宇髄さんの左目の化粧は、菅原道真が好きだった梅の花や、道元禅師の伝える仏の目のイメージがあります。
And it gives us a hint to understand the story of Demon Slayer.
そして、鬼滅の刃の物語を理解するためのヒントを教えてくれます。
(この記事は、2巻、3巻、11巻、第13巻、ファンブック第一弾のネタバレを含みます)
上の図は京都・宇治周辺の地図です。
「鬼滅の刃」には物語の鍵を握っていそうな場所がいくつかあり、興聖寺(こうしょうじ)もその一つ。
別記事でも善逸や伊之助のイメージがあることを考察しましたが、このお寺には宇髄さんに重なるイメージもあるようです。
このイメージは煉獄さんの趣味がヒントとなるキーワードにつながっていて、遊郭編の物語のヒントにもなっていそうですよ。
宇髄さんの左目の化粧に重なる亀戸天神社
宇髄さんの左目の化粧は、天神さまの社紋によく似ています。特に亀戸天神社の模様にそっくりです。
宇髄さんの左目の周囲には、天神さまの社紋・梅紋のような化粧が施されています。
天神さまの梅紋にはいくつかバリエーションがありますが、中でもよく似ているのが亀戸天神社のもの。
この神社は地形や社殿、楼門、太鼓橋など、太宰府の社に倣って造営していることから、東の大宰府と呼ばれています。
御祭神は菅原道真公を神格化した天満大神(テンマンオオカミ)。相殿には菅原家の祖神である天菩日命(アメノホヒノミコト)が祀られています。
興聖寺の梅と宇髄さん
宇髄さんの左目の化粧が梅紋だとすると、興聖寺にも象徴的な「梅の花」があります。歴代住職をお祀りしている「開山堂」の別名が「老梅庵」というのです。
道元禅師が梅を愛したことからこう呼ばれているそうで、堂内には竹の椅子に座った道元禅師の坐像が安置されています。
でもこの梅の花は、単に自分が好きだからというだけで大切にしていたわけではないみたいですよ。
道元禅師の著書「正法眼蔵」(しょうぼうげんぞう)の「梅花」の巻では、師匠である如浄禅師(にょじょうぜんじ)が、仏の教えについて「老梅樹」という言葉で表現していたことが出てきます。
そしてその中で、こんな四句が紹介されているのです。
瞿曇打失眼晴時 雪裡梅花只一枝 而今到處成荊棘 却笑春風繚亂吹
釈迦が凡夫としての眼を失ったとき(悟りを成ぜられたとき)、深い雪の中に、梅の花がただ一枝、咲いている。今はあらゆる所で茨がはびこっている。だが、かえって笑う。梅の花が美しく咲き乱れ、春のそよ風が吹くことを。
釈迦が出家する前の姓「ゴーダマ」の音訳
瞳、眼球、ものの見方、般若(仏知恵)の光明のこと
雪の中、雪が降る中
今、ただ今
茨の生えた荒れた土地、障害や困難の象徴
釈迦から伝わる正法を、「雪中の梅花こそがまさしく如来の眼睛(仏の知恵、悟り)である」と如浄禅師は伝えています。
道元禅師自身も、その教えを正しく受け継いでいると説明する中で、この四句が出てくるのです。
この釈迦を宇髄さんに置き換えると、遊郭編で「ただでさえ若手が育たず死にすぎるから」「死ぬまで戦え」と文句を言う伊黒さんに、「若手は育ってるぜ確実に」と笑う宇髄さんの姿に重なってきそうです。(第11巻 97話)
そういえば、炭治郎、善逸、伊之助が初めて出会う第3巻のカバー折り返しには、梅の花が描かれていましたよね。
そして梅といえば、菅原道真公もこよなく愛した花と伝えられていて、道真公が5歳のときに詠んだ和歌にも梅の花が織り込まれています。
かわいいな 紅の色をした 梅の花 あこ(阿呼、道真公の幼名)の顔にもつけてみたいな
こうして見ると宇髄さんの左目の化粧は、如浄禅師が道元禅師に「如来の眼睛(がんせい)」と伝えた梅の花のイメージと、道真公が「阿呼の顔にもつけてみたい」と歌に詠んだ梅の花のイメージが重なっていると考えることができそうです。
亀戸天神社ができた場所
亀戸天神社のホームページによると、菅原道真公の末裔で、太宰府天満宮の神人だった菅原大鳥居信祐(すがわらのおおとりい しんゆう)という人物が、神のお告げにより天神信仰を広めるため、社殿建立の志を立てて旅に出たことが神社の始まりとされています。天保3年(1646年)のことです。
信祐は神社建立に適う土地を探して諸国を歩くのですが、十年かけても見つからず、武蔵国の本所・亀戸村にやって来ます。
このときの江戸は、町の大半を焼き尽くした明暦の大火(1657年)から復興するところでした。
亀戸村があった本所は、周囲の湿地帯を埋め立てる大規模な開発が行われた新しい土地で、武家屋敷や社寺、町家などが移転していました。
信祐は亀戸を社殿建立の地と定め、元々村にあった天神の小さな祠に、道真公ゆかりの飛び梅の枝に天神を刻んだ尊像をお祀りしたといいます。
現在の社地は、本所の鎮守神として道真公を祀るために寛文元年(1661年)に4代将軍・徳川家綱が土地を寄進したもので、寛文3年(1663年)に社殿などが造営されています。
もし、明暦の大火がなく、本所の埋め立ても行われていなかったら、信祐はまだ諸国を歩いていたのかもしれませんね。
参考 御祭神・由緒 | 花の天神様 東宰府天満宮 亀戸天神社
参考 【南葛飾】本所亀戸町 | 江戸町巡り
参考 早わかりKOTO CITY 1590年~1867年 土地開発の始まり 近世(安土桃山時代・江戸時代) | スポーツと人情が熱いまち 江東区
参考 「亀戸天神社」(東京都江東区) | べにーのGinger Booker Club
うどん屋の豊さんと、本所の怪談ばなし
本所といえば、原作にも本所をイメージさせるものが出てきます。それは、屋台のうどん屋さんです。
浅草にやって来た炭治郎は、街の発展ぶりと人混みの多さに驚いて、人通りのない場所に店を出す、豊さんの屋台まで逃げてきましたよね。(第13話)
隅田川を挟んで浅草の反対側に位置する本所には、「消えずの行灯」という怪談があります。
怪談の舞台は、本所南割下水(ほんじょみなみわりげすい)の辺り(現 北斎通り)。「割下水」というのは、雨水を集めて川へ流すために開削された堀のことです。
幅2間(約3.6m)ほどあったという堀の周辺は、夜になると二八そばの屋台が出るポイントでしたが、その中に奇妙な屋台があるというのです。行灯に火が灯って、湯も沸いているのに、主人の姿がないのです。
待っていても誰も現れない。そして、誰も油を足さないのに、行灯の火は尽きることもない。タヌキの仕業か、キツネの仕業か、いつの間にか現れて、いつの間にか姿を消しているそうですが、ただこの不思議な屋台の行灯の火を消した者は、後で凶事に見舞われると言われ、そのうち店に立ち寄っただけでも凶事が起こると言われていました。
これと反対に「燈無蕎麦(あかりなしそば)」といって、火が消えている屋台の怪談もありますが、こちらは火をつけると後に凶事に見舞われると伝えられています。
「鬼滅の刃」に出てくる屋台は、浅草生まれの浅草育ちという豊さんが主人としているし(ファンブック第一弾 87頁)、場所も「基本的に浅草でうどんを作っています」(ファンブック第一弾 87頁)ということで、「消えずの行灯」と少し違います。
でも、しのぶさんの趣味は「怪談話」というキーワードがあるので気になるところ(ファンブック第一弾 62頁)。第2巻の大正コソコソ噂話などには、「そばも作れるらしいよ」と書かれています。(13話末、ファンブック第一弾 84頁)
朝日新聞の記事によると、意外ですが、明治維新後は東京でもうどんが人気になっていたそうで、明治14年(1881年)に初演された歌舞伎「島鵆月白浪」(しまちどりつきのしらなみ)には、最近は、そばの屋台よりうどんの屋台のほうが多い、というセリフが出てくるのだそう。
玉川上水が開削されてから本格的な新田開発が始まった多摩地方では、江戸時代から小麦の栽培も盛んになっていたようで、青梅市新町の「新町小麦」、東久留米市柳窪の「柳久保小麦」といった人気の小麦が生産されていました。小平市には、糧(かて)と呼ばれる旬の地元野菜を添えて、温かいつけ汁で食べる郷土料理「糧うどん」があります。
承応2年(1653年) … 羽村(はむら)から四ツ谷まで開通。
承応4年(1655年) … 現・小平監視所から野火止用水まで開通。
明暦2年(1656年) … 青梅街道に沿って小川分水が開通。
こうした飲料水や生活用水を供給する施設整備が100万人の人口を超える江戸の町を支え、大衆に広まった初物趣味(一日でも早く旬の始めの野菜や果物、魚を求める趣味)にこたえる形で農業技術が発展していきました。
炭治郎の大正時代は、うどんの時代だったみたいですが、炭治郎はこの屋台に出会った直後に無惨に遭遇しているわけで、豊さんの屋台は凶事を呼ぶという「消えずの行灯」のイメージと重なりそうです。
参考 小平糧うどん | 小平市
参考 復活した「幻の小麦」 | とうきょうの恵み
参考 青梅新町の御用白土伝馬街道を行く | 多摩のジョギング道 ~多摩のむかし道と伝説の旅~
参考 多摩川を遡った江戸・東京の民俗「地口行灯と祭り」 2014年 岡崎 学 共同研究者 鳥丸邦彦 | 公益財団法人 東急財団
参考 禰豆子が持ったうどん屋あった浅草 「鬼滅」で描かれた繁栄はいま 抜井規泰 2021年12月26日 | 朝日新聞デジタル
明暦の大火へつながるキーワード
亀戸天神と消せない灯篭は、どちらも本所にあったものです。これらは明暦の大火を意味しているようです。
本所に建つ亀戸天神社、そして本所七不思議の消えずの行灯、この二つは明暦の大火(1657年)以後に生まれたものと考えることができます。
では、明暦の大火はどんな火災だったのでしょう?
この火災が発生したのは、明暦3年(1657年)1月18日。収束したのは1月20日です。上の図の赤い部分は1月18日~19日に延焼した部分で、オレンジの部分は1月19日~20日に延焼した部分です。
東京消防庁のホームページによると、火災が発生する前は80日近くも雨が降らず、乾燥した日が続いていたといいます。
強風に煽られた火は海を前にしても留まらず、停泊していた舟に燃え移り、海の上をさらに飛び火。石川島や佃島にまで延焼を広げていきました。
さらに京橋や浅草橋へも延焼して、隅田川を隔てた深川にも飛び火していきます。この火がようやく鎮火したのは、日付を超えた19日の丑の刻(午前2時頃)過ぎのことといいます。
しかしこの日の巳の刻(午前10時頃)、伝通院付近から再び出火。飯田橋から竹橋に広がり、昼過ぎには江戸城本丸に燃え移って天守閣が焼け落ちてしまいます。
申の刻(午後4時頃)になると西風に変わり、京橋、新橋方面へ被害は広がり、その火の手が衰えない中、さらに麹町付近からも出火して、焼け残っていた江戸城南側に延焼。さらに火は南へ広がって芝増上寺の半分を焼失してしまいました。
すべてが鎮火したのは1月20日の朝になってからだといいます。
この火災で江戸の町の約6割が消失したといい、正確な死者の数は不明。「むさしあぶみ」などでは10万人超、「上杉年譜」などでは3万7千人余と伝えています。
さらに26日には大雪となり、焼け出された中には、寒さのために亡くなる者も多かったといいます。
この大火で消失した地域の一つが、日本橋にあった遊郭・吉原(元吉原)です。
「吉原はこうしてつくられた」によると、このときはすでに、明暦3年(1657年)3月までに浅草田圃(あさくさたんぼ)(新吉原)へ移転することが決まっていて、御引料(立退き補償金)の金一万五千両も支払われていたのだそう。
ただ、これだけの大火災が発生した直後ですから移転は多少延期になってもよさそうですが、幕府の評定所が正常化してすぐ、4月16日には役人による移転先の視察があり、8月14日には造成や建物の建設も終えて、新吉原での営業が始まっています。
材木が高騰し、人夫が足りない中、これだけの超スピードで新吉原への移転を成し遂げたのは治安維持が目的だったようです。
「吉原はこうしてつくられた」によると、遊郭などにたむろしていた豊臣の残党対策のために、非人の力を総動員した突貫工事が行われ、街づくりの設計には尾張の陰陽師たちが関わっている可能性が指摘されています。
士農工商の外とされた貧民、賤民と呼ばれた身分の人たちをいいます。明暦の大火の片付け、新吉原の建設では非人たちが大きな力を発揮しています。
穢多は戦国の武士階級とともに生まれ、立場としては身分制度の外で、士農工商に属する職業に就くことはできませんが、弾左衛門など穢多の頭を務める者は町奉行の直接の支配を受け、大身の武家の役宅と同じ構造の屋敷を構え、区別はありますが大名なみの待遇があったといいます。
職務もあり、人々の仏心に頼る遊芸や物乞いをまとめる非人頭の支配、皮革生産の管理、奉行所に関わる役や、猿飼(猿回し)や無宿人の人別帳の管理などを行っていました。
非人は江戸市中にいくつかのグループに分かれていて、車善七、松右衛門、善三郎、久兵衛といった人々が代々同じ名前を継いで頭を務めていました。
参考 「江戸の貧民」塩見鮮一郎著
参考 「吉原はこうしてつくられた」西まさる著
ともあれ、移転後の新吉原は「鬼滅の刃 遊郭編」の舞台。
明暦の大火は「鬼滅の刃」でも結構重要なキーワードになるようで、アニメ版でも明暦の大火を思わせるイメージがあります。
参考 消防雑学事典 明暦の大火とエピソード | 東京消防庁
参考 「吉原はこうしてつくられた」西まさる著
アニメ・エンディングに描かれる反物と三人の娘
アニメのエンディングは色とりどりの反物が印象的ですが、明暦の大火は別名を振袖火事(ふりそでかじ)といって、振り袖にまつわる、ちょっと怖い伝説があります。
せっかくここまで来たのだから、浅草の観音様へも足をのばそうと、上野の山下を二人で歩いていたところ、すれ違った美しい寺小姓に娘は一目惚れしてしまいます。
寝ても覚めてもその人のことばかり思い詰め、ため息をつく毎日。娘はろくに食事もとらないので、だんだんやせていってしまいます。
遠州屋は手を尽くしてその寺小姓を探すのですが、手掛かりもありません。会うことが叶わないのなら、せめて同じ柄の着物でもと、紫縮緬(むらさきちりめん)の畝織(うねおり)へ荒磯と菊の模様を染めて桔梗の紋をつけた振袖をつくってもらうのですが、娘は翌年1月16日にとうとう焦がれ死んでしまうのでした。17歳だったといいます。
遠州屋は娘の気持ちを思って、その振袖とともに野辺送りしてやります。
振袖は本妙寺に納められ、葬儀が済むと慣例どおり古着屋に売られ、墓掘り人足の清めの酒代にあてられました。
奇妙なことに、その翌年、梅野が亡くなったのと同じ日に、上野の紙商・大松屋又蔵の娘・きのの葬儀が本妙寺で行われ、件の振袖が本妙寺に納められました。この娘も17歳だったといいます。
着物は再び、古着屋に売られていきます。
ところがその翌年、やはり梅野が亡くなったのと同じ日に、今度は本郷元町の麹商・喜右衛門の娘・いくの葬儀で、件の振袖が三度、本妙寺に納められたのです。いくも17歳だったといいます。
ここまで重なると関係者一同は恐ろしくなり、三人の娘の親が施主となって、因縁の日を避けた1月18日に、寺内で大施餓鬼(おおせがき)を修することになりました。
ところが振袖が火に投じられると一陣の竜巻が北の空から舞い下り、袖模様に火のついた振袖はさながら人間の立ち上がったような姿で80尺の本堂の真上に吹き上げられ、舞い落ちる火の粉により本堂の屋根から出火。近隣に燃え広がっていったといいます。
参考 「新板 江戸から東京へ(一)麹町・神田・日本橋・京橋・本郷、下谷」矢田挿雲著
施餓鬼は仏事の一つで、飢えと乾きに苦しむ餓鬼に飲食を施し、供養することによって、施した人も極楽往生することを祈ります。
災害や疫病などで複数の人が亡くなったとき、それぞれを丁寧に弔うのは難しいため、僧を集め、まとめて供養を行うことを大施餓鬼というようです。
エンディングでは反物を追いかける3人の女の子が描かれていますが、これは振袖に関わって同じ日に亡くなった3人の娘たちに重なりますよね。そう思うと、最後に絡み合って空高く舞い上がる反物は、火が付いて空へ舞い上がる振袖にも見えてきます。
昔、着物や小袖は、禊(みそぎ)や祓え(はらえ)の際に、身体をなでて穢れや災いを移し、川などに流すという行事がありました。このときに使われるものを撫物(なでもの)とか形代(かたしろ)、人形(ひとがた)と呼びました。
「源氏物語」でも、源氏が須磨の海岸で陰陽師を召して上巳の祓(じょうしのはらえ)(3月3日の上巳の節句)をさせ、人形をのせた舟を海に流す様子が描かれています。
興味深いのは、「皮膚の病と境界の神」という論文によると、境界の神(道祖神)には、衣類や片袖、獣皮などを捧げる風習があったといいます。
棺桶に掛けられていた明暦の大火の伝説の振り袖が祓えにつながるものだとしたら、「皮膚の病と境界の神」の論文で紹介されていた、境界の神(道祖神)の風習につながっていくのかもしれませんね。
ただ、原作ではこの回はあまり火をイメージさせる描き方は出て来ないので、アニメから見た印象ということになりますが。
参考 皮膚の病と境界の神 日本「賤民」史研究への一階梯 鯨井千佐登 | 日本の論文をさがす CiNii Articles
参考 「吉原はこうしてつくられた」西まさる著
参考 「源氏物語」 第十二帖 須磨
煉獄さんの趣味が示すもの
とはいえ、煉獄さんの趣味の「歌舞伎鑑賞」や「相撲観戦」も、明暦の大火につながるイメージと考えると関係がありそうです。(ファンブック第一弾 50頁)
この火災では、犠牲者の多くが身元のわからない無縁仏になってしまいました。もちろん生前の宗旨・宗派もわかりません。
こうした人々を供養するため、家綱の命により本所牛島新田(ほんじょ うしじましんでん)に万人塚(ばんにんづか)が設けられ、増上寺の住職・遵誉上人(じゅんよしょうにん)が様々な宗派の僧を集めて大法要を行ないました。このとき念仏を行じるために建てられた御堂が回向院の始まりです。
「吉原はこうしてつくられた」によると、ここは2つあった吉原遊廓の移転候補地の一つだったそうです。だとすると、回向院が今の吉原で、吉原が今の回向院だったかもしれないわけで、この2つは縁のある土地といえそうですね。
回向院のそばに、いざという時の避難路として両国橋が架けられたのは、大火から間もない万治2年(1659年)のこと。
それまでの隅田川は防衛上の問題から千住大橋しか架橋が許されておらず、このため明暦の大火では逃げ場を失った多くの人が犠牲となっていました。
両国橋の袂には延焼を防ぐための火除け地として広小路が設けられ、常設の建築物は禁止されていましたが、月命日で回向院にお参りに行く人が増えるにつれて、公に許可を得た露店や仮設の見世物小屋、芝居小屋などが立ち並ぶようになります。
こうした集客力は、やがて勧進相撲につながっていきます。
寺社の伽藍造営や修理などの費用に当てる寄付を集めるために行う相撲興行のこと。時代が下るにつれて、職業化した力士たちの生活のための興行が増えていきます。
これとは別に、朝廷が行う相撲節会、農村の社寺で行われる奉納相撲、武家階級で行われる武家相撲、道端や空き地などに集まって行われる民間の辻相撲や草相撲があります。
明暦の大火が発生する直前の17世紀前後という時代は、由井正雪の乱(1651年)に見られるように、浪人の反乱にピリピリしていた時代。相撲興行は勧進相撲も含めて5代将軍・徳川綱吉の頃から度々禁止されていました。
江戸時代の辻相撲や草相撲は取り組みの勝敗を巡って喧嘩沙汰になることが多く、徳川の世となって失業した浪人者や、乱暴・狼藉を好む傾奇者(かぶきもの)たちの溜まり場でもあったため、社会の風紀を乱すという理由で問題視されていたわけです。
流れが変わったのは、明暦の大火を経て本所や深川に新しい市街地が生まれた頃。深川を中心に、回向院、蔵前八幡、芝神明といった江戸市中の寺社で、勧進相撲の許可が出るようになります。
最初に許されたのは、貞享元年(1684年)に雷権太夫(いかずち ごんだゆう)らを勧進元とする富岡八幡宮境内で行う勧進相撲です。
それまで禁止一辺倒だった幕府の対応が変わったのは、勝負の決まり手・禁じ手が定められ、土俵が考案されて、スポーツとしての体裁が整ったことにあるのかもしれません。これ以降、相撲年寄(勧進元)から興行の度に幕府の許可を得る仕組みが整っていきます。
回向院で初めて勧進相撲が催されたのは明和5年(1768年)のこと。両国が江戸の繁華街として発展していくのに合わせて回向院で開催されることが多くなり、天保4年(1833年)からは春秋2回の定場所が催されるようになります。これが現在の大相撲につながっていきます。
煉獄さんの趣味の相撲観戦に重なりそうですよね。(ファンブック第一弾 50頁)
さらに興味深いのは、回向院の境内には初代・中村勘三郎のお墓があるところです。猿若座(後に中村座)を興した人物で、江戸歌舞伎芝居の開祖でもあります。
煉獄さんのもう一つの趣味、歌舞伎鑑賞に重なります。(ファンブック第一弾 50頁)
こうして見ると煉獄さんの趣味は、明暦の大火に関連する回向院へとイメージが重ねられているみたいですね。
では煉獄さんのもう一つの趣味、能に関わる場所も、この近辺にあるのでしょうか?(ファンブック第一弾 50頁)
少し離れますが、隅田川を上流へ辿っていくと、能「隅田川」の題材となる「梅若伝説」が伝わる木母寺(もくぼじ)があるようです。そしてこのお寺の伝説は、「鬼滅の刃」の物語のヒントになっていきそうです。
長くなるので、木母寺に関しては別記事にまとめてみますね。