鬼滅の刃に源氏物語と枕草子が重なる理由

藤原道長とインスリン結晶

If you follow the fireworks over the Sumida River, which overlaps with the lefteye makeup of Uzui, it will lead to Emperor Ichijo.
宇髄さんの左目メイクと重なる隅田川の花火をたどっていくと、一条天皇につながっていきます。

Fujiwara no Michinaga was one of the aristocrats who supported Emperor Ichijo and had diabetes since his fifties.
藤原道長は一条天皇を支えた貴族の一人で、50歳代から糖尿病でした。

He is the first diabetic patient in the literature. For this reason, he is depicted on commemorative stamps of the 15th International Diabetes Congress, along with a hexagon representing insulin crystals.
彼は文献上最初の糖尿病患者です。このため、第15回国際糖尿病会議の記念切手には、インスリンの結晶を表す六角形とともに描かれています。

In Demon Slayer, things related to ‘six’ are often drawn.
鬼滅の刃では、「六」に関係するものが度々描かれています。

(この記事は、1巻、8巻、10巻、11巻、ファンブック第一弾、第二弾のネタバレを含みます)
 

宇随さんの目の化粧には、隅田川に伝わる「梅若伝説」に絡む在原業平のイメージと、隅田川の「川開きの花火」に絡む徳川吉宗のイメージがありました。

一見、バラバラに見えますが、吉宗の出身地・紀州徳川家の菩提寺である長保寺(ちょうほうじ)に注目してみると、ちょっと興味深いことがわかります。

花の寺とも呼ばれるこのお寺は、一条天皇の勅願によるもので、一条天皇のことを詳しく調べてみると、在原業平につながっていくのです。

「鬼滅の刃」に重なる、二人の皇后を持つ天皇

彰子と定子の系図
 

一条天皇(第66代)には皇后が二人いました。皇后・定子(ていし/さだこ)と、中宮・彰子(しょうし/あきこ)です。

定子は藤原兼家の長男・道隆の娘、彰子は兼家の五男・道長の娘です。

一条天皇は円融天皇(第64代)の第一皇子で、母は兼家の娘・詮子(せんし/あきこ)です。

5歳(984年)のときに従兄弟の花山天皇(第65代)(かざん/かさんてんのう)の皇太子となり、その後、7歳(986年)で即位。まだ年が若いということで、外祖父の兼家が摂政となります。

そして11歳(990年)で元服し、このとき定子が14歳で入内して中宮(皇后)となります。

皇族ではない藤原氏の娘が中宮になることは、醍醐天皇(第60代)の時代に穏子(おんし/やすこ)で先例があったのですが、定子のときは少し事情が違ったようです。

律令では后位は「皇后、皇太后、太皇太后」の三后と決められていて、当時は三后とも埋まっていたため、役職を新設して定子を中宮にしたのです。四后並立と呼ばれています。

 
※当時は「中宮に住んでいる人=皇后」なので、四后並立以前は皇后の別名が中宮。

【四后並立以前】
太皇太后:冷泉院の正妻・昌子内親王(しょうし/まさこないしんのう)
皇太后:一条天皇の生母・藤原詮子(ふじわらのせんし/あきこ)
皇后(中宮):円融院の正妻・藤原遵子(ふじわらのじゅんし/のぶこ)

女御:一条天皇の正妻・藤原定子(ふじわらのていし/さだこ)

※定子を皇后にするために、遵子の「中宮職」を改め「皇后宮職」に変更。改めて定子のために「中宮職」を新設し、女御から中宮となる。

【四后並立以後】
太皇太后:冷泉院の正妻・昌子内親王(しょうし/まさこないしんのう)
皇太后:一条天皇の生母・藤原詮子(ふじわらのせんし/あきこ)
皇后:円融院の正妻・藤原遵子(ふじわらのじゅんし/のぶこ)
中宮:一条天皇の正妻・藤原定子(ふじわらのていし/さだこ)

 

一条天皇が四后並立になった理由

これだけのことができたのは、道隆を祖とする中関白家(なかのかんぱくけ)という家が、それだけ力を持っていたということでしょうか?

「清少納言出仕の背景 ── 正暦年間の一条後宮 ──」によると、実はそうでもなかったようです。

兼家の時代は兄・伊尹(これただ/これまさ)とのパワーバランスで冷泉系(63代)と円融系(64代)が交互に皇統を繋いでいく両統迭立(りょうとうてつりつ)の状態でした。

 
冷泉系と円融系の系図
 

円融天皇から譲位を受けて冷泉系の花山天皇(65代)が即位すると、その皇太子には円融系の懐仁親王(やすひとしんのう)(66代 一条天皇)が立つという感じ。

そして、一条天皇(66代)が即位すると、次は冷泉系の居貞親王(おきさだ/いやさだしんのう)(67代 三条天皇)が皇太子に立つのですが、ここでパワーバランスが崩れます。

居貞親王に入内していた道隆、道兼、道長の妹・綏子(すいし/やすこ)と、道隆の娘・原子(げんし/もとこ)が早世してしまうのです。

その結果、居貞親王は伊尹(師輔の長男)の息子たちとの関係が強くなり、一条天皇は兼家(師輔の三男)の息子たちとの関係が強くなっていきました。

このとき、居貞親王は15歳。一条天皇は11歳。一条天皇より先に居貞親王が後継者を儲けてしまうと、円融系に皇位継承は戻ってこないかもしれない──

こうした危機感の中、兼家の薨去(990年)、そして円融法皇の崩御(991年)が続きます。前の世代がいなくなり、一条天皇を支える体制を強化する必要に迫られたわけです。

四后並立の他にも、要職を一族で固めたり、一条天皇の母でもある詮子(せんし/あきこ)が歴史的に初めて院号宣下で太上天皇(院)に準ずる女院となったのも、体制強化の一環だったと考えられるようです。

ところが、一条天皇を支えるはずだった中関白家の凋落は、あっという間でした。

 
参考 清少納言出仕の背景 ─正暦年間の一条後宮─ 東望歩 | J-STAGE
 

皇后・定子の運命を変えた、中関白家の凋落

きっかけは長徳元年(995年)に、道隆が持病の悪化で薨御したことに始まります。

死を前にした道隆は、次の関白に息子の伊周(これちか)が就任することを願い、一条天皇に懇願して内覧(準関白)の宣旨も下るのですが、これは「道隆が病気の間だけ」という期間限定のものでした。

道隆没後、関白職の後継に指名されたのは、道隆の異母弟の道兼です。

伊周は悔しがったと思いますが、「栄花物語」(平安時代)に描かれた人々の反応は、「かくてこれぞあべい事。いかでか稚児に政をせさせ給ふやうはあらん」(さて、これこそ当然のこと。どうして幼い子供のような者に政をおさせになるだろうか)といった冷たいものでした。

体制を守るためとはいえ若くして異例の昇進を重ねた結果、伊周は道隆の期待ほど人物としては成長できなかったみたいですね。

ただ、道兼は7日で薨御してしまいます。この時期に猛威を振るった天然痘のためとも、赤斑瘡(あかもがさ)(はしか)のためとも言われています。

この他にも左大臣を務めていた源重信(みなもとのしげのぶ)、右大臣を務めていた藤原道兼(ふじわらのみちかね)も天然痘で薨御していたため、残っている貴族の中では内大臣を務める伊周が最高位。そのまま関白職の後継になると見られていました。

しかし次に内覧の宣旨が下ったのは、叔父の道長でした。伊周より年齢が上ということもありましたが、道長の姉であり一条天皇の母でもある詮子を味方につけていたことが大きかったようです。

このように目まぐるしく政権交代が続く中、中関白家の凋落を決定づける事件「長徳の変」(996年)が発生します。

伊周は自分が通う女性を花山法皇(第65代)に横取りされたと勘違いして、弟・隆家とともに法皇を脅そうとしたところ、隆家の従者の放った矢が法皇の袖を射抜いてしまい、単なる脅しですまなくなってしまったという不敬事件です。

この一件は、道長の政権掌握に利用されてしまいます。

伊周たちには、さらに祖父・高階成忠(たかしなのなりただ)が詮子を呪詛したこと、そして宮中以外では許されない修法を伊周が行っていたことなどが罪状として追加されて流罪となります。

「栄花物語」によると、配流の宣旨が下った後も伊周・隆家兄弟は実家・二条第に籠もっていたため、宮廷を退出して二条第に戻っていた定子の目の前で検非違使に引き立てられていくことになったといいます。

この後、定子は自ら髪を切って出家してしまいました。

清少納言が女房として定子に出仕したのは993年頃からなので、絶頂期から凋落していく様をつぶさに見ていたことになります。

 
参考 榮花物語作者についての試論 ──中の関白家に関する記事をめぐって── 真鍋凞子 | 国立国会図書館サーチ
 

「枕草子」に重なる「鬼滅の刃」

平安貴族と梅のイメージ

Emperor Ichijo was the first emperor to have multiple empresses. The names of the Empresses are Sadako and Akiko.
一条天皇は初めて複数の皇后を持つ天皇でした。皇后の名前は定子と彰子です。

Sei Shonagon, who served Sadako, is the author of The Pillow Book. Murasaki Shikibu, who served Akiko, is the author of The Tale of Genji.
定子に仕えていた清少納言は「枕草子」の著者です。そして、彰子に仕えていた紫式部は「源氏物語」の著者です。

I think that Demon Slayer has hidden hints that indicate “The Tale of Genji” and “The Pillow Book”.
「鬼滅の刃」には、「源氏物語」と「枕草子」を示すヒントが隠されていると思います。

 

興味深いのは、「枕草子」(平安中期)に「鬼滅の刃」が重なる場面があるところです。

例えば、「宮に初めて参りたるころ」(一八四段)の、初めての宮仕えで気後れして几帳の陰で小さくなっている清少納言が、いきなりそばにやってきて話しかけてくる伊周に返事もできず、顔に袖を当ててその場に突っ伏してしまう様子は、義勇さんの前でうずくまる炭治郎の姿が重なります。(1巻 第1話)

同じく「宮に初めて参りたるころ」(一七九段)で、定子の前で固くなっている清少納言に、定子は絵などを見せて話しかけてくるのですが、着物の袖からわずかに見える手が「いみじうにほひたる淡紅梅(うすこうばい)なるは、限りなくめでたしと…」(色がただよいでるような色つやの淡紅梅でいらっしゃるのは、このうえなく美しいことだと…)と、印象的に描かれているところは、暗闇で手を握ってくれた兄を恋しく思う手鬼に重なります。(1巻 第7話)

そして遊郭編は、「枕草子」に出てくる梅壺の「梅」にイメージが重なるみたいですよ。

長徳の変が起こったとき、定子はちょうど第一子を身ごもっていました。「枕草子」でこの時期に該当するのは八七段です。

この段では、定子は中宮職の庁舎である「職の御曹司」(しきのみぞうし)へお出掛けになって不在中で、そこへ名指しで面会を求めてきた藤原斉信(ふじわらのただのぶ)と対面する清少納言の様子が描かれます。場所は後宮五舎の一つ、梅壺(凝花舎)です。

このときは、ちょうど伊周・隆家兄弟の罪科審理中という微妙な時期。定子の懐妊は道長の政権掌握の障害となりかねません。

斉信の訪問は定子の様子を窺うためだったのではないかと、「『枕草子』『長徳の変』関連章段の解釈」では指摘しています。

この面会で清少納言は何も聞かず、何も答えない姿勢を通して御子懐妊の優位性を守るのですが、ここに庭の梅の花の様子が描かれるんですね。

 

御前の梅は、西は白く、東は紅梅にて、すこし落ち方になりたれど、なほをかしきに、うらうらと日の気色のどかにて、人に見せまほし。
梅壺の庭前の梅は、西は白、東は紅梅で、少し花が落ちようとするところであるが、依然として美しく、加えて、うららかな空模様はおだやかで、人に見せたくなるほどだ。

 

ファンブック第二弾によると、堕姫は人間だったころ、「白梅ちゃん」と呼ばれていたことが明かされています(159頁)。

天神さまのイメージが重なる宇髄さんや善逸、道元禅師に重なる炭治郎には、紅梅のイメージがありますよね。

伊之助にイメージが重なる徳川家康には、実割梅(みわりうめ)という家康が手ずから植えたと伝わる白梅があり、やはり梅のイメージがあります。

滅ぼそうとする者と抗う者が対峙する、そんな場面に描かれる梅の花。「鬼滅の刃」に重ねられた梅の花は、「枕草子」に描かれる梅壺の梅のイメージにつながっているのかもしれません。

 
参考 『枕草子』「長徳の変」関連章段の解釈 ─後宮の視点によって描かれた政変─ 圷 美奈子 | J・STAGE
参考 再録版 学術研究論文 花山法皇奉射事件 浜口俊裕 | 大東文化大学 浜口俊裕 2号館405研究室(平安朝文学)
参考 実割梅(みわりうめ)について | 久能山東照宮
 

実割梅(みわりうめ)
駿河城に植えられていた珍しい梅のこと。家康自ら移植して育てていたと伝えられています。熟すと核(種)が二つに割れることから実割梅と呼ばれています。明治維新を迎え、梅の由来を伝える人がいなくなることを危惧して、東照宮の唐門下に移植されて現在に至ります。

 

一人の天皇に二人の皇后が生まれた理由

突然の剃髪の後も、実家の二条第が焼失したり、母・貴子が亡くなったりと、定子には不幸が続くのですが、出産が遅れながらも長徳2年(996年)12月16日に脩子内親王(しゅうしないしんのう)が生まれます。

一条天皇は内親王の誕生を喜んで、すぐに祝いの手配を命じ、定子を説得して還俗させ、長徳3年(997年)6月22日に再び宮中へ迎え入れます。

ただ、一度は出家した身で再びの入内というのはさすがに異例で、「小右記」(平安中期)にも、「天下、甘心せず、と云々」(「世間は承服していない」という話だ)と記されていて、世間の風当たりは強かったようです。

その結果、定子の当座の住まいとなったのは、内裏の外にある「職の御曹司」でした。

ここは中宮職の庁舎ですが、内裏から見て北東(鬼門)にあるため、「母屋(もや)は鬼あり」(母屋には鬼がいる)と噂される場所だったといいます。

 
参考 「枕草子」 74段 清少納言
 

ただ、この不遇もそれほど長くは続かなかったようです。蔵人頭を務める藤原行成(ふじわらのゆきなり)の日記「権記」(平安中期)や、道長自身の日記「御堂関白記」(平安中期)によると、長徳の変の後、道長や詮子が大病に悩まされているという記録があり、これが伊周・隆家兄弟や定子の処遇に変化をもたらします。

長徳の変の翌年(997年)には詮子の病気平癒を願う大赦があり、伊周・隆家も4月に召還の宣旨が出て、その年の内には配流先から京へ戻されています。内裏の外に置かれていた定子も、長保元年(999年)正月には内裏へ参入し、やがて第二子を身ごもります。

出産は11月7日。敦康親王(あつやすしんのう)の誕生です。

 
参考 藤原道長の宗教心 片山剛 | 戦利金襴大学 学術リポジトリ
参考 藤原行成研究 福原安栄 | 二松学舎大学 学術情報リポジトリ
 

皇子の誕生は一条天皇の体制を支える者としては喜ばしいことですが、これは中関白家再興の可能性が生まれたことを意味します。

娘の入内では後発となる道長にとって面白い話ではないわけで、定子の出産が注目を集めることを嫌うかのように、出産の日と同じ11月7日に彰子の女御宣下の儀を執り行っています。

そして彰子の地位を守るため、道長は道隆と同じ手法をとりました。長保2年(1000年)2月25日、彰子を中宮として立て、定子を皇后に変えることで二后並立とするのです。

女御から中宮へ。こうすることで、この後、彰子が皇子を生んでも、身分の違いからくる不利益は解消されます。でも、一人の天皇が同時に二人の皇后(正妻)を持つのは、歴史上これが初めての出来事となるのでした。

物語に散りばめられた「枕草子」のキーワード

長保元年(999年)11月7日に敦康親王を出産した翌年、第三子を身ごもった定子は長保2年(1000年)12月15日に媄子内親王(びしないしんのう)を出産するのですが、後産が思わしくなく崩御してしまいます。

このとき脩子内親王は数えで3歳、敦康親王は2歳でした。

定子の死後に三首の歌が残されているのが発見され、これが定子の辞世歌として伝えられています。

 

よもすがら 契りしことを 忘れずは 恋ひん涙の 色ぞゆかしき
終夜、夫婦の縁を結んだことをお忘れでないなら、帝が思慕の情を寄せて流す涙の色は何色なのか見てみたいのです

 

古くから悲しみが深いと、涙に血が混じると考えられていました。「竹取物語」でも、「翁おうな、血の涙を流して惑へど、かひなし」という表現が出てきます。

遊郭編では炭治郎も血の涙を流していましたよね。(10巻 第82話)

 

知る人も なき別れ路に 今はとて 心細くも 急ぎ立つかな
知る人もいない別れ路に、もうこれが最後ということで、心細いことですが急ぎ立とうとしているのです

 

「別れ路」(わかれぢ)は「人と別れて行く道」とか、「この世と別れて行く道」の意味があります。そして、途絶えさせる・終わらせる意味の「断つ」と、旅立つ意味の「立つ」が掛詞になっています。

定子はどちらの意味で歌を詠んだのかはわかりませんが、堕姫と妓夫太郎が最後にたどり着いたのは、この世とあの世の別れ路でした。二人は一緒に立つことになってよかったですね。(第11巻 97話)

 

煙とも雲ともならぬ 身なりとも 草葉の露をそれとながめよ
煙とも雲ともならないこの身ではありますが、たとえそうだとしても、草葉の露を私だと思っていてください

 

「煙」は火葬のけむりのことで、死を例えていう語。「雲」も火葬のけむりを雲に見立てて、死を婉曲にいう語です。

この歌を記したときは、定子もそこまで具体的に死を意識していたわけではないようですが、子どもを無事に生んだとしても、政治情勢によっては一条天皇と思うように会えなくなると感じていたことを思わせる歌です。

「露」ははかなく、もろいことのたとえに使う語。「梅若伝説」や「伊勢物語」(成立年代不詳)にも重なるキーワードで、煉獄さんの「老いることも死ぬことも、人間という儚い生き物の美しさだ」というセリフにもつながっていきそうです。(第8巻 63話)

 

「煙とも~」の歌をもとに、妹は火葬を望んでいないと解釈した伊周の判断で、定子は土葬で葬られました。定子の葬儀が行われたのは12月27日。雪の降る日だったといいます。

「栄花物語」によると、「世の常の御有様ならば、霞まん野辺もながめさせたまふべきを、いかにせん」(世間によくある火葬で送る葬儀であれば、煙に霞む野辺をそれと眺めることができるだろうに、土葬では何の目当てもなくどうしたらよかろう)と、葬儀に参列できない一条天皇の悲しむ様子が描かれています。

雪の中を墓標もなく埋葬された、炭治郎の家族のお墓のイメージに重なりそうですね。季節
もちょうどお正月前です。(1巻 第1話)

そして定子が残した小さな子どもたちは、定子の妹・御匣殿(みくしげどの)が母代わりとなって世話をしたといいます。

「御匣殿」というのは人の名前ではなく、局の名前です。後宮にある后妃の住まう七殿五舎(しちでんごしゃ)の一つ、「貞観殿」(じょうがんでん)の中にあり、内藏寮(くらりょう)で作る以外の御衣料の裁縫・調達をする場所のことをいいます。

御匣殿に仕える女官の長を御匣殿別当(みくしげどのべっとう)といい、定子の妹もこの役に就いていました。

ファンブック第一弾によると、禰豆子の趣味は裁縫で(1巻 第3話、ファンブック第一弾 34頁)、登場シーンでは小さな六太の面倒をみていました。(1巻 第1話)

御匣殿はやがて一条天皇の寵愛を受けるのですが、天皇の子供を身籠もったまま亡くなってしまい、残された敦康親王の養育は、まだ子供がいなかった彰子に任されたといいます。

一条天皇には二人の皇后(定子、彰子)の他に三人の女御がいて、全部で5人の后妃がいました。でも、敦康親王に関わった人物で見ると、2人の皇后と1人の女官で合計3人です。

宇髄さんの奥さんも、雛鶴とまきをは親が決めた結婚相手。須磨は自分の意志を通してお嫁さんになっています。一条天皇と敦康親王に関わる3人の女性は、宇髄さんの奥さんの関係性とも重なってきそうですね。(ファンブック第二弾 126頁)

在原業平が関わる祟りの噂

後ろ盾もなく、頼れるものは帝の愛情だけという寄る辺のない女性が、周りからいじめられながらも皇子を出産し、皇子が幼いうちに亡くなってしまう──

定子の後半生は、「源氏物語」(平安中期)に出てくる桐壺更衣とどこか似たところがあります。そして「枕草子」は、清少納言から見た定子を描いた随筆です。

こうして見ると、「源氏物語」と「枕草子」は別々のお話ですが、どちらも同じ一条天皇と定子のことを描いているといえそうですね。

「源氏物語」でメインとなるのは桐壺更衣の子どもである光源氏ですが、一条天皇と定子の場合、該当するのは敦康親王です。では、敦康親王のその後は、どうなったのでしょう?

立場としては皇后から生まれた第一皇子ですから、一条天皇もいずれは皇太子に立てて天皇にと考えていたようです。でも結局、敦康親王が皇太子になることはありませんでした。

理由は、一条天皇と彰子の間に、道長の外孫となる親王たちが生まれたからです。

 
彰子の生んだ親王たち
 

そして、次に誰が皇太子になるのか取り沙汰されるたびに、敦康親王は皇太子候補から外され続けるのでした。それは、こんな噂が影響していたようです。

 
敦康親王の母后(定子)の外戚である高階氏は、斎宮・恬子内親王(てんし/やすらけいこ/やすこないしんのう)の子孫であるため、伊勢の大神宮に憚る所がある。
 

皇位継承の行方を左右した「伊勢物語」

恬子内親王は清和天皇(56代)時代の伊勢斎宮です。

「伊勢物語」の第六十九段「狩の使」(かりのつかい)にも出てくるとされる人物で、物語の末尾にはこんなふうに書かれています。

 

斎宮は水尾の御時、文徳天皇の御女、惟喬親王の妹。
斎宮は清和天皇のご時世の、文徳天皇(もんとくてんのう)のご息女で、惟喬親王(これたかしんのう)の妹君である。

 

「狩りの使」で描かれるのは、伊勢国へ狩りの使ひで訪れた昔男と、神に使える斎宮との禁断の恋。

昔男は古くから在原業平のことだといわれていたため、この物語は恬子内親王と在原業平のラブロマンスに違いないと考える人たちがいました。

 

狩りの使ひ
平安時代に五節などの行事で用いる鳥獣を狩るために、諸国に遣わされた近衛の官人のことです。
伊勢斎宮(いせのさいくう/いせのいつきのみや)
伊勢斎宮が制度として整えられたのは天武天皇(40代)の時代のこと。壬申の乱の折、伊勢神宮に戦勝祈願をして勝利したことから、天皇に代わって伊勢神宮に奉仕するため、未婚の皇女や女王から伊勢斎宮が選ばれるようになりました。

 

物語では、二人は関係を持つことなく、男はお約束どおり地団駄を踏んで終わるのですが、噂は違います。二人は本当は関係していて、その結果、子供が生まれたことになっているのです。

その子供は伊勢権守兼神祇伯(いせのごんのかみ けん じんぎはく)だった高階峯緒(たかしなのみねお)に引き取られ、彼が自分の息子の養子にすることで事実を隠したというんですね。

この子供が高階師尚(たかしなのもろなお)だとされていて、定子の母・貴子の3代前の人物に当たります。

 
伊勢物語の伝説による系図1
 

ただ、中世の歌人・藤原定家は、「伊勢物語」の写本の奥書で、「件本狼籍奇怪者也。伊行所為也。不可用之。」(前述の本は、乱暴でけしからぬものである。藤原伊行のしわざである。これを用いるべきではない。)と、「狩の使」本に関して記しています。

 
藤原行成の系図
 

興味深いのは、藤原伊行(ふじわらのこれゆき)の5代前が、藤原行成(ふじわらのゆきなり)だというところ。

この方は藤原伊尹(ふじわらのこれただ/これまさ)の孫ですが、早くに祖父や父を亡くして家が没落したため、苦労して一条天皇の蔵人頭を務めるにまで昇進した人物です。

そして、一条天皇が敦康親王の将来に関して相談した際に、「強い後見がなければ、大人しくして時流に任せるしかない」と説得した人物でもあります。

このとき例に挙げたのが、藤原基経(ふじわらのもとつね)に政治のすべてを委ねることになった時康親王(ときやすしんのう)(光孝天皇・58代)と、担がれた末に失脚して東宮位も剥奪された恒貞親王(つねさだしんのう)のことだったといいます。

 
阿保親王と恒貞親王の系図
 

「東宮位を剥奪された恒貞親王」というのは、在原業平の父・阿保親王(あぼしんのう)が関わっていた承和の変の皇太子のことです。

敦康親王の継承問題は、在原業平だけでなく、お父さんの阿保親王まで絡んでくる話だったんですね。どちらも宇髄さんにイメージが重なる人物です。

 
参考 『伊勢物語』古注釈における業平と伊勢:忠実と享受 木戸久仁子 | 三重大学学術機構リポジトリ 研究教育成果コレクション
参考 「平安人の心で『源氏物語』を読む」 山本淳子著
参考 「権記」藤原行成
 

伊勢神宮の託宣事件

噂の真偽の程はわかりませんが、後一条天皇(一条天皇の第二皇子)や後朱雀天皇(一条天皇の第三皇子)の時代は、伊勢神宮に関わる事件や怪異が続発する時代でもありました。

「大神宮諸雑事記」(平安末期)によると、長元4年(1031年)6月17日の大神宮御祭でのこと、斎宮・嫥子女王(せんし/よしこじょおう)が玉串を供奉しようとした際に、にわかに大雨が降り出し、激しく雷鳴が轟いて、斎宮が神がかりの状態になったといいます。

そして、「自分は皇大神宮(こうたいじんぐう)内宮(ないくう)第一の別宮(べつぐう)荒祭宮(あらまつりのみや)である」と叫び、斎宮寮頭(さいぐうりょうとう)夫妻やその家来たちが悪事をはたらいていると告発。さらに、近年の帝王には敬神の心が欠如していると激しい調子で託宣を行いました。

それまで伊勢斎宮が宣託を行うことはなかったうえに、直接天皇を批判する内容だったため、神宮も宮中も大騒ぎになったといいます。

さらに後朱雀天皇(一条天皇の第三皇子)の時代の長暦3年(1039年)にも伊勢神宮の斎宮による託宣があり、「栄花物語」では「藤氏の后おはしまさぬ、悪しきことなり」(藤原氏の后がいらっしゃらないのは、よくないことである)といって、道長の五男・教通(のりみち)の娘の入内が取り沙汰されていたことが描かれています。

藤原資房(ふじわらのすけふさ)の日記「春記」(しゅんき)(平安中期)にも、中宮・嫄子(げんし/もとこ)や、その娘・祐子内親王(ゆうし/すけこないしんのう)の扱いは託宣に反すると指摘していて、第二子出産後すぐに嫄子が崩御したのも神罰を受けたためだと記しています。

 
伊勢物語の伝説による系図2
 

この時代、道長はすでに薨去して、道長の長男・頼通(よりみち)の時代になっていたのですが、頼通は女の子に恵まれず、藤原北家による摂関政治の土台が揺らぎ始めていました。

嫄子は頼通の養女として育てられた女性ですが、実の父親は敦康親王です。噂による血筋からいうと、憚りがあるとされた一族の一人ということになってしまいます。

道長の外孫に皇位継承をもたらした噂が、今度は頼通を悩ませているのはなんとも皮肉な話です。

 
参考 情報夜話(情報千一夜物語) 二百年影を落とした一夜の愛(風説的情報) 金子信之 | Webで学ぶ情報処理概論
参考 『更級日記』における「天照御神」信仰について 飯島祐三 | 学習院大学学術成果リポジトリ
 

物語を貫く、水と火の関係

「鬼滅の刃」の中で、「源氏物語」と「枕草子」はかなり念入りにヒントが散りばめられているわけですが、よく見ると一条天皇と道長には物語を貫く共通点があります。

一条天皇に重なる火のイメージ

後継者問題で伊勢神宮が絡む一条天皇には、神鏡に絡む大火のイメージがあるようです。

平安京(京都)に遷都して以降、長い歴史の中で内裏の火災は度々起こっているのですが、円融天皇と一条天皇の在位中は3回も大きな火災が発生していて、三種の神器の一つ、天照大神の霊代(みたましろ)とされている「八咫鏡」(やたのかがみ)の形代(レプリカ)も被害を受けているんですね。

 

天徳4年(960年)9月23日 村上天皇(62代) 賢所(内待所)の焼損なし
天延4年(976年)5月11日 円融天皇(64代) 里内裏が始まる
天元3年(980年)11月22日 円融天皇(64代) 神鏡(形代)、半ば消失
天元5年(982年)11月17日 円融天皇(64代)
長保元年(999年)6月14日 一条天皇(66代) 11月 彰子入内
長保3年(1001年)11月18日 一条天皇(66代)
寛弘2年(1005年)11月15日 一条天皇(66代)
神鏡(形代)、焼損。神鏡の神慮を慰めるために、御神楽が行われる(内待所御神楽の成立)
長和3年(1014年)2月9日 三条天皇(67代)
長和4年(1015年)11月17日 三条天皇(67代)
長暦3年(1039年)6月27日 後朱雀天皇(69代)
長久3年(1042年)12月8日 後朱雀天皇(69代)
永承3年(1048年)11月2日 後冷泉天皇(70代)
天喜6年(1058年)2月25日 後冷泉天皇(70代)
道長創建の御堂(法成寺)焼失
永保2年(1082年)7月29日 白河天皇(72代)
承久元年(1219年)7月13日 順徳天皇(84代) 承久の乱
安貞元年(1227年)4月22日 後堀河天皇(86代) 大内裏の再建放棄

※南北朝以後は内裏の東に位置する里内裏、土御門東洞院殿(つちみかどひがしのとういんどの)が御所となる

 

八咫鏡(やたのかがみ)
「日本書紀」では八咫鏡(やたのかがみ)、古事記では八尺鏡(やたかがみ)という名称で登場する神鏡です。

天照大神(アマテラスオオミカミ)から天津彦彦火瓊瓊杵命(アマツヒコヒコホノニニギノミコト)に下賜され、代々の天皇が伝える三種の神器の一つ。

八咫鏡は天照大神の霊代(みたましろ)とされていて、御神体(本体)は伊勢神宮に、形代(レプリカ)は内裏の賢所に祀られています。

 

一条天皇の時代で、最初に発生した火災は長保元年(999年)6月14日のこと。

この年は還俗した定子が後宮に戻って第二子を身ごもっていたときで、道長の娘・彰子も、追いかけるように2月に裳着の式(もぎのしき)を行っていました。

 

裳着
貴族の女性が成人したしるしに、はじめて裳(正装のときに、腰から下につける衣)を着用する儀式のこと。結婚する前の12~13歳ごろに行われていました。

 

この式を終えた後、道長はすぐにでも彰子を入内させたかったと思うのですが、実際は11月1日になってしまいます。

「御堂関白記」によると、3月は詮子が、5月は道長自身が病に悩まされていたことが記されていて、さらには内裏を焼亡させる大火も発生していたわけで、差し障りのあることが重なったことで入内が遅れていたのかもしれませんね。

でも、そのせいで、彰子の女御宣下の儀が定子の出産当日に行われるという究極の嫌がらせ状態を引き起こしているので、この火災は定子や彰子の運命に大きな影響を与えたといえそうです。

 

【定子の場合】
永祚元年(989年)10月 裳着の式
正暦元年(990年)1月5日 一条天皇の元服
正暦元年(990年)1月25日 入内
【彰子の場合】
長保元年(999年)2月 裳着の式
長保元年(999年)3月 姉・詮子、病気
長保元年(999年)5月 道長本人、病気
長保元年(999年)6月 内裏焼亡
長保元年(999年)7月 子・頼通、病気
長保元年(999年)11月1日 入内

 

里内裏
内裏が焼け落ちるほどの大きな火災が発生すると、新しい内裏ができるまでの間を都のしかるべき邸宅を借りて天皇の御座所としました。
主に藤原氏の邸宅が選ばれるのですが、この御座所を里内裏と呼びました。

 

参考 平安宮仁寿殿の建築について その1 平安時代中期および後期の仁寿殿 鈴木 亘 | J-STAGE
参考 史実を欺く『栄花物語』:巻五「浦々の別」における年次設定 二宮愛理 | 九州大学学術情報リポジトリ
参考 源氏物語に見える酒(1)加藤百一 | J-STAGE
 

火災といえば、「鬼滅の刃」では歴史上の大火のイメージが度々重ねられています。

例えば炭治郎の、「俺は長男だから我慢できた」というセリフには、
愛宕山太郎坊天狗・比叡山次郎坊天狗のイメージがあり、源平合戦直前に発生した大火にもこうした天狗の名前がつけられていました。

そして、一条天皇や源氏物語、枕草子につながる徳川家には、明暦の大火が絡んでいます。

「鬼滅の刃」のタイトル候補に入っていた「カグツチ」(迦具土命)は、火の神様です。(1巻 第3話末の「大正コソコソ噂話」)

そのご神徳は「火伏せ」(火災を防ぐ)ですから、一条天皇時代の内裏焼亡も何か関わってきそうです。

藤原道長に重なる水のイメージ

一方で、道長の名前には陸(六)に通じる「道」が入っています。しかも文献上初めて登場する糖尿病患者ということで、インスリン結晶を表す六角形とともに記念切手にデザインされていて、「鬼滅の刃」に度々描かれる「六」に関係する人物といえます。

「角川 漢和中辞典」によると、「陸」の字には「道」の意味があるみたいですよ。

 


[解字]
高い丘の連なる意味。

[字義]
1. おか(をか)。くが。高く平らな地。「大陸」「陸地」
2. あつい(厚)。
3. たかい(高)。
4. みち(道)。船によらないで、歩行または馬車などで行く道。「陸路」
5. おどる(跳)。「陸梁(りくりょう)」。
6. 音が通じるので「六」に通用する。「陸尺」。
7. つづくさま。「陸続」。
8. 双陸は、すごろく。

 

興味深いのは、陰陽五行説では、「六」は「水の流れを表す」と考えられているところです。

陰陽五行説によると、この世界は原初唯一の「混沌」から陰陽の二気が分かれて五行が生まれたといい、このとき「水→火→木→金→土」の順で生成されたと考えられています。

この五行に数字を割り当てると、生数(1~5の数)と成数(6~10の数)ではそれぞれ「1」と「6」が「水」とされているのです。

 

水 … 1、6
火 … 2、7
木 … 3、8
金 … 4、9
土 … 5、10

 

「1」と「6」はどちらも水を表しますが、「1」は水を生じるものの、まだ動きをなすことができない状態。生数の「5」を得て成数の「6」となることで流れが生まれ、万物を潤す働きが起こるといいます。

「鬼滅の刃」に度々描かれる「六」(陸)も水の流れを表しているとすると、単行本のカバーやカバー折り返し部分に水流紋が描かれているのも納得ですよね。

吉野裕子さんの著書「易・五行と源氏の世界」によると、「源氏物語」は陰陽五行の法則に則って物語が構成されているといいます。主人公・光源氏の名前も、「光=陽」、「源氏(みなもと→水元)=陰」となり、陰陽のバランスがとられています。陰陽五行の考えが取り入れられているんですね。

「鬼滅の刃」も「源氏物語」を物語のヒントとして織り込んでいると考えると、「源氏物語」同じように陰陽五行の法則が織り込まれていても不思議はありません。

カグツチ(迦具土)の表す「火」と、「六」(陸)の表す「水」の関係は、火に水をかけるがごとく勢いを弱める相剋(そうこく)の関係ですが、行き過ぎを抑えて五行全体のバランスを保つ働きでもあります。

参考 「陰陽五行と日本の民族」吉野裕子著
参考 「易・五行と源氏の世界」 吉野裕子著
参考 五行の生成とその順序 | 聖至会

まとめ

こうしてみると、「鬼滅の刃」に「源氏物語」「枕草子」に重なる場面が描かれるのは、一条天皇や藤原道長につながるヒントといえそうです。

だとすると、堕姫が平家のお姫様と伝えられる「蕨姫」の名前を使っているのも、天皇家や藤原氏といった、やんごとなき人々を指すヒントなのかもしれませんね。

奥女中から遊女に転落した滝川様を描く歌舞伎「網模様灯籠菊桐」(あみもよう とうろのきくきり)や、武家のお姫様から遊女に転落した桜姫を描く歌舞伎「桜姫東文章(さくらひめ あずまぶんしょう)」が「鬼滅の刃」の設定と重なって見えるのも同じ理由と考えることができそうです。

そして、道長の時代には、内裏火災で賢所に祀られていた神鏡に被害が発生していました。その次の世代では、伊勢神宮に関わる怪異の発生が伝えられていて、神鏡を強くイメージさせます。

神鏡は天孫降臨時に天照大神(アマテラスオオミカミ)から瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)に授けられたと伝わる三種の神器の一つで、御神体は伊勢神宮に、形代は御所に祀られていました。

こうしてみると、「鬼滅の刃」でも、神鏡、もしくは伊勢神宮が重要なキーワードになってきそうです。

注目なのは、「鬼滅の刃」のキーワードが多数見つかった京都・宇治にも、伊勢神宮に関連する神社「神明神社」(しんめいじんじゃ)があるところです。

この神社の境内には内宮と外宮が設けられていて、伊勢神宮からそれぞれ天照大神(アマテラスオオカミ)と豊受大神(トヨウケノオオカミ)が勧請されている、まさに小さな伊勢神宮なんですよね。

豊受大神は、稲荷神の宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ)と集合して同一視されている神様でもあります。稲荷神の神使はキツネですから、厄除の狐面が出てくる「鬼滅の刃」とも何か深い関わりを感じさせます。

では、ミニ伊勢神宮がある宇治には、何があるのか? 長くなってきたので、別記事にまとめていきますね。

当ブログでは、在原業平に関わる考察記事が他にもあるので、よかったらこちらも覗いてみてくださいね。

 

 

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