宇髄さんの目の化粧が示す、物語を読み解くもう一つのヒント

亀戸天神社の社紋と花火

Uzui’s eye makeup resembles fireworks. This image is likely to be connected to Yoshimune Tokugawa.
宇髄さんの目の化粧は、花火にも似ています。このイメージは、徳川吉宗につながっていきそうです。

Demon Slayer sometimes overlaps with the imagery of the Tale of Genji. The hint seems to be hidden in Tokugawa Yoshimune.
鬼滅の刃は源氏物語のイメージが重なることがあります。そのヒントは徳川吉宗に隠れていそうです。

(この記事は、第1巻、第6巻、第7巻、第23巻、ファンブック第一弾、鬼滅の刃 外伝・冨岡義勇外伝 前編のネタバレを含みます)
 

別記事にまとめたように、宇髄さんの目の化粧は亀戸天神社の社紋によく似ていますよね。

亀戸天神社は、明暦の大火後に造成された新しい土地に創建された神社で、明暦の大火を共通項とするものに回向院があります。

回向院がある隅田川沿いには煉獄さんの趣味の「能」に重なる「梅若伝説」があり、この伝説を題材にした「隅田川」には、「伊勢物語」の在原業平(ありわらのなりひら)が関わっています。

在原業平の周辺を探してみると下弦の鬼の名前に一致するキーワードが見つかるので、病葉、轆轤、釜鵺は、在原業平を指すヒントになっていそうです。

 

 

これはどうしてなのか?

その理由は、やはり宇随さんの目の化粧にヒントがありそうですよ。

ファンブック第一弾の「極秘設定資料集」(136頁)には、宇随さんの目の模様の描き方として、「おおよそ放射線のイメージで描いています」と説明されています。

隅田川にも放射線をイメージさせるものがありますよね。花火です。

この花火には「玉屋、鍵屋」の掛け声がつきもので、これは花火師の屋号が元になっています。花火師の人達は、火伏せの神でもある稲荷を信仰していたからです。

お稲荷さんの神使である狐は、鍵、玉(宝珠)、巻物、稲をくわえていますが、特に玉と鍵はワンセットの扱いになっていて、伏見稲荷大社の楼門にある対の狐像も玉と鍵をくわえています。

狐といえば、「鬼滅の刃」でも鱗滝さんの狐面が出てきましたよね(第1巻 6話)。狐と関わりのある花火にも、何かが重ねられていそうですよ。

両国の花火につながる徳川吉宗のイメージ

両国の花火がいつどのように始まったのか、実は公式の記録に残されていないので、本当のところはよくわからないようです。

でも、こんな言い伝えが残されています。

 

享保2年(1717年)のこと。幕府の許可を得た御浜御殿ののろし方を務める弥兵衛が、5月28日の水神祭りの余興として打ち上げ花火を行った。
享保18年(1733年)に、飢饉や疫癘(えきれい)で亡くなった多くの人々を慰霊するために、徳川吉宗が5月28日に水神祭りを行ったといい、このときに隅田川の水茶屋が催した「川施餓鬼」の余興で鍵屋・弥兵衛が打ち上げ花火を行った。

 
参考 消防雑学事典 コレラで始まった両国花火 | 東京消防庁
参考 隅田川花火大会の歴史 | 隅田川花火大会
 

疫癘(えきれい)
疫病(えやみ)ともいって、現在でいう赤痢、疱瘡(ほうそう・天然痘)、流行性感冒(インフルエンザ)、赤斑瘡(あかもがさ・麻疹)、瘧(おこり・マラリア)などの伝染病全般をいいます。
川施餓鬼
施餓鬼は仏事の一つで、飢えと乾きに苦しむ餓鬼に飲食を施し、供養することによって、施した人も極楽往生することを祈ります。

川辺で水死者などの霊を弔う施餓鬼を川施餓鬼といいます。

 

享保2年は、吉宗が将軍に就任した翌年。

そして享保18年は、その前年に発生した「享保の飢饉」によって米価が高騰し、正月26日には江戸市中で初めて打ち壊し(高間騒動)が発生するなど、吉宗が主導してきた享保の改革にブレーキがかかった年です。

隅田川の花火の伝説が示す年代は、どちらも吉宗にとって大きな出来事が関わっているといえそうです。

不死川さんの出身地が示すもの

花火が徳川吉宗につながっていくとすると、不死川実弥の出身地「東京府、京橋區(中央区、京橋)」(ファンブック第一弾 70頁)は、ちょっと興味深い場所になってきます。

というのも、京橋には昭和32年(1957年)に建立された「江戸歌舞伎発祥の地」という記念碑があるのです。

そして明暦の大火につながる回向院には、江戸歌舞伎の祖で猿若座(後に中村座)を興した初代・中村勘三郎のお墓がありました。

つまり、不死川さんの出身地にある江戸歌舞伎発祥の地の碑は、回向院に眠る中村勘三郎が中橋南地(なかはしなんち)で初めて興行を始めたことを記念するものなのです。

江戸歌舞伎発祥の地の碑のそばには、明治時代や大正時代の京橋の親柱が残されているのですが、現地を訪れた人によると、京橋の碑と並ぶ明治時代の親柱のそばに警察博物館があるそうですよ。

第23巻 205話に登場する不死川さんに重なりますよね。

 
中橋南地のあった場所

参考 「武州豊嶋郡江戸〔庄〕図」寛永9年 | 国立国会図書館デジタルコレクション
 

上の図は、現在の東京と、中橋があった頃の江戸の地図をざっくり重ねてみたところです。

現在の久安橋から東京駅の間には紅葉川水路という水路があり、中橋はこの水路に架かっていました。現在の八重洲通りと中央通り(旧東海道)が交差した辺りです。

中村座が最初に興行を始めたという中橋南地はこの周辺、現在の久安橋の辺りにあったと考えられるようです。

中央区立図書館の「郷土室だより 第72号」内の「中央区の海岸線(その四)」によると、紅葉川対岸の「松平中務中屋敷」(まつだいらなかつかさ なかやしき)のあたりを描いた江戸図屏風に、芝居小屋・遊女屋・操り人形芝居・銭湯などが“杭上家屋”の形で極彩色に描かれたものがあるそうです。

 
参考 地名の由来 | Kyobashi ─TIMES─
参考 京橋物語6 ~曲がり角の先の街 | 中央区観光協会オフィシャルブログ 中央区観光協会特派員ブログ
参考 京橋の欄干柱 | 東京都千代田区の歴史
参考 No68~No.75 特集:中央区海岸線 「71.中央区の海岸線(その四)」、 No.101~N0.121 特集:続中央区の橋 120.「『続』中央区の“橋”(その20)」 | 中央区立図書館
 

木挽町でつながる歌舞伎と柳生

興味深いのは、山村座があった木挽町には、少し時代が下ってから柳生道場が開かれているところです。「郷土室だより」によると、享保10年(1725年)に北八丁堀から木挽町に引っ越してきたそうですよ。

 
参考 郷土室だより 特集別バックナンバー No.14~No.40 特集:切絵図考証 「38. 切絵図考証二五 安藤菊二」
 

柳生といえば、柳生新陰流の祖である柳生宗厳(やぎゅう むねよし)が、剣術修行で天之石立神社(あまのいしたてじんじゃ)に籠もっていたとき、天狗が現れて果たし合いになったという伝説があります。

宗厳が斬りつけると天狗の姿は消えて、後には真っ二つに割れた巨岩が現れたといい、宗厳はこの体験から剣術の極意を得たのだとか。

炭治郎の狭霧山の修業にちょっと似てますよね。(第1巻 4話、5話)

狭霧山のエピソードも、もしかすると歌舞伎につながるイメージなのかもしれませんよ。

8代将軍・吉宗誕生と歌舞伎の関係

中村座が興行を始めてしばらくすると、村山座(後の市村座)、山村座、森田座(後の守田座)が公許を得て歌舞伎の興行を始めます。

最初は四座あった江戸歌舞伎ですが、このうち山村座は正徳4年(1714年)に廃絶となってしまいます。絵島生島事件です。

事の発端は、月光院付きの御年寄・絵島の起こした門限破りでした。

月光院の名代として、6代将軍・徳川家宣の墓参のために増上寺へ参詣したときのこと、呉服御用達の商人の誘いで山村座の芝居見物などをしているうちに、大奥の門限(午後6時)に遅刻してしまうのです。

そして、これをきっかけに、歌舞伎役者・生島新五郎との密通が発覚したとされ、大奥のスキャンダルに発展しました。

ただ、最近では密通は冤罪で、徳川家宣の正室である天英院と側室の月光院の対立が背後にあったのではないかという意見もあります。絵島をはじめ1500人の処罰者を出したこの事件は、7代将軍・家継の生母として大奥で力を持っていた月光院派を切り崩す事件でもあったわけですね。

そして家継が7歳(1716年)で没し、紀州と尾張で後継者争いになったとき、紀州藩主・徳川吉宗を8代将軍に指名したのは天英院だったという説があります。

大奥と歌舞伎界を揺るがせた絵島生島事件は、吉宗の将軍就任に大きな影響を及ぼした可能性がある事件なのです。

源氏物語へつながる、吉宗の桜

歌舞伎は吉宗につながっていくキーワードみたいですね。

ファンブックを探してみると、他にも吉宗を指すヒントがありそうですよ。胡蝶しのぶ、栗花落カナヲ、冨岡義勇の出身地です。

胡蝶しのぶの出身地が示すもの

胡蝶しのぶの出身地は、東京府 北豊島郡 滝野川村(北区、滝野川)です。(ファンブック第一弾 62頁)

滝野川村のそばを流れる滝野川は、その上流では石神井川(しゃくじいがわ)、王子権現(現 王子神社)付近からは音無川とも呼ばれる隅田川の支流です。

武蔵野台地と衝突して蛇行するため周辺は複雑な地形になっていて、権現の滝、大工の滝、不動の滝といった渓谷が連なる風光明媚な土地でした。

馬場文耕(ばば ぶんこう)の「宝丙密秘登津」(ほうへいみつがひとつ)によると、「音無川の蛍は宇治瀬田の蛍と変わらぬ光を放つ」と大奥でも評価された話が紹介されています。

滝野川は、京都の宇治川と蛍で重なる場所でもあるようです。

 
参考 区政情報 > 広報 > 映像・画像資料リスト、電子展示室 > こうぶんしょ館電子展示室一覧 > こうぶんしょ館電子展示室46号「石神井川のいま・むかし」 | 板橋区役所
 

そして滝野川村の北東に接する飛鳥山は、吉宗によって江戸庶民のために開発(1720年)された江戸期有数の行楽地でした。

飛鳥山が整備される以前は、桜の名所も一本の木を愛でるというスタイルが一般的で、複数の木を群植させて楽しむ場所は、吉野山をお手本にした上野の寛永寺くらいしかなかったようです。

ただ、寛永寺は徳川家の菩提寺だったため酒盛りは禁止。山門が閉ざされる暮六つ(午後六時頃)になると見物人は追い出されていました。

飛鳥山より少し早く整備(1717年)が始まっていた浅草の隅田川沿いの桜は、夜桜はOKですが歌舞音曲の類は禁止です。

この点、飛鳥山の場合、酒盛りはもちろん、歌舞音曲の類や仮装もOKでした。

元々ここは将軍の御鷹場(岩淵筋)で、滝野川村の領主である旗本・野間氏の所有地でした。元文2年(1737年)3月4日に野間氏は御用地へ領地替えとなり、3月10日に飛鳥山は王子権現(金輪寺)へ寄付されて、3月11日には将軍主催の酒宴が催されて、吉宗も家臣と一緒に無礼講で花見を楽しんだといいます。

こうした手続きは官地のイメージを払拭し、飛鳥山の行楽で庶民が制限を受けないようにするための処置だったと考えられています。飛鳥山はちょっと特別だったんですね。

こうした背景から、飛鳥山を舞台にした落語「花見の仇討ち」(はなみのあだうち)という演目が生まれます。

江戸中を驚かせるような花見をしようと江戸っ子4人が仇討ちの茶番狂言を計画し、練習も重ねたのに、当日は思わぬ方向に話が転がっていくという内容です。この噺でも、「六」という数字がオチになっているところが興味深いですよ。

そして「仇討ち」のキーワードは、しのぶさんに重なります。ファンブック第一弾でも、「敵を討つ」ではなく「仇を討つ」と表記されています。(63頁)

ちなみに、野間氏は尾張国知多郡野間郷の人です。「吉原はこうしてつくられた」によると、新吉原をつくったのは知多郡須佐村の人々や陰陽師たちであると指摘していて、野間氏と同じ地域の人々になるようです。新吉原は遊郭編の舞台だったわけで、興味深いご縁です。

 
参考 「飛鳥山にみる名所づくりの思想」小野良平 | J STAGE
参考 第18話 落語「花見の仇討ち」 “飛鳥山”花見で野次馬になる | 落語の舞台を歩く
参考 「吉原はこうしてつくられた」西まさる
 

栗花落カナヲの出身地が示すもの

カナヲの出身地、東京府 本所區(墨田区、向島)にも、吉宗に関わる桜があります。

三囲神社(みめぐりじんじゃ)から木母寺(もくぼじ)のあたりにある隅田川沿いの堤は「墨田堤」(すみだづつみ)といって、4代将軍・家綱のころから桜は植えられていたようです。それが享保2年(1717年)になると、吉宗によって一気に100本の桜が植えられます。

「長命寺の桜もち」で有名な「山本や」ができたのもこの頃のこと。「鬼滅の刃」では、第6巻 45話末の「大正コソコソ噂話」で、甘露寺蜜璃の大好物は桜餅であることが明かされていてイメージが重なります。

そして、このそばにある「向島百花園」も、歌舞伎とご縁のある名所になるようです。開園に関わった骨董商の佐原鞠塢(さはら きくう)が芝居茶屋で働いていた時期があり、その関係から人気役者と百花園を描いた浮世絵が数多く残されているのです。

向島百花園は梅や秋の七草といった日本古来の草木を集めた花園で、花の呼吸の使い手・胡蝶カナエに助けられたカナヲにぴったりですよね。(第7巻 番外編)

冨岡義勇の出身地が示すもの

義勇さんの出身地、東京府 豊多摩郡 野方村(中野区、野方)には、村の南側に吉宗によって整備された桃園(ももぞの)がありました。この一帯も将軍の御鷹場です。

そして、「生類憐れみの令」が出されていた5代将軍・綱吉の時代には、保護した犬を収容するための「お囲い御用屋敷」が設けられていました。

中野区役所のサイトで紹介されている「なかの物語」によると、現在のJR中央線の線路を南北に挟んで、中野駅から環七通りまでの広大な土地に、犬を収容するための施設「一の囲」から「五の囲」が設けられていたといいます。

綱吉が亡くなって「生類憐れみの令」が廃止されると犬小屋もなくなり、吉宗によって再び御鷹場として復活するのですが、犬に関する苦労はその後も続いていたようですよ。

「幕府鷹場と江戸の町」によると、将軍の鷹狩の邪魔にならないように、飼い犬の場合はつないでおくか遠方へ移動させること。野犬の場合は遠方へ捨てにいき、戻ってきてしまった場合はまた捕獲して捨てに行くことといったお触れが度々出ていたのだそう。

「お囲い御用屋敷」が廃止された後、保護されていた犬は周辺の地域住民に預けられていったのですが、その後、犬が増えたことで、鷹狩に支障が出るほどになっていたようです。とはいえ、御拳場(おんこぶしば)では殺生が許されないということで、犬に関する苦労は尽きなかったみたいですね。

そういえば「鬼滅の刃」でも、義勇さんにとって犬は鬼門でした。(ファンブック第一弾 86頁、鬼滅の刃 外伝・冨岡義勇外伝 前編)

 
参考 中野区あれこれ > 中野豆知識 > 歴史民俗資料館長が語る なかの物語 5. 其の五 徳川将軍家と中野 | 中野区役所
参考 幕府鷹場と江戸の町 根崎光男 | 法政大学学術期間リポジトリ

 

御拳場
将軍のための鷹場のこと。

生類憐れみの令以降、鷹場も衰退していましたが、吉宗の命により復活。六郷筋(品川筋、目黒筋、中野筋、戸田筋、岩淵筋、葛西筋)に再整備されます。

このとき、将軍自らが拳に鷹をすえて狩りをすることから「御拳場」と名付けられました。

 

桃園は、お囲い御用屋敷の五の囲(現 中野3丁目全域)の跡地に造られていました。

鷹狩りの際にこの地を気に入ったという吉宗の命で、享保20年(1735年)に紅白の桃が植えられ、さらに3代将軍・家光が命名したという高円寺の桃園(ももその)もこの地に移設して、お立場(鷹狩の際の休息所)として整備されたのがそのはじまりです。

 
参考 会報「えど友」バックナンバーリスト 平成31年/令和元年(2019年) えど友 No.108 | 江戸東京博物館友の会
参考 大日本名所圖會第九十一號 明治四十四年九月二十日發行 2017A_21_2_016_16.pdf | 江戸東京研究センター
参考 東京都 高円寺・中野 | 三井住友トラスト不動産
 

紀州家・菩提寺が指す平安時代の縁

飛鳥山、隅田川、中野、そして、今はなくなってしまいましたが御殿山の桜も吉宗によるものといいます。江戸の桜の名所は吉宗によってつくられたと言われるだけありますよね。

飛鳥山博物館によると、吉宗の北区周辺への御成は30回を数えたといい、飛鳥山周辺の地を特に気に入っていたといいます。

これは自分の出身地に関わる神様「王子権現」(現 王子神社)が祀られていたため、特に思い入れがあったのではないかと考えられるのだそう。

そもそも「飛鳥山」の地名も、元亨2年(1322年)に当時一帯を治めていた豊島氏により、紀州から若一皇子宮(にゃくいちおうじぐう)(熊野権現の御子神)を現在の王子権現に勧請した際に、山上に飛鳥祠(あすかやしろ)を勧請したことに由来すると伝えられています。

 
参考 『江戸名所図会』(飛鳥山)
参考 会報「えど友」バックナンバーリスト 平成26年(2014年) えど友 No.79 | 江戸東京博物館友の会
 

王子権現(王子神社)
東京十社の一つで、御祭神は王子大神(伊邪那岐命、伊邪那美命、天照大御神、速玉之男命、事解之男命)。

創建は不明ですが、源義家(通称・八幡太郎)の後三年の役(1083年~1087年)の帰路で慰霊祈願を行った故事があります。

元亨2年(1322年)に領主・豊島氏が紀州熊野三社より王子大神を勧請して若一王子宮として祀り、熊野にならって景観を整えたことから熊野信仰の拠点となっていました。

滝野川がこの近辺で音無川と呼ばれるのも、熊野本宮大社の近くを流れる音無川にちなんだ呼び方になります。

春日局が竹千代(三代将軍・徳川家光)の健康と大成を祈願して成就したことから槍を奉納した故事があり、徳川家からも篤い崇敬を受けていました。

 

興味深いのは、吉宗が生まれた紀州家の菩提寺・長保寺(ちょうほうじ)は、「花の寺」と呼ばれているところです。江戸時代から牡丹の栽培が盛んだったそうですよ。

境内の桜は吉宗の時代にも咲いていたそうで、現在では吉宗桜と呼ばれています。

 
参考 吉宗桜 | 長保寺
 

もしかすると、蝶屋敷での機能回復訓練が描かれる第6巻カバー折り返しの牡丹は、長保寺の牡丹かもしれませんね。

そして、義勇さんが那田蜘蛛山で活躍する第5巻カバー折り返しの八重桜は、中野桃園の桜かもしれません。

吉宗が整備した桃園は江戸末期にほとんど枯れてしまったそうですが、その後は中野通り(JR中野駅~哲学堂公園)の桜のトンネルが代表するように、この周辺は桜の名所になっているのです。

咲いている花の大部分はソメイヨシノですが、中野四季の森公園には遅咲きの八重桜があり、伊之助の大好きなドングリ(第7巻 55話)ができるスダジイも植えられているみたいですよ。

 
参考 ニュース&イベント > 2020.04.24 春爛漫の中野四季の都市、今咲いているお花をご紹介します | 中野セントラルパーク
 

長保寺も興味深いお寺で、長保2年(1000年)に一条天皇の勅願を受けて建立されたのがそのはじまり。完成したのは、藤原道長が太政大臣となった寛仁元年(1017年)です。

一条天皇には皇后が二人いましたよね。

一人は清少納言が女官として付いていた定子皇后。清少納言は「枕草子」の作者です。

もう一人は紫式部が女官として付いていた彰子皇后。紫式部は「源氏物語」の作者です。

清少納言は髪に自信がなかったため「かもじ」を付けていたといいます。

興味深いことに、王子権現の境内には、髪の祖神・蝉丸を祀る関神社があるのです。

蝉丸の姉は逆髪(さかがみ)であることを悲しんでいたため、現在でいうカツラや付け毛のような「かもじ」を考案して髪を整えたことから、蝉丸は髪の祖神と呼ばれているんですね。

しかも「枕草子」には、宇随さんにつながる尻たたきの風習が描かれていました。

そして、「鬼滅の刃」の物語の中には、「源氏物語」とイメージの重なる場面が度々出てきます。

つながっていきますね。

「源氏物語」と「在原業平」を組み合わせると、さらに「鬼滅の刃」のヒントにつながっていきそうですよ。長くなったので、この後は別記事でまとめていきますね。

当ブログでは、他にも宇髄さんに関する考察記事があります。よかったら、こちらも覗いてみてくださいね。

 

 

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