宇髄さんの「神」発言は、仏教の歴史に理由あり?

平等院周辺

At Kosho-ji Temple in Uji, there are many hints for the character of Demon Slayer.
宇治の興聖寺には、鬼滅の刃のキャラクターのヒントがいくつもあります。

It seems that the reason why Uzui said ‘I am a god’ can be explained by the image that leads to Zenitsu and Inosuke.
宇髄さんが「俺は神だ」と言った理由は、善逸と伊之助につながるイメージで説明できそうです。

(この記事は、第4巻、第7巻、第9巻、ファンブック第一弾のネタバレを含みます)
 

上の図は京都・宇治周辺の地図です。

「鬼滅の刃」には物語の鍵を握っていそうな場所がいくつかあり、興聖寺(こうしょうじ)もその一つ。同寺を建立した道元禅師は達磨大師につながる人物で、達磨大師は炭治郎の赤みがかった目と重なるイメージがありました。

このお寺には興味深い点がまだまだあって、炭治郎のイメージだけでなく、善逸や伊之助につながるイメージもあるようです。

こうしたイメージは、遊郭編の冒頭に出てくる宇髄さんの「俺は神だ」のやりとりにつながっていきそうですよ。

善逸に重なる大黒天のイメージ

大国主命と大黒天は、ともに「だいこくさま」と呼ばれて同一視される神様です。善逸は大国主神や大黒天のイメージが重なるキャラクターでした。

詳しい考察はこちらの記事を覗いてみてくださいね。

 

 

興味深いのは、興聖寺にも大黒様がいるところ。僧堂北側に三面大黒が祀られているのです。

 
参考 曹洞宗・仏徳山 興聖寺
 

興聖寺の三面大黒と豊臣秀吉

興聖寺にある大黒天は、右手に打ち出の小槌を持って、左肩に大きな袋を背負ったお馴染みの姿をしているのですが、「三面」という名前のとおり、正面に大黒天、右側に毘沙門天、左側に弁財天と、3つの顔があるちょっと珍しい姿をしています。

興聖寺のサイトには特に説明がないので詳細はわかりませんが、その発祥は比叡山にありそうです。

比叡山の三面大黒天はこんな感じ。興聖寺とおなじ3つの顔がありますが、それぞれ手もあるので、三面六臂(さんめんろっぴ)の姿をしています。

 
三面大黒
 

この大黒天は、比叡山延暦寺の総本堂である根本中堂(こんぽんちゅうどう)が創建されたころに開祖・最澄が感得したといい、「比叡山三面大黒天縁起」によるとこんな話が伝えられています。

 

千二百年の昔、当山開祖伝教大師最澄上人が根本中堂ご創建の折、一人の仙人が現れましたので、大師(最澄)は「あなたはどなたですか、そして何しに来られましたか」と尋ねられると、その仙人は「普利衆生、皆令離苦、得安穏楽世間之楽、及涅槃楽」と法華経のご文を唱えて答えられました。

これを聞いた大師は「それなら修行する多くの僧侶達の食生活と健康管理のため、比叡山の経済を守ってください」と申しますと、仙人は「毎日三千人の人々の食料を準備しましょう。それから私を拝むものには福徳と寿命を与えます」と約束されましたので、大師は「この人こそ三面大黒天に違いない」と思い、早速身を浄め、一刀三拝して尊像を彫み、安置されたのがこの三面大黒天であります。(略)

 

最澄自らがその姿を刻んだという尊像は、それぞれの手に衆生の福徳を叶え苦難を除くために道具を持っています。

大黒天の左手には願いを叶える如意宝珠(にょいほうしゅ)、右手には煩悩を断ち切る智慧の利剣(りけん)があります。毘沙門天の左手には七財を自在に施す如意棒、右手には魔を降す鎗(槍)があり、弁財天の左手には福を集める鎌、右手には世福を収納し、人々の願いに応じて福を与える宝鍵(ほうけん)があります。

鎌というと、妓夫太郎も鎌に関連した血鬼術を使っていましたよね。これはまた後ほど別の記事で考察してみます。

ともあれ、興聖寺の三面大黒も、比叡山と同じように飲食を司る寺院の守護神として祀られていそうです。

興味深いのは、全国統一を果たした豊臣秀吉は、この三面大黒を守り本尊にしていたところです。

秀吉に重なる、「ネズミ」と「六」のイメージ

ファンブック第一弾(38頁)によると、善逸の好きなものは「甘いものや高いもの(うなぎなど)」ということで、どことなく豊臣秀吉にイメージが被るんですよね。

例えば、甘いもの。秀吉といえば信長の影響で始めたという茶の湯があります。お茶に和菓子はつきもの。天正15年(1587年)に開いた北野大茶会で献上された茶菓子には、「秀吉ゆかりの名物菓子」として加茂みたらし団子、真盛豆(しんせいまめ)、長五郎餅など、今でも味わえるものがいくつかあります。

中でも、加茂みたらし団子は、その起源に後醍醐天皇が関わる伝説があり、「鬼滅の刃」の物語の鍵になっている可能性があります。

「高いもの」というのは、今のところちょっとよくわかりませんが(汗)

吉野山の花見や、醍醐の花見、そして後陽成天皇(ごようぜいてんのう)の行幸を仰いで催された聚楽第(じゅらくだい)での饗宴など、天下統一後はその権威を示すためにも贅を尽くした大規模な行事が度々行われたせいか、秀吉には美食や派手好きなイメージがあります。

さらには、秀吉は「サル」と呼ばれていたことで有名ですが、祢々が度重なる浮気を信長に相談したところ、祢々宛の手紙の中で、信長は秀吉のことを「禿げねずみ」と呼んでいるんですよね。

そして、秀吉の右手の親指は2本あり、信長からも「六ツ(むつ)め」と呼ばれていたと伝えられています。(「國祖遺言」(江戸初期))

 
参考 北政所の基礎知識(特集 北政所の謎)宮本義己
参考 熊本藩主細川家伝来 明智光秀等宛織田信長黒印状
参考 前田利家の回想録「國祖遺言」(こくそいごん)
 

「ネズミ」は善逸に重なるイメージ。「六」は「鬼滅の刃」で繰り返し描かれる数字です。善逸に重なるイメージとして、秀吉は十分な要素がありそうです。

でも、そう考えると、善逸の子どものころのエピソードが一切語られないのは、秀吉のイメージがあるからかもしれませんね。

秀吉は「百姓から天下人にまでのぼりつめた」とはよく言われるのですが、実のところどのような出自なのか、諸説ありすぎてはっきりしないのです。

 

「太閤素性記」(江戸時代初期) … 父・木下矢右衛門は足軽
「豊鑑」(寛永8年) … 中村郷の下農民の子で、父母の名前は不明
「天正記 惟任退治記」(天正10年) … 秀吉の出生、元これ貴にあらず
「天正記 関白任官記」(天正10年) … 母・大政所の父は萩の中納言
「太閤記」(江戸初期) … 竹阿弥が実父
など、他にも多数あり

 

ちなみに秀吉は宇治に縁のある人物で、伏見城にいたころは、宇治橋の「三の間」から汲み上げた水を運ばせて茶会に用いたと伝えられています。

現在でも10月に宇治橋周辺で行われる「茶まつり」では、この故事にならった「名水汲み上げの儀」が行われ、興聖寺で行われる献茶式に用いられています。

伊之助に重なる秋葉権現のイメージ

秋葉権現
 

それから興聖寺には、炭治郎や善逸だけでなく伊之助のイメージもあります。境内にある六角堂に祀られている「三尺坊威徳大権現」(さんじゃくぼういとくだいごんげん)がそれ。

宇治は古くからの茶処で、その製造工程では火を使うことから、火伏せ信仰の秋葉講が組織されています。そのご縁で秋葉権現が祀られているんですね。

秋葉権現は、秋葉山の山岳信仰と修験道が融合した神仏混合の神様。その姿は観世音菩薩三十三化身の一つとされる迦楼羅天(カルラテン)で、白狐にのって表されます。

伊之助の名前に隠れる烏天狗のイメージ

伊之助には秋葉権現の迦楼羅天のイメージがあるとすると、名前に使われている漢字はとても象徴的なものになります。

「角川 漢和中辞典」によると、「嘴」の右側は「角毛(つのげ)、尖った先、くちばしの意の音符」で、左側の「口」を加えることで「とくにくちばしの意の専用字」になるというんですね。

別記事で考察しましたが、伊之助は鞍馬山や、山の神のイメージが重なるキャラクターでした。

そう考えると、山には「くちばし」を持った、山岳信仰とも縁の深い伝説の生き物がいます。「烏天狗」(カラステング)です。

現在では天狗といえば長い鼻を持った「鼻高天狗」(ハナタカテング)をイメージしますが、こうした姿が現れるのは室町時代になってから。それ以前は、くちばしを持った「烏天狗」が主流でした。

牛若丸は鞍馬山の天狗(鞍馬山僧正坊)に剣術を習ったことで有名ですが、平安時代後期の話なので、ここに出てくる天狗も烏天狗です。

博物学者の南方熊楠は、烏天狗は仏法を守護する迦楼羅天につながるのではないかとする説を唱えていて、この説に従えば、鞍馬の烏天狗と秋葉権現はつながってきそうです。

そういえば、第7巻 57話末のイラストでは、「伊之助の理想の姿」は「火を吹いて、身長は三メートルくらい」と紹介されていました。迦楼羅天の特徴も、「常に口から火焔を吐いて、その大きさは三百余里にもなる」といい、ちょっと似ているところがあります。

伊之助の「嘴」の字は、こうした古い天狗や迦楼羅天につながる漢字といえそうです。

伊之助に重なる徳川家康のイメージ

そして伊之助には、徳川家康の姿に重なるところがあります。

ファンブックによると、伊之助の趣味は「炭治郎に教えてもらった『ことろことろ』という童遊び」です。(第一弾 42頁)

一見、かわいらしい趣味ですが、実は日光東照宮の陽明門上層の高欄にも、「ことろことろ」があるんですよね。唐子遊び(からこあそび)と呼ばれる一連の彫刻で、ことろことろは正面の高欄にあります。

日光東照宮は、元和3年(1617年)に徳川家康を御祭神にお祀りした神社。しかも伊之助の好きなものは「天ぷら」です。(第4巻 28話、ファンブック第一弾 42頁)

徳川家康と天ぷらといえば、「家康の死因は天ぷらの食べ過ぎ」という有名な俗説があります。こうしたエピソードからも、伊之助には徳川家康のイメージが重ねられていると考えてよさそうです。

ちなみに、家康も宇治とは深いご縁があります。

それは本能寺の変が発生した天正10年(1582年)6月のこと。このとき家康は堺に滞在中で、知らせを受けたのは信長に会うために上洛する途中でした。

ここから方向を変え、一向宗の襲撃を避けながら伊賀・甲賀の山中を通り、三河へ脱出を図ります。そこには茶屋四郎次郎の助力と、宇治の茶師たちの道案内、そして伊賀者の服部半蔵の働きがあったといいます。後に「神君伊賀越え」と呼ばれる家康最大の危難です。

興味深いのは、このとき甲賀の多羅尾氏(たらお)から、家康に勝軍地蔵が渡されたと伝えられているところです。この勝軍地蔵の加護で無事に三河へ帰って来れたというのですが、この像は行基が彫刻して安倍内親王(孝謙天皇)に奉ったもので、後に現在の東京港区にある愛宕神社に祀られたといいます。

孝謙天皇は、和気清麻呂公が活躍した神託事件に関わる人物。神託事件は伊之助や鬼殺隊に重なるイメージがありました。

勝軍地蔵は、かつては京都の愛宕神社にも祀られていて、ここには炭治郎のイメージがあったので興味深い伝承です。

 
参考 上林春松御店の章 第四話 上林、茶の天下をとる | 綾鷹.
参考 忍者の聖地 伊賀 | 伊賀の里「伊賀」を楽しむ情報サイト 伊賀ポータル
 

「俺は神だ!」につながるイメージ

徳川家康と秋葉権現、この2つにも興味深い関係があります。

秋葉寺は元々行基が開いた真言密教寺院でした。修験道とも習合していたので、本尊は聖観音、そして遠江天狗(とおとうみてんぐ)の総帥とも呼ばれる秋葉三尺坊大権現(あきばさんじゃくぼうだいごんげん)が祀られていました。

戦国時代の度重なる戦乱で荒廃してしまうのですが、これを再興したのは、秋葉寺の別当に就いた可睡斎(かすいさい)の禅僧・茂林光幡でした。家康の隠密とも言われた人物です。

このとき秋葉寺は真言宗から曹洞宗へ宗旨変えとなるのですが、修験道系の色彩は消えることなく、明治維新まで神仏混淆のまま火伏せの神として存続します。これが秋葉寺の運命に少しずつ影響していきます。

慶応4年(1868年)に神仏分離令が出されるのですが、秋葉山ではそれ以前から修験者と寺僧の対立がありました。ここへ神仏分離令が出たため、「権現は神だから秋葉は神社である」として寺を廃毀しようとする修験道側と、「権現は仏だから神仏混淆ではない、そもそも秋葉は創建時から寺だ」とする寺僧側で完全に2つに割れてしまいます。

これに住職が亡くなるという不運が重なって、「無壇、無住の寺は廃寺とする」という、明治5年(1872年)10月に出された明治政府の布達に該当して、秋葉寺は廃寺となってしまうのです。

その後、山頂に秋葉神社が建てられます。

このとき、神仏分離に則って祭神も分けられるのですが、神仏のどちらに分ければいいのかわからなくなっている権現や牛頭天王(ごずてんのう)は、記紀神話にある火之迦具土(ほのかぐつち)や素盞鳴尊(すさのおのみこと)に改められることが多く、新しい秋葉神社も同じように火之迦具土大神を祀ることになります。

こうした秋葉の歴史を振り返ってみると、「俺は神だ」という宇髄さんと炭治郎たちのやりとりは、秋葉の廃仏毀釈の様子と重なってきそうですよね。

宇髄さんは雷神である天神さま(菅原道真)のイメージが重なる神様代表。伊之助は「秋葉権現は神だ」と主張していた修験道の代表で、炭治郎は後に祀られた火之迦具土に重なりそうです。

「具体的には何を司る神ですか?」(第9巻 71話)という炭治郎の問いは、神祇事務局(じんぎじむきょく)から出された達しと重なります。

 

一 中古以来、某権現或ハ牛頭天王ノ類、其外仏語ヲ以神号ニ相称候神社不少候、何レモ其神社ノ由緒委細ニ書付、早々可申出候事(略)

(明治元戊辰年 太政官布告第百九十六号 三月二十八日)

一 中古以来、某権現あるいは牛頭天王の類、その他、仏語をもって神号に相称え候神社少なからず候。いずれもその神社の由緒を委細に書き付け、早々申し出ずべく候事(略)

一 古来、某権現あるいは牛頭天王の類、その他、仏語をもって神号を用いている神社が少なからずあります。いずれもその神社の由緒を詳細に書き記し、急いで申し出る必要があります。(略)

 

神仏判然令に続く廃仏毀釈への流れは、藩の方針によってかなり温度差があったようで、最も激烈だったのは薩摩藩(鹿児島)です。

慶応元年(1865年)に1616寺を数えていた寺院は、明治2年11月にはすべてなくなり、僧侶も全員追放。藩主の菩提寺や五輪塔の墓碑まで破壊して処分してしまったといいます。

薩摩藩は煉獄さんに重なるイメージがありましたが、煉獄さんにも廃仏毀釈のイメージが重ねられていそうですね。

煉獄さんの出身地は、ファンブックによると「東京府荏原郡駒澤村(世田谷、桜新町)」(ファンブック第1段 50頁)とのこと。

桜新町は、新町の一部が郊外型分譲住宅地として富裕層向けに開発・分譲された土地。同じ町内といえそうなほどすぐそばにある「桜新宮」は、伊勢神宮の筆頭禰宜だった芳村正秉(よしむら まさもち)氏が「神社の神官は人を教え導いてはならない」とする政府の方針に危機感を持ち、明治天皇の勅許を得て創建したという古式神道の神社です。

御祭神は天御中主神を含む19柱。その中には菅原道真公を神格化した菅原大神が祀られています。神社創建当初は神田明神(神田神社)がある東京市神田にあったそうですが、大正8年に現在の地に移転したといいます。

菅原道真公が亡くなった延喜3年(903年)に平将門公が生まれたことから、将門は菅原道真の生まれ変わりとする伝説もあるので興味深いつながりです。

 
参考 第5節 宗教 | 文部科学省
参考 東白川村の「廃仏毀釈」 四、神仏分離と神葬改宗 神仏判然令の発布 | 東白川村 公式サイト
参考 廃仏毀釈 | 法智山妙円寺
参考 活躍する豊川いなりチーム 明治維新の秘話・大寧寺と豊川稲荷 | 大寧寺護国禅寺
参考 桜神宮の創建 | 古式神道 桜神宮
 

興聖寺にある善逸と伊之助のイメージは、遊郭編の一場面とも重なる部分があって興味深いですよね。そして、このお寺には宇髄さんのイメージもありそうです。

もう少し興聖寺の考察が続きます。よかったらこちらも覗いてみてくださいね。

 

 

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