらった名前。出家する前は菩提多羅(ぼだいたら)といいました。
ペルシャ。現在のイラン。達磨大師の時代はサーサーン朝ペルシャの末期くらい?
中国において異民族を指す言葉。古代中国の北方の地に住む人々を指していましたが、時代が下ると西方に住む人々も指しました。
上の地図のピンク色の部分は、「サーサーン朝ペルシャ」が最大期だった勢力範囲をざっくりと塗っています。
このように達磨大師は、ペルシャ、もしくはインドの人だったのではないかと考えられているわけですが、この地域はサルワールを着る人達が住んでいた場所にも重なるんですよね。
サルワールというのは、猗窩座がはいていた、ズボンによく似たムスリム圏の伝統服です。
丈の短いチョッキのような上着に、ダボッとしたズボン ──
管理人は世代的にアニメの「シンドバットの冒険」を思い出すのですが、ディズニーが好きな方なら「アラジン」の主人公にそっくりだと思うのではないでしょうか?
シンドバットは西暦8世紀頃のバグダッドに住んでいたムスリム商人のお話。アラジンは中国のとある町で、お母さんと二人だけで貧しい暮らしをしていた少年のお話です。どちらもフランスのアントアーヌ・ガランが翻訳した、「千一夜」(別名・アラビアンナイト)に収録されています。
サルワールは、ズボンやパンツを意味する言葉で、ペルシャや北インドなどで着用されていたのが広まったと考えられています。
シンドバットやアラジンのように、猗窩座も素肌の上にベストを着用してサルワールをはいているわけですね。
このように猗窩座と達磨大師がつながるとすると、素流道場の師範は達磨大師のイメージが重なってきそうです。
達磨大師の最期は、素流道場の師範の最期とよく似ているのです。(第16巻 154話)
炭次郎に重なる達磨大師
こうして見ると、炭治郎も達磨大師と重なるイメージがあります。それは、耳飾り。達磨大師の場合、耳環(じかん)といいます。
古代インドでは金属を丸く加工する技術があり、装身具として耳飾りをつけていたので、インドの王族出身の達磨大師も、耳飾りをつけていたと考えられているのです。
確かに、インド北部の釈迦族の王子だったお釈迦様も、菩薩像は出家する前の姿を表していて、冠やネックレス、ピアスといった装飾品を身につけています。
このように耳飾りだけを見ると、炭治郎に重なるのはインドから来た達磨大師のイメージかな? という感じですが、もう一人、達磨大師のイメージを持つ人物のことを考えると、ペルシャから来た達磨大師のイメージもありそうです。
その人物は、無限列車で猗窩座と対峙した煉獄さんです。
バグダッドにつながる達磨のイメージ
姫路の射楯兵主神社(いたてひょうずじんじゃ)には、無限列車のイメージが重なる「三ツ山大祭」がありました。
興味深いのは、同じ姫路市には牛頭天王(ごずてんのう)の総本宮とされる廣峯神社があり、京都の八坂神社で祀っていた牛頭天王は、廣峯神社の牛頭天王を分祠したものだという話があるのです。
これには諸説あり、八坂神社では「うちこそが牛頭天王の総本宮」としているそうですが、それはともあれ(汗)
廣峯神社と八坂神社は牛頭天王でご縁があり、「鬼滅の刃」のイメージがつながっていると考えることができそうです。
八坂神社といえば祇園祭。
祇園祭の山鉾には、禰豆子に重なる瀬織津姫(せおりつひめ)を表した「鈴鹿山」という山鉾がありますが、煉獄さんのイメージに重なる山鉾もあるのです。放下鉾(ほうかほこ)です。
この山鉾には放下僧(ほうかぞう)の像を祀っているので、この名前があります。
放下僧は室町時代中期に発生した田楽の流れをくむ大道芸で、僧の格好をした者をいいます。品玉(しなだま)や輪鼓(りゅうご)を放り投げる曲芸をするので、「放下」(ほうか)という言葉が使われるようになりました。
「放下」というのは禅宗の言葉で、一切の執着を投げ捨てて無我の境地に入ることを意味します。「放下著」(ほうげじゃく)という言い方で、煩悩はもちろん、悟りをも捨て去り、持っている自分自身を捨てきれという教えになるようです。
煉獄さんの無限列車での戦いを連想すると、ちょっと怖いものがあるのですが(汗)
注目なのは、放下鉾の見送(みおくり)には、月夜のモスクを飛ぶ2羽のフクロウを表現したロウケツ染めが飾られているのです。煉獄さんにはフクロウのイメージがありましたよね。(ファンブック第二弾 「柱相関言行録」 113頁)
このロウケツ染めは昭和57年(1982年)から使用されているもので、皆川泰蔵(みながわたいぞう)氏の作品で「バグダッド」といいます。
そういえば達磨大師は「碧眼の胡僧」(へきがんのこそう)と表現されることがあり、青い目(碧眼)をしていたのではないかと考える人もいます。青い目をした達磨大師の姿は、赤みがかった目をしている炭治郎と対称的です。
炭治郎はインドとペルシャ、両方の達磨大師のイメージが重なっていると言えそうです。
ちなみにサーサーン朝ペルシャの宗教はゾロアスター教(拝火教)で、王権の正当性を支えるほど重視されていました。
研究者の中には、東大寺二月堂のお水取りで行われるお松明は、ゾロアスター教がシルクロードを伝わって日本に影響したのではないかと見る方もいるようです。
「鬼滅の刃」がこのタイトルに決定するまでは、いくつかある候補の中に火の神である「カグツチ」の名前が入ったものがあったといいます。(第1巻 3話末の大正コソコソ噂話)
神格化した火を崇拝する宗教があったペルシャ、それにつながる達磨大師、こうした要素は、炭治郎に火の要素を加える重要な伝説の一つということになりそうです。
こうして見ると、ファンブック第二弾の「柱相関言行録」(113頁)で「置物みたい」と表現される義勇さんも達磨のイメージが重なる人物だったわけで、無限城で対峙する猗窩座、炭治郎、そして義勇さんの3人は、達磨でつながる関係になってきます。
炭治郎が到達した世界も(第17巻 151話)、義勇さんに起こった変化も(第17巻 150話)、猗窩座が最後に懺悔滅罪が叶ったのも(第18巻 156話)、この3人が揃っていたからこそ起こった奇跡なのかもしれませんね。
そう考えながら17巻 146話~157話の猗窩座戦を見ていくと、少し違った景色で見ることができますよ。
この他にも、興聖寺には源氏物語や伏見稲荷に絡んで「鬼滅の刃」に重なっていきそうなお話がありますよ。よかったら、こちらの記事も覗いてみてくださいね。