鬼滅の刃、藤襲山の最終選別にはどんな意味がある?

藤の花のイメージ

Mt. Fujikasane a place where demons are trapped in a prison of wisteria flowers, and aspiring demon-slaying swordsmen are required to survive here for seven days.
藤襲山は藤の花に閉じ込められた鬼のいる場所で、鬼殺の剣士を目指す候補者はここで7日間生き抜くことを求められます。

Zen teachings that are not bound by the past and are not confused by the future will be helpful.
過去にとらわれず、未来に惑わされない、禅の教えが参考になります。

(この記事は、1巻のネタバレを含みます)

藤襲山は、鬼殺隊の剣士を育てるための最終テスト「最終選別」が行われる場所です。

藤の花に閉じ込められた鬼がいる山中で、七日間生き抜くことが合格の条件。この課題をクリアすることで、鬼殺隊に入ることができます。

ただ、鬼殺の剣士として育てられた人たちとはいえ、鬼がいる環境で生き抜くのはかなり厳しいようで、炭治郎が参加した最終選別では、20人以上いた参加者のうち、生き残った者は5人しかいませんでした。

普通に考えると、せっかく育った剣士の卵を高確率で殺してしまうこのシステムは理解しにくいところがあります。

どうしてこのような仕組みになっているのでしょう?

禅が教えてくれる道

禅の世界にヒントになりそうな言葉があります。「前後裁断」(ぜんごさいだん)です。

沢庵和尚が当時の武士に説いた言葉で、「過去と未来を断ち切って今に集中する」という意味です。

管理人がこの言葉に出会ったのは2004年なので、20年近く前になるんですね。

テレビで見たときは「前後裁断」と紹介されていたのですが、改めて調べ直してみると「前後際断」と表記するのが正しいようで、「前際」は過去のこと、「後際」は未来のことを表しています。

その教えは、曹洞宗の開祖、道元禅師の「正法眼蔵」に記されているのですが、そのたとえとして炭を使って説明されていました。こんなところに炭治郎の「炭」がでてきますよ、びっくり(汗)

たき木はひとなる、さらにかえりてたき木となるべきにあらず。しらあるを、灰はのち、薪はさきと見取すべからず。しるべし、薪は薪の法位に住して、さきありのちあり、前後ありといへども、前後際断せり。灰は灰の法位にありて、のちありさきあり。かのたき木、はひとなりぬるのち、さらに薪とならざるがごとく、人のしぬるのち、さらに生とならず。しかあるを、生の死になるといはざるは、仏法のさだまれるならひなり、このゆゑに不生といふ。死の生にならざる、法輪のさだまれる仏転なり、このゆゑに不滅といふ。生も一時のくらゐなり、死も一時のくらゐなり。たとへば冬と春とのごとし。冬の春となるとおもはず、春の夏となるといはぬなり。(「現成公案」「全集」上八頁)

「たき木」は火となる、それがさらに「たき木」に戻るわけではない。けれど、灰が後で、薪が先と見るべきではない。

薪は薪としてのあり方で先があり、後があるが、この先と後は断ち切られて存在すると知るべきである。灰は灰としてのあり方で、後があり先がある。

たき木が灰となった後に、さらに薪になったりしないように、人が死んだ後は、さらに生を得たりしない。

そうであるように、生が死になると言わないのが仏法の定まった教えなので、このため不生という。死が生にならないのも法輪の定まった教えで、このため不滅という。

生も一時のあり方であり、死も一時のあり方である。

例えば、冬と春とのごときものである。冬が春にはならないし、春を夏とは言わないのだ。

道元禅師の教えは仏教の話なので難しいですが、薪は「過去」、炭は「今」、灰は「未来」をたとえています。

沢庵和尚は、柳生但馬守宗矩へ宛てた手紙の中で、前後裁断についてこう語っています。

前後際断と申す事の候。
前の心をすてず、又今の心を跡へ残すが悪敷候なり。前と今との間をばきつてのけよと云ふ心なり。是れ前後の際を切つて放せと云ふ義なり。心をとどめぬ義なり。

急水上打毬子、念々不停留と申す事の候。
急にたきつて流るる水の上へ、手毬を投せば、波にのつて、ばつばと止らぬ事を申す義なり。(不動智神妙録)

前後際断と申すことです。

過去の心を捨てず、また今の心を後へ残すのはよくないことです。過去と今の際を切ってのけよという心です。これは前後の際を切って放せということで、心をとどめないという意味です。

「急水上に打つ毬子は、念々停留せず」といいます。

激しく波立ち流れる水面に手毱を投げれば、ぱっぱっと波にのって留まらぬことを申します。

過去はやり直せない、明日は来ないかもしれない、だから今、この一瞬を真剣に生きる。そうした一瞬、一瞬の積み重ねが、次の新しい瞬間を生み出してくれる。

その一瞬のために徹底して積み重ねてきた月日が、炭治郎たちにとっては鍛錬で、その成果を発揮するのが「藤襲山」ということになります。

ただ、準備の段階でどこまで尽くして万全だと思っていても、本番では理屈や理論が通用しない瞬間があるわけで、第1巻7話で錆兎が言うように、「努力はどれだけしても足りないんだよ」となるのですね。

こうした鬼と対峙する極限の状態を突破して、新しい一瞬を生み出すために必要なのは、もしかすると葉隠に出てくるような「死狂い」が必要なのかもしれません。

死を賭して成し遂げるほどの覚悟があるか、ないか。藤襲山では、単に最終試験というだけでなく、そうした「覚悟」を求められているのかも。

そういえば、鱗滝さんが最初に炭治郎に求めたのも「覚悟」でした(第1巻 3話)

「藤襲山」が意味するところ

「藤襲山」って、ちょっと変わった名前ですよね。特に「襲」の字が目を引きます。

角川 漢和中辞典によると、「襲」は「龍」の部分が音を表していて、「上にかさねる」という語源を持つ言葉からきているそう。

意味は「かさねの衣」で、「上下の着物が揃っている」ことを表していて、以下のような広がりがあります。

・「重ねる」意味から→「受け継ぐ」(紹、承)や、「よる」(因)といった意味が発生

・「かさねる」「おおう」の意味から転じて→「おそいとる」。「急におそう」意味に転用

つまり、読みでは、藤の花が牢獄のように重なって咲いている様子を感じさせるけれど、漢字の意味から見ると、鬼に襲われることも含む表現になるみたいです。

なかなか怖い名前がついてますね(汗)

でも、「死狂い」を発揮するには、相応しい舞台と言えそうです。

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