鬼滅の刃、藤襲山の最終選別にはどんな意味がある?

藤の花のイメージ

Mt. Fujikasane a place where demons are trapped in a prison of wisteria flowers, and aspiring demon-slaying swordsmen are required to survive here for seven days.
藤襲山は藤の花に閉じ込められた鬼のいる場所で、鬼殺の剣士を目指す候補者はここで7日間生き抜くことを求められます。

Zen teachings that are not bound by the past and are not confused by the future will be helpful.
過去にとらわれず、未来に惑わされない、禅の教えが参考になります。

(この記事は、第1巻、ファンブック第一弾のネタバレを含みます)

藤襲山は、鬼殺隊に入るための最終テスト「最終選別」が行われる場所です。

育手の下で鬼殺の剣士として育てられた人たちは、この課題をクリアすることで鬼殺隊に入ることができます。

ただ、育手から剣士にふさわしいと認められて、剣士として育てられた人たちであっても、鬼がいる環境で生き抜くのはかなり厳しいようで、炭治郎が参加した最終選別では、20人以上いた参加者のうち、生き残った者は5人しかいませんでした。

「せっかく育った剣士の卵を高確率で殺してしまうこのシステムは理解できない」という意見を見かけますが、普通に考えると確かにそうですよね。

でも、最終選別の場所をよく見ると、「山」で行われています。山にはどんな意味があるのでしょう?

「藤襲山」が意味するところ

藤襲山を漢字で見ると、ちょっと変わってますよね。特に目を引くのは「襲」の字です。

角川 漢和中辞典によると、「襲」は「龍」の部分が音を表していて、「上にかさねる」という語源を持つ言葉からきているそう。意味は「かさねの衣」で、「上下の着物が揃っている」ことを表していて、以下のような言葉の広がりがあります。

・「重ねる」意味から→「受け継ぐ」(紹、承)や、「よる」(因)といった意味が発生

・「かさねる」「おおう」の意味から転じて→「おそいとる」。「急におそう」意味に転用

つまり、読みでは、藤の花が牢獄のように重なって咲いている様子を感じさせるけれど、漢字の意味から見ると、急に襲われることも含む表現になるみたいです。なかなか怖い名前がついてます。

最終選別の舞台となっている「山の世界」

そもそも山は「山の神」がおわす場所。「鬼滅の刃」を通して見ると、山の神様にまつわるアイコンがそろっていることがわかります。

山の神の使いとも山の神そのものともいわれているカラス(鎹鴉)ウサギ(禰豆子)イノシシ(伊之助の被り物)などがそうですね。

火の神を祀る愛宕神社がある愛宕山も「山」です。

京都の愛宕神社には、炭治郎のイメージと重なる勝軍地蔵や、善逸のイメージと重なる大黒天掌善童子、伊之助のイメージと重なる鴉天狗掌悪童子が祀られていました。

さらに愛宕山の歴史を紐解くと、その西麓はもともと葬地で、死霊を祀って祖霊化する霊山だったようです。

人と神との境界であるとともに、生と死の境界でもあったわけで、藤襲山は鬼が閉じ込められていなくても、「山」という少し特殊な場所として見る必要がありそうです。

こうした場所で行われる最終選別の合格条件は、鬼がいる中で7日間生き抜くこと(第1巻 6話)

条件を見ると、単に腕力や技能を試す「腕試し」ではないことがわかります。

禅が教えてくれる道

腕試しでなければ、7日間をどう過ごせばいいのでしょう?

世の中が乱れに乱れた戦国の時代、多くの武士に支持された禅には「前後裁断」(ぜんごさいだん)という言葉がありました。

沢庵和尚が当時の武士に説いたといわれている言葉で、「過去と未来を断ち切って今に集中する」という意味です。

管理人がこの言葉に出会ったのは2004年なので、20年近く前になるんですね。

テレビで見たときは「前後裁断」と紹介されていたのですが、改めて調べ直してみると「前後際断」と表記するのが正しいようで、「前際」は過去のこと、「後際」は未来のことを表しています。

その教えは、曹洞宗の開祖、道元禅師の「正法眼蔵」に記されているのですが、そのたとえとして炭を使って説明されていました。こんなところに炭治郎の「炭」がでてきますよ、びっくり(汗)

たき木はひとなる、さらにかえりてたき木となるべきにあらず。しらあるを、灰はのち、薪はさきと見取すべからず。しるべし、薪は薪の法位に住して、さきありのちあり、前後ありといへども、前後際断せり。灰は灰の法位にありて、のちありさきあり。かのたき木、はひとなりぬるのち、さらに薪とならざるがごとく、人のしぬるのち、さらに生とならず。しかあるを、生の死になるといはざるは、仏法のさだまれるならひなり、このゆゑに不生といふ。死の生にならざる、法輪のさだまれる仏転なり、このゆゑに不滅といふ。生も一時のくらゐなり、死も一時のくらゐなり。たとへば冬と春とのごとし。冬の春となるとおもはず、春の夏となるといはぬなり。(「現成公案」「全集」上八頁)

「たき木」は火となる、それがさらに「たき木」に戻るわけではない。けれど、灰が後で、薪が先と見るべきではない。

薪は薪としてのあり方で先があり、後があるが、この先と後は断ち切られて存在すると知るべきである。灰は灰としてのあり方で、後があり先がある。

たき木が灰となった後に、さらに薪になったりしないように、人が死んだ後は、さらに生を得たりしない。

そうであるように、生が死になると言わないのが仏法の定まった教えなので、このため不生という。死が生にならないのも法輪の定まった教えで、このため不滅という。

生も一時のあり方であり、死も一時のあり方である。

例えば、冬と春とのごときものである。冬が春にはならないし、春を夏とは言わないのだ。

道元禅師の教えは仏教の話なので難しいですが、薪は「過去」、炭は「今」、灰は「未来」をたとえています。

沢庵和尚は、柳生但馬守宗矩へ宛てた手紙の中で、前後裁断についてこう語っています。

前後際断と申す事の候。
前の心をすてず、又今の心を跡へ残すが悪敷候なり。前と今との間をばきつてのけよと云ふ心なり。是れ前後の際を切つて放せと云ふ義なり。心をとどめぬ義なり。

急水上打毬子、念々不停留と申す事の候。
急にたきつて流るる水の上へ、手毬を投せば、波にのつて、ばつばと止らぬ事を申す義なり。(不動智神妙録)

前後際断と申すことです。

過去の心を捨てず、また今の心を後へ残すのはよくないことです。過去と今の際を切ってのけよという心です。これは前後の際を切って放せということで、心をとどめないという意味です。

「急水上に打つ毬子は、念々停留せず」といいます。

激しく波立ち流れる水面に手毱を投げれば、ぱっぱっと波にのって留まらぬことを申します。

テレビで紹介されていた「前後裁断」は、道元禅師の教えと沢庵和尚が混ざってしまっていたのかもという気がしてきましたが(汗)

ともあれ、過去はやり直せない、明日は来ないかもしれない、だから今、この一瞬を真剣に生きる。そうした一瞬、一瞬の積み重ねが、次の新しい瞬間を生み出してくれる。その一瞬のために徹底して積み重ねてきた月日が、炭治郎たちにとっては鍛錬で、その成果を発揮するのが「藤襲山」ということになります。

ただ、準備の段階でどこまで尽くして万全だと思っていても、本番では理屈や理論が通用しない瞬間があるわけで、第1巻7話で錆兎が言うように、「努力はどれだけしても足りないんだよ」となるのですね。

こうした鬼と対峙する極限の状態を突破して、新しい一瞬を生み出すために必要なのは、死を賭して成し遂げるほどの覚悟があるか、ないか。

藤襲山では、単に最終試験というだけでなく、そうした「覚悟」を求められていたのかもしれません。そういえば、義勇さんや鱗滝さんが最初に炭治郎に求めていたのも「覚悟」でした(第1巻 1話、第1巻 3話)

帰ってこれた人と帰ってこれなかった人

ただ、最終選別に臨む際に20人以上いた剣士たちは、育手の下で一定期間を修行してきた人たちなので、きっとそれなりに覚悟があったはずなのに、多くの人は帰ってこれませんでした。

それは生け捕りにした鬼(第1巻 6話)が山に放たれていたからですが、でもそれだけなら、炭治郎が助けようとしていた少年のように、「アイツがやられてるうちに早く逃げよう…!!」(第1巻 7話)といった行動をとっていれば、うまくすれば生き残ることができたかもしれないんですよね。でも、この少年も帰ってこれなかった人でした。

「山の神 易・五行と日本の原始蛇信仰」(吉野裕子著)によると、古代日本の英雄「倭健命」(ヤマトタケルノミコト)が死んでしまったのは、山の神の領域である伊吹山に踏み入ったことが原因だったと紹介されています。

「山の神は呪力の守護をもたぬ人間を立ちどころに襲うが、第二にはその祖霊としての尊厳性の上からも、礼を欠く人間に対しては即時即刻、剋殺をもってその無礼に報復し、仕返しをする」とのこと。

倭建命は多くのまつろわぬ者を平定してきた英雄ですが、このときは倭姫命(ヤマトヒメノミコト)から与えられた、その身を守るはずの刀剣「草薙剣」(くさなぎのつるぎ)を持っていませんでした。

山は古くから、かなり苛烈な神様が支配する領域だったということになります。

こうして見ると、15人以上もの帰ってこれなかった人たちは、ほんとうにすべて鬼のせいだけだったんでしょうか? もしかすると、急に襲うものが、他にもあったのかもしれませんね。漫画では描かれていませんが、ちょっと気になる部分です。

ちなみに、ファンブック第一弾には「鬼滅の刃」の前身となる「鬼殺の流」が収録されていて、ここにも藤襲山の最終選別が出てきます。

この中で、「鬼殺隊の剣士は鬼の気配を察知する能力が極めて高い、彼らは七日間の最終選別で、その能力を身につけるのだ」(ファンブック第一弾 200頁)と、最終戦別の目的の一つが紹介されています。

当ブログでは、炭治郎のキツネ面は「山の神の厄災から守り、その守護を授かるためのお守り」ではないかと考察しているのですが、山の神から授かるものの一つが「鬼の気配を察知する能力」なのかもしれませんね。

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