鬼滅の刃の伊之助は、山の文化を反映した衣装を着ています。
Inosuke’s boar head may be hiding an important hint.
伊之助の猪頭は、重要なヒントを隠しているかもしれません。
(この記事は、1巻、3巻、4巻、5巻、7巻、8巻、9巻、10巻、18巻、ファンブック第一弾、アニメ1期16話大正コソコソ噂話のネタバレを含みます)
伊之助は羽織を着ていません。というか、服の着心地が悪いようで、いつも上半身は裸です。
何か赤い色のもの(赤=火性)を着ていれば、炭治郎の「緑=木性、黒=水性」、善逸の「黄=土性、白=金性」で、五行の木火土金水の要素が三人で全て揃うんですけど、まあ、仕方ありませんよね。野生児ですから(笑)
その代わりに、腰の周りには鹿毛、すねには熊毛をつけた特徴的な出で立ちをしています。(第3巻 21話)
そして、頭にイノシシの頭を被っているのが大きな特徴です。
伊之助に重なる、鞍馬の火祭
伊之助に「火」のイメージはありませんが、京都にはちょっとユニークなお祭りがあります。「鞍馬の火祭」です。
長野の「道祖神祭り」、和歌山の「那智の火祭り」とともに三大火祭りの一つに数えられ、肩当てを付ける以外は褌一つの裸で行われるお祭りです。
服を着ることが苦痛という伊之助に、ぴったりですね(笑)(第9巻 72話)
このちょっと変わったお祭りは、鞍馬の鎮守社である「由岐神社」(ゆきじんじゃ)の祭事です。
鞍馬寺の山門の内側にある神社で、御祭神は大己貴命(オオナムチノミコト)と少彦名命(スクナヒコナノミコト)の二柱の神様。相殿には八所大明神(ハッショダイミョウジン)が祀られています。
もともとは由岐大明神として御所で祀られていたのですが、大地震や平将門の乱といった国難が続くため、天慶3年(940年)に朱雀天皇の詔により、北の護りとして御所から当地へ遷宮されたのがはじまりです。
現在の火祭は、この遷宮の際に、里人が火を持って神霊を迎えたことを今に伝えるものといいます。
本殿を護る狛犬は宋風獅子と呼ばれるスタイルで、阿形は左足の下に毬をとり、吽形は子どもを抱いた形で表されていて、これは日本ではあまり見ることのない珍しい姿になるようです。
子どもを抱いた獅子は第18巻 160話に出てくる琴葉さんのイメージに重なりそうですよね。
後ほどまとめますが、鞍馬寺は炭治郎のイメージもあります。
「鬼滅の刃」と鞍馬寺
鞍馬寺も興味深いお寺で、平安中期には白河上皇、藤原道長・頼通親子、藤原師通などが参詣して、広く信仰を集め、「源氏物語」若紫巻では紫上と光源氏が出会ったお寺のモデルと考えられています。
「源氏物語」は後醍醐天皇も研究していたと伝わる王朝文学。後醍醐天皇はみたらし団子が生まれた伝説に関連のある天皇です。みたらし団子は、第8巻 69話末のイラストで、鋼鐵塚さんの好物として描かれていましたよね。
後醍醐天皇は、鎌倉幕府滅亡後に改正した「健武」という年号で、「武の字は戦乱を招くから縁起が悪い」と反対する公家たちと、ひと悶着あった人物。年号が変わって大激怒していた、手鬼のイメージに重なります。(第1巻 7話)
鞍馬寺に祀られている御本尊は尊天(ソンテン)といって、毘沙門天、千手観音、護法魔王尊(ゴホウマオウソン)の三身を一体とする神様といいます。
中でも毘沙門天は宇宙の根本仏とする大日如来と同体と考えられている神様で、鞍馬寺では「太陽の精霊」と説明されています。日輪刀を武器に鬼と対峙する「鬼滅の刃」にぴったりです。
御本尊は秘仏ですが、60年に一度の丙寅の年に開扉されます。前回は1986年だったので、次回は2046年です。
始まりが平将門の乱をきっかけとしているところや、60年に一度の行事があるところは、煉獄さんのイメージがあった射楯兵主神社の「一ツ山大祭」と似ていますね。
そして、ちょっと注目なのが、鞍馬寺・本殿の前には星曼荼羅(ほしまんだら)を模したという「金剛床」(こんごうしょう)というものがあって、三角形の石畳で六角形を囲むようにして六芒星が描かれているのです。
「鬼滅の刃」のキャラクターやストーリーは、「六」に関するイメージが繰り返し描かれているので、金剛床の六角形も何か関係していそうです。
裸で行う「火祭」、「子どもを抱えた狛犬」、後醍醐天皇につながる「源氏物語」の舞台、そして「六芒星」のシンボル。由岐神社と鞍馬寺は、「鬼滅の刃」につながるキーワードがそろっているようです。
伊之助と重なる毘沙門天のイメージ
鞍馬寺の創建は宝亀元年(770年)。鑑真和上(かんじんわじょう)の弟子である鑑禎上人(がんていしょうにん)により、毘沙門天を祀る草庵が建てられたのが始まりです。
「鞍馬蓋寺縁起絵巻」(くらまがいじえんぎえまき)によると、鬼が絡んだこんな話が伝えられていました。
途中で野宿をしていると、夢の中で一人の老僧が現れて、「明日の早朝、東方の空に瑞祥をあらわす」と告げられます。空を見ていると、朝日が当たる峯の光の中に白い霊馬が現れて、上人はこれに導かれて無事に鞍馬山の山頂に霊地を得ることができたのでした。
その夜、火をうち、柴をたいて過ごしていたところ、鬼女が現れて上人は食べられそうになります。
上人は火に焼いた錫杖で応戦するのですが、鬼女は動じることなく、あっという間に錫杖を噛み砕いてしまうので、朽木の下に逃げ込みます。
鬼女が追いかけてきて、まさに食べられそうになったとき、上人が一心に三宝を念じたところ、たちまち朽木が倒れて鬼女を押し殺してしまいました。
朝日が差す中に毘沙門天の姿を見た上人は、その加護に感謝して尊像を刻み、草庵を建てて祀ったといいます。
毘沙門天は独尊で祀られる場合には「毘沙門天」と呼ばれ、四天王として祀られる場合には「多聞天」と呼ばれています。
もとはインド古来の神様で、夜叉(やしゃ)や羅刹(らせつ)など悪鬼の統領とされていたのですが、ヒンドゥー教では財宝・福徳を司る神となり、仏教の護法神に取り入れられると、帝釈天に仕える四天王の一尊である多聞天となって、須弥山(しゅみせん)の北方を護るとされました。
日本では戦乱の世の武将たちの信仰を集め、四天王の中でも主尊(リーダー的存在)として重視されるようになっていきます。
伊之助も登場時は小さな女の子を踏みつけたり(第3巻 22話)、善逸を蹴り飛ばしたりと(第3巻 25話)、悪役と勘違いされるほどの乱暴者として描かれているのですが、無限列車のあたりから、自分が親分であることにかなりこだわりを見せるようになります(第7巻 61話)。
こういうところも、毘沙門天のイメージに重なりそうですね。
毘沙門天の神使、百足のイメージ
また、毘沙門天の現れたのが寅年、寅の日、寅の刻(午前4時の前後2時間)であったことから、毘沙門天の神使は虎とされているのですが、百足も同じく神使と考えられています。
神意を伝える使者の務めをする動物や虫のこと。神の使い、使い姫、使わしめ、眷属(けんぞく)といった言い方をすることもあります。
例えば鞍馬山霊宝殿(くらまやま れいほうでん)にある鞍馬山曼荼羅図には、毘沙門天の左右に百足が描かれているのです。
どうして百足が毘沙門天の神使になったのかは、諸説あってはっきりしたことは不明ですが、前進のみで後退することがない様子は負け知らずのイメージにつながります。
たくさんある足が乱れることなく動くのに、その動作は俊敏。触覚で獲物の匂いや振動、体温などを感知して襲いかかります。この辺は皮膚感覚に優れた伊之助の能力と重なりそうですね。(第4巻 29話)
そして、ほんの数ミリの隙間でも、自分の体が入りさえすれば、襖の隙間からでも出入りすることが可能です。伊之助も頭が入りさえすれば、どこでも入って行くことができました。(第9巻 78話)
体の大きな種類の百足は、ネズミや小鳥といった小型の哺乳類も食べてしまうといい、18回くらい自分の鎹鴉を食べようとしたという伊之助の姿と重なってきそうです。(第5巻 36話末 大正コソコソ噂話)
さらに百足には、激しい痛みと人間でも赤く腫れ上がるほどの毒をもって敵と戦う獰猛さがあったことから、こうした百足の性質が縁起のいい虫と戦国武将から好まれて、指物に描かれたり、兜の前立に用いたりされていました。
また、鉱山では坑道のことを「百足穴」と呼び、百足は山の神の使いと考える地域もあるようです。
昔の鉱山は最初にメインとなる坑道を掘り、そこからいくつも脇に掘り進めていくため、その構造は百足のようにたくさんの足をのばしているように見えるのだそう。
戦いや山の仕事で注目されていた虫が、山中に現れて武の神様となった毘沙門天へつながっていくのは、自然なことなのかもしれません。
そういえば無限列車に出てきた伊之助の無意識領域は、枝分かれした細い洞窟のような形をしていました。真っ暗な闇の中にそこだけ浮かび上がるように描かれていて、まるで山の中に広がる坑道のようです。(第7巻 57話)
伊之助が無限列車で魘夢の目玉に惑わされなかったのは(第7巻 61話)、百足を神使として従えている毘沙門天のイメージにつながるからなのかもしれませんね。
神託事件と清麻呂公
伊之助は赤ん坊のとき猪に育てられていて、ファンブックによると、頭に被っている猪の頭は、死んでしまった育て親の毛皮なのだそう。(第10巻 88話、ファンブック第一弾 45頁)
実はこのイノシシには、「宇佐八幡神託事件」に関連して興味深い伝説があります。
「宇佐八幡神託事件」というのは、別名「道鏡事件」とも呼ばれる一大事件。
日本の皇位は「万世一系」(ばんせいいっけい)という、父方の一系で継承するという原則があり、それは今も昔も変わらないのですが、道鏡事件で初めて「皇族身分ではない人物を天位につける」という話が持ち上がったのでした。
このとき大宰帥(だざいのそち)を務めていたのは弓削道鏡(ゆげのどうきょう)の弟・弓削浄人(きよひと)です。称徳天皇から重く用いられていた道鏡は、これまでになかった法王という位に僧籍のまま任ぜられ、しばしば政治に介入して皇位をも狙っていたとされています。
この神託を天皇に奏するためとして、最初は宇佐八幡から法均尼(ほうきんに)の派遣が求められていました。
女性に長旅は難しいとして法均尼は固辞したのですが、代わりに弟の和気清麻呂(わけのきよまろ)が天皇の勅使として派遣されることになります。
このとき、清麻呂は吉備藤野和気真人(きびのふじのわけのまひと)を姓として名乗っていたのですが、今回の勅使の任にあたって「貴人のそばにいて、その人のために助け治める臣下」という意味を込めた、輔治能真人(ふじのまひと)という姓を与えられ、名前を変えることになったといいます。
ところが、清麻呂公が持ち帰った神託は、最初の神託とは真逆のものでした。
我が国家は開闢(かいびゃく)以来、君臣(くんしん)定まれり。臣をもって君と為す、未だこれあらざるなり。天つ日嗣(あまつひつぎ)は必ず皇緒(こうしょ)を立てよ。無道の人は宜しく早く掃(はら)い除くべし。
我が国家は天と地が初めてできて以来、君主と臣下は決められている。臣下をもって君主となす、こんなことは未だないことである。天照大神の系統の継承には、必ず皇族身分の後継者を立てよ。人の道に外れた人は、悪くないように早く清め除かなければならない。
これは道鏡と称徳天皇の意にそぐわない内容だったため、清麻呂と法均尼による作り事ということにされたといいます。
二人はそれまでの官位を剥奪され、清麻呂は別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と名前を変えられて九州の大隅国へ配流。法均尼も還俗させられ、名前も別部狭虫(わけべのさむし)と変えられて備後国へ配流となりました。
しかし宝亀元年(770年)に称徳天皇は崩御。政局が大きく変わり、道鏡は下野の薬師寺へ左遷となって、宝亀3年(772年)に亡くなります。
清麻呂と広虫は宝亀5年(774年)に許されて都へ戻されました。
和気広虫(わけのひろむし)の法名。和気清麻呂のお姉さんで、阿倍内親王(あべのないしんのう、後の孝謙・称徳天皇)に仕え、孝謙上皇が出家する際に、広虫も共に出家しました。
藤原仲麻呂の乱(764年)で孤児になった子どもたちを引き取って育てたことから、日本で最初に孤児院を作った人と考えられています。
「続日本紀」によると、道鏡は物部弓削大連守屋(もののべのゆげのおおむらじのもりや)の子孫といい、「公卿補任」には天智天皇の孫である施基王(しきおう)の落胤という話もある人物。藤原氏の政策にことごとく反対の立場だったといいます。
物部弓削大連守屋というのは、蘇我馬子と対立した物部守屋のこと。母が弓削氏だったので、物部弓削守屋ともいいます。大連は古墳時代の大和王権にあった役職の一つ。
物部氏は饒速日命(ニギハヤヒノミコト)を祖先とし、天皇家以外で天孫降臨や国見の逸話を持つ唯一の氏族です。
弓削連の本拠地は、河内国若江郡弓削郷(現 大阪府八尾市)にありました。
伊之助が相手の名前を変えて呼ぶ理由
勝手に期待して名前を変えて、自分に不都合なことをしたからと、また名前を変える。少々子どもみたいな印象がありますが、称徳天皇は重祚する前の孝謙天皇の時からこういう言霊(ことだま)を重視した改名があったようです。
橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)の乱に関わった黄文王(きぶみおう)、道祖王(ふなどおう)、賀茂角足(かものつのたり)の場合は、こんな感じ。
道祖王(ふなどおう)→麻度比(まどい) … 惑い者
賀茂角足(かものつのたり)→乃呂志(のろし) … のろま者
懲罰として名前を変える称徳天皇とは少し違いますが、伊之助も、何度も人の名前を変えて呼びますよね。
「アニメ・竈門炭治郎 立志編 第十六話末の大正コソコソ噂話」では、「伊之助は7回に1回くらい、人の名前を正しく言える」ということなので、伊之助の場合は「覚えられない」、「間違えやすい」ということで悪気があるわけではないようですが、称徳天皇の名前改変と重なるところがありそうです。(第4巻 27話)
歩けなくなった清麻呂公と猪伝説
この事件で猪が出てくるのは、清麻呂公が大隅国へ配流される途中のこと。足が萎えて歩くことができなくなってしまった清麻呂公は、輿に乗って宇佐八幡の参拝に向かいます。
宇佐郡楷田村(うさぐんかいだむら)に着いたとき、どこからか野猪300匹が現れて、道の両側に並んで10里の間を先導し、山中に消えていったといいます。みんな不思議に思っていたのですが、参拝の日には清麻呂公の足が立ち、歩くことができるようになっていました。「日本後紀」(平安時代初期)
後の時代になると、足は道鏡に傷つけられたものとする話や、猪の大群は道鏡の刺客から清麻呂公を守ったのだと伝える話が現れて、話が様々に広がっていきますが、「宇佐八幡の霊験があった」というところは共通しています。
「和気清麻呂の霊猪伝説における一考察」によると、この猪の伝説は、和気氏の祖先神話だったのではないかと指摘しています。
「日本霊異記」(平安初期)に猪を薬として用いていた例が掲載されていることから、明治まで医家として続いた和気家の暗喩が猪の伝説ではないかというんですね。
参考 「和気清麻呂の霊猪伝説における一考察」和気彩那 | 三重大学 学術機関リポジトリ 研究教育成果コレクション
清麻呂公の長男・和気広世(わけのひろよ)は、医官としての和気家の始祖。
日本で最初の薬物書「薬経太素」(やくきょうたそ)を記し、陰陽書と合わせて、私宅に設置した弘文院で講義を行ったと伝えられています。
学問のうえからだと思いますが、陰陽道と関わりのある人物でもあるようです。
藤の花に縁のある清麻呂公
そしてちょっと注目なのは、清麻呂公は「鬼滅の刃」でも重要な鍵として描かれる、藤の花ともご縁のある人物というところです。
和気氏は弟彦王(おとひこおう)を始祖とする一族。弟彦王は第11代 垂仁天皇(すいにんてんのう)の皇子・鐸石別命(ぬてしわけのみこと)の曾孫にあたる人物です。
忍熊王(おしくまおう)の反乱を和気関で平定した功績で、藤野県(現 岡山県和気郡)を与えられて土着するのですが、藤野の地は名前のとおり、藤が咲き乱れる原野だったと伝えられています。
こうした歴史的背景から、岡山県和気町の藤公園は、全国から集めた百数十種の藤の木が植えられていて、その藤棚は幅7m、総延長500mにもなります。
そして、都に呼び戻されるまでの間を、その周辺で過ごしていたという鹿児島県の和気神社も藤の花が有名です。
これは平成12年(2000年)に和気清麻呂公の没後1200年を記念して、清麻呂公の生誕地である岡山県和気町から贈られたもので、和気神社と和気公園に23種、100本の藤が植えられています。
興味深いのは、このように藤の花と縁のある清麻呂公は、京都・愛宕神社にも深く関わっているところ。
平安京(現・京都)への遷都を進言して都造りにも携わり、御所の北西にある愛宕山(朝日峰)に白雲寺を建立して鎮護国家の道場として整備しているんですね。
愛宕神社は、「鬼滅の刃」に関するイメージが多数見つかる神社です。
神々と深い関係がある猪の歴史
「古事記」では、伊吹山にすむ荒ぶる神が、牛のように大きな白猪の姿で日本武尊命(ヤマトタケルノミコト)の前に現れる話が出てきます。
猪が山の神本人だと気づかない日本武尊命は、「たかが神の使いじゃないか、こんな雑魚、帰ってきてから退治したるわ」(意訳)とスルーするので、怒った山の神に散々苦しめられて、その生命を縮めることになってしまいます。
記紀にこんな物語があるように、山の神と猪はけっこう深い関係があるようです。
山の神様は美しいものが嫌い?
ちょっとびっくりしましたか? すいません。干したオコゼを描いてみました(汗)
伊之助が腰に毛皮を巻いている姿は、山に暮らすマタギや、山伏にも似ています。山は山の神様が支配するところ。そのため、マタギには独特のマタギ文化があります。
山の神様は女の神様なので、とてもヤキモチ焼きと伝わっていて、そのためにマタギは猟で山に入る際に、干したオコゼを持って行くという話が各地に残っています。
山の神様が「自分より醜いものがある」と言って喜ぶそうです。
「むきむきしてるのに、女の子みたいな顔が乗っかってる」(4巻 第26話)と善逸に表現される伊之助が、イノシシの頭を被って顔を隠しているのは、山の神様にヤキモチを焼かせないため… と考えると、ちょっと楽しいですよね。
伊之助の毛皮は、山岳信仰を示す鍵
それはともあれ。山に暮らすマタギと同じように、山伏も毛皮を身につける文化があります。
マタギは防寒具として使うのですが、山伏には宗教的な意味があるみたいですよ。
腰につけている毛皮は引敷(ひっしき・ひきじき)といって、文殊菩薩が獅子に乗っていることになぞらえたり、煩悩の象徴として座ることで、煩悩を制した姿にも解釈されていました。
使われる毛皮は鹿、うさぎ、たぬき、熊など。岩や切り株などに腰掛けるときに、座布団の役割もしてくれる実用品です。
山伏は山岳信仰から生まれた修験道の行者のことで、開祖は鬼を操ると伝えられる役小角(えんのおづぬ)です。
霊山で修行することで呪力を体得した山伏たちは、人々のために病気平癒、雨乞い、悪霊祓いなどの加持祈祷をしていましたが、明治時代になると、神仏分離令(1868年)、修験禁止令(1872年)が立て続けに出たこともあって、戦後に見直されるまで、一時、途絶えてしまいます。
この辺は陰陽道の歴史と似ていますね。
役行者(えんのぎょうじゃ)とも呼ばれる役小角は、京都の愛宕神社の創始にも深く関わる人物。後ほどまとめますが、「鬼滅の刃」の物語でも重要な鍵となる人物のようです。
猪は三ツ山大祭へつながる鍵
戦国時代になると、摩利支天(まりしてん)の眷属として、背中に摩利支天を乗せた猪が描かれるようになります。
摩利支天というのは、常に日月天の前を疾行する陽炎を神格化した神様で、実態がないので敵から危害を加えられることがなく、進路を障害する災難や厄を除いてくれると考えられていました。
「太平記」(南北朝)の「巻五 大塔宮(だいとうのみや/おおとうのみや)熊野落ちの事」では、後醍醐天皇の第一皇子・大塔宮(護良親王)(もりよししんのう)が摩利支天の加護で危難を乗り切る話が出てきます。
そこへ足利方についた按察法眼好専(あぜちのほうげんこうせん)が五百余騎の軍勢を率いて寺内へ打ち入ってきました。
このとき、宮には供が一人もついていなかったため応戦することもできず、兵が隙間なくいるために紛れて脱出することもできず、一時は自害も覚悟するのですが、仏殿に大般若の唐櫃が三つあるのが目に入ります。一つは蓋が開いて、誰かがお経を半分以上取り出していました。
大塔宮は蓋の開いている櫃の中へ身を伏せて、その上にお経を被り、身を隠す摩利支天の隠形印を結び、心の中で呪を唱えていました。
仏殿に入ってきた兵達は、蓋をしている櫃を開けてお経を出し、底を裏返して探すけれども見つかりません。蓋が開いている櫃は「見るまでもない」と言いながら、仏殿を出ていってしまいます。
大塔宮は「兵が帰ってきて、詳しく探すことがあるかもしれない」と思い、急いで検め終わった櫃に入れ替わっていました。
この判断が功を奏し、「蓋の開いてあるのを見なかったのが気がかりだ」と兵たちが再び仏殿に入ってきても見つからずにすみました。
兵たちは蓋の開いた櫃からお経を放り出して探していましたが、「大塔宮はいらっしゃらず、大唐(唐王朝)の玄奘三蔵がいらっしゃったぞ」と笑いながら、皆寺を出ていってしまいました。
摩利支天は古代インド神話の暁の女神ウシャスや、「威光」「陽炎」を神格化したインドの女神マーリーチが起源とされていて、猪に乗って常に日天や月天の先を進み、進路の障害となる災難や厄を除くことができるとされています。
陽炎のように実体のない隠形の身であるため、日天や月天でさえ、その姿を見ることができません。
実体がないので、捕らえることも、焼くことも、濡らすことも、傷つけることもできず、他から害されることがないといいます。でも、姿は見えなくても自在の神通力を持つため、常に身近に陽炎の如く人々を護ってくれます。
このため、護身の神・必勝祈願の神として、戦国時代の武士や力士、忍者などの間でも信仰を集めていたようです。
伊之助は服を着ずに上半身裸で、優れた感覚により上弦の鬼の攻撃さえ躱すことができる特殊な能力を持っていますが、こういうところは摩利支天のイメージに重なりそうですね。
そして大塔宮一行はこの後すぐ般若寺を出て、熊野へ向けて落ち延びることになるのですが、この時のお供衆の中に興味深い人物がいるのです。播磨国、備前国、摂津国の守護を務める赤松氏6代当主、赤松律師則祐(あかまつ りっし のりすけ)です。
射楯兵主神社の臨時祭「三ツ山大祭」を、不定期開催から20年に一度という周期開催に定めた赤松氏11代当主、赤松政村(晴政)のご先祖様です。
伊之助の猪頭は、もしかすると、射楯兵主神社へつながる鍵でもあるのかもしれませんね。
陰陽五行を生かした猪の戦い方
ちなみに、猪で表現される干支の「亥」は、五行では「水」に属していて色は黒。炭治郎の羽織の色と同じカテゴリーに属する象徴です。
五行では同じ要素が重なるの関係は「比和」(ひわ)といって、ますます盛んになる状態。いい方向にいくときには、ますますよくなるといいます。
ただ、悪い方向にいくときには、ますます悪くなるとされているので、両刃の剣みたいですが(汗)
「鬼滅の刃」ではこの関係はとても興味深くて、羽織の色が相剋関係にある炭治郎と善逸は、鼓屋敷、那田蜘蛛山、無限列車と、同じ場所に向かってもいつも距離をとって戦っていました。
伊之助は3カ所とも炭治郎と連携をとって戦っていて、この辺は五行から見ても、とてもバランスのいい描かれ方だと思います。
当ブログでは炭治郎や善逸の羽織について考察している記事があるので、よかったら覗いてみてくださいね。