宇髄さんが蝶屋敷からアオイちゃんを攫う場面は、古典作品の一場面を思い起こさせます。
The character of Tengen Uzui seems to overlap with a time when the struggle for succession to the emperor’s throne and the struggle for power among the powerful aristocrats were intensely intertwined.
宇髄天元というキャラクターは、天皇家の後継者争いと、有力貴族の権力者争いが激しく入り乱れていた時代に重なりそうです。
(この記事は、第8巻、第10巻、第19巻、ファンブック第一弾、ファンブック第二弾のネタバレを含みます)
明暦の大火の後にできた回向院には、煉獄さんの趣味の「相撲」と「歌舞伎」のイメージがありました。(ファンブック第一弾 50頁)
そして隅田川を遡った所にある木母寺には、煉獄さんのもう一つの趣味、「能」のイメージがあります。観世元雅作「隅田川」の題材となっている「梅若伝説」です。
この能楽作品は、「伊勢物語」の在原業平につながっていました。
在原業平を詳しく見ていくと、宇髄さんに関連していきそうなヒントがあるようです。
例えば業平の父である阿保親王(あぼしんのう)は、平城天皇(へいぜいてんのう)の第一皇子。そして母である伊都内親王(いとないしんのう)は、桓武天皇の第八皇女です。
父方から見ると、業平は平城天皇の孫であり桓武天皇のひ孫になります。そして母方から見ると、桓武天皇の孫にあたるわけで、かなりすごい血筋なんですね。
ファンブックでは、伊黒さんの宇髄評に「血筋」という言葉が出てくるので、どこか重なるところがありそうです。(ファンブック第二弾 114頁)
阿保親王の時代の皇室は、ちょうど天武系から天智系へ変わる時代。平安京を開いた第50代・桓武天皇の叡慮により、桓武天皇の皇子・皇女が結婚することで王権の強化を目指していました。
阿保親王と宇髄さん、二人が抱える家系の頸木
宇髄さんは、在原業平や阿保親王とイメージが重なりそうです。
They were people who lived in an era when the Tenchi lineage the Temmu lineage were Switched.
彼らは、天智系の系統と天武系の系統が入れ替わる時代に生きた人たちです。
業平の父である阿保親王は、流れによっては天皇になってもおかしくない立場ですが、母親の身分が低かったために皇太子候補になれなかった人物です。
さらには、平城上皇(第51代)と嵯峨天皇(第52代)の抗争の果てに発生した薬子の変(810年)に連座したとして太宰府に左遷されてしまいます。
太宰府といえば、後に菅原道真が讒言によって左遷された場所ですね。
菅原道真は、天神信仰の祭神として祀られている人物。左目の化粧に天神さまの梅のイメージが重なる宇髄さんにつながっていきそうです。
ちなみに、阿保親王は西国三十三所巡礼の一つ「葛井寺」の再建に力を尽くしたと伝えられています。葛井寺といえば、藤の花で有名なお寺。阿保親王は藤の花に関わる人物ともいえそうです。
義勇さんに重なる黒田官兵衛や、伊之助に重なる和気清麻呂も藤の花に関わる人物だったので、共通するところがありますよね。
「続日本後紀」には、「素性謙退 才兼文武 有膂力 妙絃歌」(性格は控えめながらも文武の才を兼ね備えた人物で、腕力が強く、弦歌に優れた人物)とあり、性格以外は音柱・宇髄さんと重なりそうです。
阿保親王を翻弄した権力闘争
薬子の変後、阿保親王がようやく許されて京に戻ったのは、弘仁15年(824年)のこと。このときの天皇は淳和天皇(じゅんなてんのう)(第53代)でした。淳和天皇の母は桓武天皇の夫人・藤原旅子です。
旅子は藤原式家の祖・藤原宇合(ふじわらのうかい)の八男・藤原百川(ふじわらのももかわ)の長女です。なので、本来、淳和天皇は皇位継承の資格を持つ嫡子ではありません。
ですが淳和天皇の第一皇子・恒世親王(つねよしんのう)は、桓武天皇嫡系でいうと平城・嵯峨天皇の次に皇嗣(こうし)に近い立場にいました。淳和天皇は「父親をとばして子供を皇嗣に立てた慣例はない」ということで、即位することになった天皇なのです。
淳和天皇自身は桓武天皇が崩御した際に臣籍降下を願い出ていたのですが、恒世親王の皇位継承の資格まで失われてしまうことになるため、安殿親王(あてしんのう)(後の平城天皇)に慰留されていました。
そして、阿保親王が京に戻ってきた翌年の天長2年(825年)に淳和天皇の第二皇子・恒貞親王(つねさだしんのう)が誕生。その翌年の天長3年(826年)に、恒世親王が病により薨御してしまいます。
阿保親王は何か思うところがあったのか、天長3年(826年)に子どもたちの臣籍降下を願い出て許されています。このとき、業平は数えで2歳でした。
一度、臣籍降下したものが親王に復して皇太子や天皇になるのは、この後の宇多天皇(第59代)や醍醐天皇(第60代)になってからのこと。阿保親王の時代では、臣籍降下することは皇位継承から外れることを意味していました。
阿保親王が巻き込まれた承和の変
その後、皇位は淳和天皇の叡慮により、天長10年(833年)に仁明天皇(にんみょうてんのう)(第54代)へ継承され、皇太子には恒貞親王が擁立されます。
この頃、嵯峨上皇と皇后(橘嘉智子)の信任を得た藤原良房が急速に台頭していました。藤原北家・藤原冬嗣の次男です。
妹・順子(のぶこ)が仁明天皇の中宮となって、天長4年(827年)に道康親王(みちやすしんのう)が誕生したことで、道康親王を皇太子に擁立する動きを強めていました。
そうした動きを察知していた淳和上皇と恒貞親王は、度々皇太子の辞退を懇願していましたが、そのたびに仁明天皇や嵯峨上皇に慰留されていたといいます。そうするうち、淳和天皇が崩御(840年)、続いて嵯峨上皇が崩御(842年)したことで、事態が大きく動きます。
恒貞親王を東国へ移送することを画策して謀反を企てたとして、恒貞親王を支持していた伴健岑(とものこわみね)と橘逸勢(たちばなのはやなり)が捕えられてしまうのです。承和の変(842年)の発生です。
伴健岑と橘逸勢は謀反人として流罪。良房と対立していた藤原愛発(ふじわらのちかなり)や、淳和天皇の信任が厚かった藤原吉野(ふじわらのよしの)は失脚してしまいます。そして、恒貞親王は皇太子を廃されたのでした。
この事件でライバルや政敵が一掃された藤原良房は、皇族ではない最初の摂政・太政大臣となって一族繁栄の基礎を築きます。藤原北家(良房)による摂関政治が始まろうとする時代でした。
この一件では、太皇太后・橘嘉智子(嵯峨上皇の皇后)が深く関わっていたと見られています。
橘逸勢から策謀を持ちかけられた阿保親王は、太皇太后へ密告したことで藤原良房を助けたとされているのですが、変が起きたわずか3カ月後に急死してしまいます。真相はわかりませんが、自殺したと考える人もいるようです。
謀反人となった橘逸勢は伊豆国へ配流される途中で病没し、怨霊になったとして恐れられ、太皇太后が没してすぐ正五位下を追贈されています。このことから、橘逸勢は無実の罪を着せられていたのではないかと考える人もいるようです。
また、「日本三代実録」(平安時代)は、恒貞親王の母・正子内親王の様子を「太后震怒、悲号怨母太后」(太后は激しく怒り、悲しみで泣き叫び、母太后(嘉智子)を怨んだ」と伝えています。政治を安定させるためとはいえ、多くの人を不幸にした出来事だったようです。
「俺の手の平から今までどれだけの命が零れたと思ってんだ」(第10巻 87話)という宇髄さんのセリフは、承和の変に関わった阿保親王にも重なってきそうです。
その後、阿保親王の子供たちは政治的には不遇だったようですが、あのとき皇族のままで臣籍降下していなければ、何かの策謀に巻き込まれて命を落としていたかもしれないわけで、阿保親王の決断は大きかったといえそうですね。
宇髄さんは価値観の違う父親や弟に嫌気がさして忍の里を抜け、三人の嫁を最優先とする生き方を始めます。こちらは自分の意志による行動ですが、業平と重なってきそうです。(第10巻87話、ファンブック第一弾 56頁)
業平も臣籍降下したからといって、ただ大人しくしていたわけではないようで、世間もそれを期待していたようです。それを物語るのが「伊勢物語」の芥川です。
女を盗み出した在原業平と宇髄さん
在原業平には、摂関政治の切り札として大切にされていた藤原高子に恋をして連れ去った伝説があります。
昔、男がいました。(身分が違いすぎて)妻にできそうになかった女に求婚し続けてきたのですが、やっとのことで(女を)盗み出して、とても暗い中をやって来ました。
業平が盗み出した「女のえ得まじかりける」(身分が違いすぎて妻にできそうになかった女)というのは、清和天皇の后となった藤原高子(ふじわらのたかいこ)だと考えられています。
つまり、高子は藤原良房の姪で、良房の娘・明子(あきらけいこ)が生んだ惟仁親王(これひとしんのう)(後の清和天皇)の后にと大切に育てられていた女性だったのに、横から業平が口説いちゃったわけです。
「日本三代実録」(平安時代)に「体貌閑麗、放縦不拘、略無才学、善作倭歌」(姿も顔も麗しく、気ままで束縛されず、出世のための漢文の才はほぼなかったが、和歌の名人であった)と評される業平は、藤原北家の摂関政治を確立していこうとする良房から見れば、まさに「放縦」(何の規律もなく勝手にしたいことをする)な奴になるわけですね。
後年、歌川国芳や月岡芳年により、業平が高子を盗み出す場面が描かれますが、それはどれも業平が高子を背負っています。
アオイちゃんを肩にのせて担ぎ上げているところは宇髄さんらしいですが、第8巻 70話の場面は、業平が高子を盗み出す場面と重なりそうです。
上の絵は、宇髄さん風に高子を攫う業平を絵にしてみました(笑)
在原業平の周りに散らばる下弦の鬼の名前
サイト「HON-NET」さんでは、文徳天皇(在位:850年~858年)の時代、業平は出世が止まり、兄・行平は須磨へ蟄居させられていることから、この頃に何かあったのではないかと指摘しています。
その時期に詠んだという行平の和歌がこちら。
偶然にでも (私のことを)尋ねる人がいたら 須磨の浦で 藻塩を製するために潮水に濡れてしずくが垂れるように涙で濡れながら 心細く暮らしていると答えておくれ
この歌は引用の形で、「源氏物語」にも出てきます。
(源氏の君が)お住まいになる所は、行平中納言が、「藻塩たれつつ」と詠んだ侘住まいに近い辺りなのでした。
参考 京都・奈良 歴史散歩 伊勢物語に見る在原業平 | HON-NET
参考 「源氏物語」第十二帖 須磨
「源氏物語」は、みたらし団子発祥に関わる後醍醐天皇(第96代)が研究していたことでも知られています。そして、みたらし団子は、大正コソコソ話で鋼鐵塚さんの好物と紹介されていました。(第8巻 69話末)
こうしたヒントから考えても、業平に関わる人物の和歌が「源氏物語」の須磨の巻にあるのは興味深いですよね。
宇髄さんの三人の妻のうち、ときと屋に潜入したのは「須磨」でした。ファンブックには、「気が弱く、安心した時も悲しい時も泣きがち」(ファンブック第一弾 82頁)と紹介されています。
和歌の中でも「しほたる」(泣く)と詠われていて、須磨が泣き虫なのと一致します。
また、「わくらばに」は「まれに、たまたま」という意味の言葉ですが、「角川 新版 古語辞典」では、すぐ隣に「わくらば」(病葉)という言葉が並んでいます。
「夏頃、暑気に蒸されて、赤や黄に変色した葉。朽ちた葉」のことをいい、「わくらばに(副詞)との関係は未詳」とのことですが、「鬼滅の刃」では関係ありそうですよね。
ファンブックには、下弦の参の鬼の名前は「病葉」(わくらば)と紹介されていました。(ファンブック第一弾 90頁)
下弦の鬼の名前としては、承和の変で阿保親王から密告を受けたと伝えられている太皇太后に関わるものもあります。
京都・六道の辻には、嘉智子がまだ夫人の頃に、正良親王(まさらしんのう)(後の仁明天皇)の病気平癒を祈願したと伝わる西福寺があるのですが、この町名が「轆轤町」(ろくろちょう)なのです。
ファンブックには、下弦の弐の鬼の名前は「轆轤」となっています。(ファンブック第一弾 90頁)
「病葉」と「轆轤」は、業平や阿保親王につながるキーワードといえそうですね。
宇髄さんがアオイちゃんを攫った理由
そして、阿保親王や在原業平には、芦屋周辺を所領地にしていたという伝承があります。
伝えられている話によると、芦屋にある阿保山親王寺(あぼさんしんのうじ)は、親王の別邸を建て替えて親王の菩提寺としたお寺だといいます。そして白砂青松の続く芦屋浜には、在原業平の別荘があったそうですよ。
この時代に芦屋の地名が出てくるのはちょっと意外かもしれませんが、和気清麻呂の功績により、延暦4年(785年)に淀川と神崎川を繋ぐ水路が開削されて、神崎川が交通の要衝となったことが影響しています。
水路を使えば比較的気軽に都から出てくることができるので、現在の翠ケ丘一帯は風光明媚な土地として貴族の人々の人気を集めていました。
少し西へ行った所に流れる芦屋川の河口には、源頼政が退治した鵺(ぬえ)が鴨川から淀川を通ってここまで流れてきたといい、祟りを恐れた芦屋の村人が弔ったという鵺塚があります。都との縁の深さを感じさせますよね。
しかも、「鵺」は「鬼滅の刃」の下弦の鬼にも関わってきそうです。
ファンブックには、下弦の陸の鬼の名前は「釜鵺」と紹介されていました。(ファンブック第一弾 90頁)
芦屋も釜とは縁があり、江戸中期頃まで「播磨芦屋釜」という芦屋釜系統の茶湯釜が鋳造されていました。
芦屋釜というのはお茶の世界では幻の名器として有名で、もともとは福岡県の芦屋に産地があったといいます。
庇護者だった大内氏が家臣の陶晴賢(すえはるかた)の反乱で滅んだため、鋳物師たちは各地に散らばり、その中の一団が兵庫県の芦屋に住み着いたと考えられています。
下の地図でいうと、源平合戦で源範頼軍が上陸して合戦場となった葦屋浦の辺りが芦屋になるようです。
兵庫と福岡の芦屋は、芦屋釜をイメージさせる釜鵺のキーワードで重ねられていると考えることができそうです。
そして、第19巻 161話末の大正コソコソ話では、蝶屋敷のアオイちゃんは名字が「神崎」と紹介されています。都へ物資を送る交通の要として発展してきた神崎川に重なります。
第8巻 70話でアオイちゃんが宇髄さんに攫われそうになったのは、「神崎」の名前を持つアオイちゃんだからこそ。鬼の名前もヒントになっていると考えると、「伊勢物語」で高子を攫った在原業平へつながるキーワードだと考えることができそうです。
参考 阿保親王と芦屋 | 神戸のタウン誌 月刊 神戸っ子
参考 2021年~大阪~ 葛井寺~西国第5番札所~ | 私の旅日記~お気に入り写真館~
参考 阿保親王の墓 | 芦屋だより 江戸っ子シロシの芦屋歩記
そして、阿保親王から宇治へ
興味深いことに、阿保親王に関わる太皇太后・橘嘉智子と高岳親王(たかおかしんのう)は、仏教や禅に関わる人達です。
太皇太后は檀林皇后とも呼ばれる人物で、日本ではじめての禅寺「檀林寺」を創建し、唐から義空禅師(ぎくうぜんじ)を招いています。
このときは時代が早すぎて、禅が日本に根付くことはなかったようですが、炭治郎に重なる興聖寺の道元禅師も禅の思想を確立した一人なので、宇治の興聖寺につながっていきそうです。
阿保親王の異母兄弟の高岳親王は、薬子の変で皇太子を廃されてからは仏門に入り、空海の十大弟子となるのですが、60歳代になってからさらに仏法を求めて唐へ渡り、海路から天竺(インド)を目指して出帆。その後の消息はわからなくなってしまったといいます。
破天荒というか、一途というか、善逸から「やべぇ奴だ…」と言われてしまいそうです(笑)
でも、炭治郎の赤みがかった目は、インドからバグダッドにつながる海のシルクロードに重なるところがあるので、高岳親王も炭治郎と関わりがありそうです。
よかったら、こちらの記事も覗いてみてくださいね。