平家一門がつなぐ、蕨姫花魁と溝口少年とお志津さん

平等院周辺

”Demon Slayer” has many images of Genji and Heike.
「鬼滅の刃」は源氏と平家のイメージが多数あります。

There is a legend that the remnants of the Heike clan were hiding in the upper reaches of the Shizugawa River.
「志津川」の上流には、平家の残党が隠れていたという伝説があります。

Mizoguchikamado Shrine and WarabiHime Oiran also have stories related to Heike.
溝口竈門神社や蕨媛花魁も平家に関連する物語があります。

(この記事は、第4巻、第8巻、第11巻、第13巻、第14巻、第16巻、第21巻、ファンブック第二弾のネタバレを含みます)

 
平等院周辺にある橋姫伝説は、鬼となってしまった禰豆子に重なるところがありました。そして、宇治上神社・宇治神社の見返り兎の伝説は、炭治郎の姿にどこか重なるところがあります。

やはり平等院周辺にある神社仏閣、そして地形は、「鬼滅の刃」の物語の鍵を握っていそうです。

この記事では「神女神社」と「志津川」について見ていこうと思います。

「志津川」の「志津」は「鬼滅の刃」のずっと先の方でチラッと登場する、不死川兄弟のお母さんの名前と一致するのですが(第13巻 115話)、無限列車で煉獄さんが炭治郎のことを言い間違えたときの呼び名「溝口少年」と、遊郭編で登場する花魁の名前「蕨姫」にも共通するものがあるんですよ。

それは、平将門を討った平貞盛(たいらのさだもり)の末裔たち。平清盛をはじめとする伊勢平氏の一門(平家)です。

平家の落人伝説の地を流れる志津川

煉獄さんのことを考察した記事にまとめていますが、千葉県東金市には平将門公のお母さんが「桔梗の前」と呼ばれていたと伝える逸話があり、煉獄さん自身も将門公のイメージに重なるところがありました。

書店でも、鬼舞辻無惨のモデルは将門公だと指摘する考察本が出版されているみたいですね。

実際、「鬼滅の刃」では、平将門公や平清盛をはじめとする平家一門の影を感じさせるものがけっこう出てきます。例えば、不死川さんのお母さんの名前「志津」もそうです。

最初に挙げた地図は「平等院」とその周辺をざっくり描いたものですが、地図の右上から南下して宇治川へ流れ込んでいるのが志津川です。この川の途中に「神女神社」(しんにょじんじゃ)があります。

この周辺は小さな盆地になっていて、平家の落人が住む村があると伝えられています。都のこんな近くに隠れ住んだ人たちがいたんですね。

この地域には3カ所に祠が祀られていたそうですが、明治の近代社格制度で村社の資格に達しなかったため、1つに集めて新たに神殿を造営し、明治6年に村社として列せられたのが「神女神社」です。

主祭神は市杵嶋姫命(イチキシマヒメノミコト)です。

 

市杵嶋姫(イツキシマヒメ)

記紀(日本書紀、古事記)に出てくる水の神様です。

素戔嗚尊が「自分には邪心はない」ということを証明するために、天照大神と誓約(うけい)をした際、天照大神が素戔嗚尊の剣を三つに折って、かりかりと噛んで吹き棄てた気噴(いぶき)の狭霧(さぎり)の中から生まれた女神の一柱です。

この時生まれた神様は、田心姫(タゴリヒメ)、湍津姫(タギツヒメ)、市杵嶋姫(イツキシマヒメ)の三柱の神様で、胸形三女神(宗像三女神)(むなかたさんじょしん)といいます。

 

市杵嶋姫命といえば、平清盛が篤く信仰した、安芸の宮島にある厳島神社の御祭神もこの神様です。

日本書紀の「うけい」の場面を伝える第一の一書には、「うけい」で生まれた三柱の女神を筑紫洲に降らせたときに天照大神はこう言ったと伝えています。

 

乃以日神所生三女神令降於筑紫洲、因教之曰、汝三神宜降居道中奉助天孫。而爲天孫所祭也。

乃(すなは)ち日神(ひのかみ)の生(あ)れませる三女神(みはしらのめがみ)を以て、筑紫洲(つくしのしま)に降(ふ)らしむ。因(よ)りて教(をし)へて曰(まを)ししく。「汝(いまし)、三神(みはしらのかみ)、宜(よろ)しく道の中(なか)に降(くだ)り居(ま)して天孫(あめみま)を助け奉りて、天孫の爲(ため)に祭(いつ)かれよ」。

そこで、日の神がお生みになった三柱の女神を筑紫洲(九州)に降りさせました。

そして「おまえたち三柱の神は道中(みちのなか)に降って鎮座し、天孫を助け奉って、天孫によって祭られよ」と教え仰せられました。

 

「道の中」というのは、ある場所へ行き着くまでの途中のこと。昔は「道の口」(みちのくち)、「道の中」、「道の後」(みちのしり)と三つに分けて表現していました。

三女神の場合は海路を守る神様なので、九州から朝鮮半島へ向かう海路の中間のことを指しています。

この神様は弁財天と習合してからは、航海安全に加えて、財福の神、商売繁盛の神としても信仰を集めていたので、日宋貿易で利益をあげていた平家にとっても大切な神様だったわけですね。

神女神社の創建はつい最近ですが、平家との関わりを感じさせる神社です。

「溝口少年」が指し示す溝口竈門神社

無限列車で煉獄さんは一度だけ、炭治郎のことを「溝口少年」と呼びかけます。(第8巻 54話)

ワニ先生は福岡出身ということもあって、ファンの間では「溝口竈門神社」(福岡県筑後市)のことだと推測されているのですが、もしかすると、もう少し意味があるかもしれませんよ。

というのも、地図を見ると、溝口竈門神社の周辺には源平合戦の古戦場跡があるんですよね。

溝口竈門神社のそばにある、源平合戦場跡

文治元年(1185年)3月、壇ノ浦の戦いに破れた平家の一門は、海中に没して滅亡したというのが教科書にも書かれている一般的な話。

でも、福岡県久留米市にある「水天宮」(すいてんぐう)の縁起によると、安徳天皇と二位尼 平時子(にいのあま たいらのときこ)は久留米まで逃れてきたという伝承があるそうです。

 
参考 水天宮(すいてんぐう) 水の博士のひとくちメモ | 独立行政法人 水資源機構
 

安徳天皇や二位尼のことははっきりしませんが、壇ノ浦の戦いの後、筑後平野を南下してくる平家の人々は確かにいたようで、筑後市尾島には合戦場跡があり、この戦いでは多くの死者が出たようです。

「一之塚源平古戦場跡」は、このとき討ち死にした者を集めて塚が作られたと伝えられている場所で、地図で見ると溝口竈門神社の近くにあります。

 
溝口竈門神社と源平合戦最後の地
 

この戦いでわずかに生き延びた人々も、ここから少し南下した飯江川(はえがわ)と待居川(まついがわ)の合流地点となる要川(かなめがわ)周辺に陣を敷くのですが、この合戦にも大敗。ここが源平合戦最後の地となります。

現在は整備されて公園になっているみたいですね。

 
参考 源平の史跡 | ニコニコタクシー
 

溝口竈門神社が示すもの

溝口竈門神社と宝満宮竈門神社は、「鬼滅の刃」に当てはめてみると、少々変わった存在です。

別記事で考察しましたが、宝満宮竈門神社のある宝満山には古くから宝満山修験道があって、その信仰には「両界曼荼羅」があり、9人の柱と12鬼月のイメージと重なるものがあります。

また、溝口竈門神社は宝満宮竈門神社の神様「玉依姫命」(タマヨリヒメノミコト)を勧請して祀っているので、どちらも同じ神様を祀る神社です。なので、「宝満宮竈門神社=溝口竈門神社」と考えることができます。

でも、宝満宮竈門神社一つで9人の柱と12鬼月のイメージがカバーできるのなら、ぶっちゃけ溝口竈門神社はなくてもいいわけです。

でも実際は、溝口竈門神社をイメージさせる「溝口少年」というキーワードが出てくるのです。わざわざ溝口竈門神社を指す、何か理由があるわけですね。

これはやはり、源平合戦最後の地に重ねるためではないでしょうか?

源氏・平氏の動向と3つの竈門神社の位置関係

 
溝口竈門神社と源平合戦最後の地 矢印入り
 

試しに、源平両軍の動きを地図に重ねてみました。

上の図のオレンジの矢印は、壇ノ浦の戦いが始まる直前の源氏方の動きです。源頼朝の命により、九州平定のため源範頼(みなもとののりより)軍は豊後上陸を目指しています。

水軍を持たない範頼軍がこの作戦を可能にしたのは、源氏方に兵船82艘を提供した、豊後国(現 大分県)の臼杵惟隆(うすきこれたか)と緒方惟栄(おがたこれよし)兄弟の功績です。二人はこの合戦で反平家に立った豪族でした。

 
参考 吾妻鏡 第四 元暦二年(一一八五)乙巳 正月大 二十六日
 

臼杵惟隆は臼杵荘(現 大分県臼杵市)、緒方惟栄は緒方荘(現 大分県豊後大野市緒方町)を支配していたので、上の地図でいうと右下あたりですね。ちなみに緒方惟栄は、父親が蛇神だったという伝承を持つ、ちょっとユニークな武将です。

兄弟の協力により、元暦2年・文治元年(1185年)1月に、北条義時ら4名が豊後への上陸を果たします。このそばにある「八幡竈門神社」は、「鬼滅の刃」の聖地ではないかと言われている神社の一つでしたね。

元暦2年・文治元年(1185年)2月1日になると、葦屋浦の戦いが発生。これを機に、範頼軍は平家の拠点だった豊前、長門、筑前を制圧します。

 
参考 吾妻鏡 第四 元暦二年(一一八五)乙巳 二月小 一日
 

葦屋浦の戦いに敗れた平家は九州への逃げ場を失い、彦島に孤立して、この後、平家滅亡を決定づける壇ノ浦の戦い(元暦2年・文治元年、1185年 3月24日)へと進んでいきます。

上の地図の赤い矢印は、形勢が逆転した葦屋浦の戦いの辺りから、平家の拠点の一つだった大宰府政庁跡と源平の古戦場までを結んでみました。

こうして見ると、天満宮竈門神社と溝口竈門神社は、やはり平家の動きと関わってきそうです。

 
参考 緒方氏の始祖は大蛇神(龍神・竜神) | 正見行脚
参考 13人の合議制(鎌倉殿の13人)関連人物 源範頼 | 刀剣ワールド
 

「鬼滅の刃」に重なる景色

溝口竈門神社のすぐ隣に八女市がありますが、この地域には平家の落人伝説があって、「久留米」→「八女」と落ちのびてきたという話があるようです。

 
参考 八女地方の落人伝説 | 立花町歴史探訪
 

興味深いのは、現在の八女郡、筑後市、八女市は、「日本書紀」(奈良時代)にも「八女県(やめのあがた)という名前で出てくる地域だというところ。軻遇突智の伝説を伝える「日本書紀」と、平家の伝説を伝える「吾妻鏡」(14世紀初頭)や「平家物語」(13世紀前半)が交差する場所でもあるんですね。

 

丁酉、到八女縣。則越藤山、以南望粟岬、詔之曰「其山峯岫重疊、且美麗之甚。若神有其山乎。」時水沼縣主猨大海奏言「有女神、名曰八女津媛、常居山中。」故八女國之名、由此而起也。
(「日本書紀」巻第七 大足彦忍代別天皇 景行天皇)

丁酉(ひのととり)(七日)、八女県(やめのあがた)に到る。則(すなはち)藤山(ふぢのやま)を越へ、以(もちて)南に粟岬(あはのさき)を望みたまひ、詔(のたまはく)「其(そ)の山の峯岫重疊(みねくきかさな)りて、且(また)美麗(うるはしき)こと甚(はなはだし)。若(も)しや神(かみ)其(そ)の山にありや。」

時に水沼(みむま)の縣主(あがたぬし)猨大海(さるのおほあま)奏(まをさく)。「女神(ひめがみ)あり、名は八女津媛(やめつひめ)といい、常に山の中に居(を)り。」

故(かれ)八女國(やめのくに)の名、此(こ)に由(よ)りて起これり。

景行天皇行幸18年7月7日に八女県に到った景行天皇は、藤山を越えて南方の粟岬(あわのみさき)を見おろされ、「その山の峯々は重なって、まことに美しい。その山に神がおられるのかもしれぬ」と言われるので水沼県主猿大海(みぬまのさるおおみ)が申し上げて、「女神がおられます。名を八女津媛といい、いつも山中におられます」というので、八女国の名前はここから生じたそうです

 

藤山を越えて南を見ると、峯々が重なって美しい──
まるで藤襲山を感じさせる表現ですね。

ちなみに、この八女県の話は、景行天皇が「不知火」を目にされた「熊襲征討」と同じ行程で出てくる物語です。

不知火の火は「五月壬辰」、八女県は「秋七月丁酉」なので、「『日本書紀』(上)中公文庫」だと1ページほどしか離れてないんですよ。煉獄さんの剣技「壱ノ型 不知火」で「日本書紀」を探せば、すぐに辿り着けそうな感じです。

というわけで、この地域をもう少し詳しく見ていくと、「鬼滅の刃」につながりそうな風景がいくつかあるようです。

例えば、広川町には「ピーチの森」という農園があります。栽培しているのは、もも、びわ、ぶどう。桃の森といえば、善逸が修行していた場所ですよね。(第4巻 33話、34話)

広川町観光協会のページでは3月上旬の「桃のお花見」について紹介されているのですが、現在も開催されているかは不明。ぶどう狩り(シャインマスカット)の情報は毎年あるみたいです。

 
参考 ピーチの森 | 広川町観光協会
 

同じ町内には、「太原(たいぱる)のイチョウ」というイチョウ畑があります。私有地ですが、色づく季節になるとご厚意で無料開放してくださるそうです。

イチョウといえば、「鬼滅の刃」では無一郎くんの記憶の中などで印象的に登場していました。(第14巻 118話、第21巻 179話)

かつては林業が盛んな土地だったみたいで、山の文化に触れることができる施設もあるようです。

 
参考 太原のイチョウ | 広川町観光協会
参考 秘境 杣の里
 

そして、平家の落ち武者伝説が伝わる八女地方には、古くから竹細工の技術が受け継がれています。

「鬼滅の刃」でも、義勇さんの羽織の模様や刀の鍔に、編み組を思わせる模様がデザインされていて、物語にも深く関わる数字の「6」が隠れていました。

 
参考 本当にこれは竹!?やめ竹細工の編み方はものすごく美しい! | TAKAHIRO ISHIKAWA
参考 八女竹細工 ~ 120もの竹編み技法を駆使して魅せる技 | アクロス福岡
 

不死川さんのお母さんと同じ名前の「志津川」が、平家の落人伝説が伝わる地域を流れていることを考えると、やはり何か意図するものがありそうですね。

平家一門の中にいる蕨姫

 
蕨媛のイメージ
 

というわけで平家一門を探してみると、「蕨姫」と呼ばれるお姫様がいました。

「吾妻鏡」の文治元年(1185年)9月2日条に、義経の側室となった平時忠(たいらのときただ)の娘のことが出てくるのですが、時忠が配流された能登国の伝承では、この娘は「蕨姫」と呼ばれているんですね。

蕨姫に関する記録はほとんど残っていないのですが、その父である平時忠がどんな人だったのか振り返ってみると、蕨姫がどうして義経の側室になったのか見えてきますよ。

裏切りと陰謀の中、平家を支えた人 平時忠

平時忠は実務官人の家系である高棟流(たかむねりゅう)の出身で、父は時信。お姉さんは平清盛の奥さんの時子。異母妹の滋子は後白河天皇の女御(建春門院)で高倉天皇のお母さんです。

久安2年(1146年)に非蔵人となり、永暦元年(1160年)には検非違使になるのですが、二条天皇呪詛に加わったとして出雲に配流となってしまいます。

妹・滋子の子 憲仁親王(のりひとしんのう、後の高倉天皇)を皇太子にしようと謀り、後白河上皇の子 二条天皇を呪い殺そうとしたという事件なのですが、憲仁親王はこのとき、まだ生後10日なんですよね(汗)

非情ですが、清盛は二条天皇支持の立場をとっていたため、時忠を助ける動きはなかったといいます。

清盛からも見捨てられてしまった時忠を救ったのは、もちろん第11巻 96話に登場したような鬼ではなく、二条天皇の崩御(永万元年、1165年)という巡り合わせでした。

これを契機にようやく都に戻され、建春門院の側近として取り立てられ、ここからは順調に昇進…

するかに見えたのですが、藤原成親(ふじわらのなりちか)の配流を求めて起こった「嘉応の強訴」(かおうのごうそ、嘉応元年、1169年)では、内裏にまで侵入してきた大衆に関する報告の不備を理由に再び出雲に配流されてしまいます。

もともと成親の配流が決まっていたものを覆したうえでの時忠の配流ということなので、身代わりというにも無理筋ですが、さらに時忠が務めていた検非違使別当の役を成親に代わらせたというのですからカオスです。

この決定をしたのは後白河院です。成親は後白河院の寵臣で、大衆の要求を認め、自分の意に反した判断が下されたことが気に入らなかったと言われています。

ですが、成親配流を求める大衆というのが、延暦寺に関わる人達だったということも影響していたかもしれません。

後白河天皇が保元の乱に勝利して、信西(しんぜい)とともに実行しようとした「保元新政」(ほげんのしんせい)に対して、延暦寺は強硬に抵抗してきた大寺社した。

呪詛事件のときには動かなかった清盛も、このときは事態の収集に動いたこともあって、時間はかかったものの12月には本位に復することができました。

多難な道のりだったようですが、最終的には正二位権大納言(しょうにい ごんのだいなごん)まで出世して、平関白(へいかんぱく)と称されるまでになります。

建春門院没後(1176年)は高倉天皇の近臣として仕え、清盛の娘・徳子が高倉天皇に嫁いて安徳天皇を生むと(治承2年、1178年)、時忠の奥さんである藤原領子(ふじわらのむねこ)がその乳母を務めています。

平時忠の言葉、「平家に非ずんば人にあらず」の意味

こうした経緯の中で、時忠はこう言ったことで有名です。

 

此一門にあらざらむ人は、皆人非人なるべし
この一門に生きていないであろう人は、皆、人でなしであるに違いない
「平家物語」4 禿髪(かぶろ)

 

「平家に非ずんば人にあらず」という現代訳で有名なセリフですね。

ただ、「人非人」は仏教の言葉で、「もと人ではなかったが、変化(へんげ)して人の形となり法を聞いたという伝説を持つ『緊那羅』(きんなら)という神様のことで、『人に似て人ではない神』」を意味していました。

こうした意味の繋がりからか、古語辞典では「人の道から外れた人」、「義理人情をわきまえない残酷な人」として「人でなし」という意味を持つ言葉として解説されています。(角川新版 古語辞典)

ブログ「山科薫マニアックな世界を楽しみましょう」さんでは、時忠の真の意図は、これまで捉えられてきたものとは少し違うのではないかという記事があったのですが、言葉の意味を考えると、確かに少し違うようです。

 
参考 「平氏にあらずんば人にあらず」の発言の真意 | 山科薫マニアックな世界を楽しみましょう
 

「平家一門でなければ、どいつもこいつも平気で裏切るに違いない」

流罪を経験している人の言葉として考えると、なんとも言えないものがあります。

この発言があったのは、「平家物語」によると、清盛が病に冒されて存命のために出家入道となった仁安3年(1168年)のことなので、この翌年には「嘉応の強訴」に関連して、再び出雲に配流される運命にあります。非情ですね(汗)

平家のお姫様「蕨姫」

壇ノ浦の戦いの後、時忠は源氏の捕虜となり、京都へ護送されます。

総大将を務めた平宗盛(たいらのむねもり)は、鎌倉から京都へ護送される途中で嫡男ともども斬首され、宗盛の弟・重衡(しげひら)は東大寺や興福寺を焼き討ちした者として木津川のほとりで斬首される中、時忠、忠盛、建礼門院といった人々は極刑を免れます。

時忠の場合、三種の神器の一つ、神鏡「八咫の鏡」を守ったのは自分であること、そして自分は公家であり、武門の出身ではないことを訴えて助命を嘆願し、認められています。

 
平家の系図

 
参考 吾妻鏡 第四 元暦二年(一一八五)乙巳 五月小 十六日
 

さらに自分の娘(蕨姫)を義経に嫁がせて、「義経の舅」という血縁関係を持つことで、身の安全を確保します。

「吾妻鏡」によると、5月20日に能登国(現 石川県北部)への配流が決定しているにも関わらず、義経の舅となった縁によって、9月になっても京都に滞在したままの時忠の処遇が頼朝の怒りを買っていると記録されています。

 
参考 吾妻鏡 第四 元暦二年(一一八五)乙巳 六月大 二日
参考 吾妻鏡 第五 文治元年(一一八五)乙巳 九月小 二日
参考 吾妻鏡 第四 元暦二年(一一八五)乙巳 九月小 十二日
 

結局、時忠は能登国へ配流され、頼朝と対立した義経は11月3日に都落ちしてしまいますが、蕨姫の名前はどちらにも記録がないようです。

 
参考 吾妻鏡 第四 元暦二年(一一八五)乙巳 九月小 二十三日
参考 吾妻鏡 第四 元暦二年(一一八五)乙巳 十一月大 二日
参考 壇ノ浦の合戦後、平時忠が能登に配流された時の同行者を知りたい。
参考 源義経が、平泉に逃げた時に一緒だった家臣は誰か。
 

ただ、時忠が配流された石川県珠洲市馬緤町(いしかわけん すずし まつなぎちょう)には、こんな言い伝えが残されています。

奥州の藤原氏を頼って北上する際に、義経は金石(かないわ)を出て海路から能都に入り、蕨姫に最後の別れを告げに立ち寄ったのだと。このとき、義経が馬をつないだ場所なので、馬緤という地名があるそうです。

蕨姫花魁こと堕姫の場合、自分の美しさを自覚してからはうまく立ち回れるようになった(ファンブック第二弾 159頁)ということなので、蕨姫の人生とは真逆で、人物そのものは重なる様子はありません。

でも、「鬼滅の刃」に源氏・平家のイメージが重ねられている可能性を示していそうです。

ちなみに、陰謀にも負けず、裏切りにもくじけず、一族が滅亡しても生き延びることに力を注いだ時忠は、能登に配流された4年後に亡くなってしまいます。

このガッツは、ちょっと無惨様に似ているところがありますが、無惨様と違うところは、その子孫の方は今でも能登で屋敷と伝統を守っているというところ。あれだけの激動の中、平家は途絶えていなかったのです。

平家の家紋は「揚羽蝶」です。仏教では、蝶はあの世とこの世を行き来すると考えられていて、輪廻転生の象徴です。

「新しい自分になる」、もしくは「美しく変化する」という意味があり、武家では「不死・不滅」のシンボルとして家紋とする家も多い人気のデザインなんですよね。

第16巻 137話に出てくる「人の想いこそが永遠であり不滅」というメッセージに重なりそうなイメージです。

ともあれ、「鬼滅の刃」は、かなりがっつりと源氏と平家に関するものが散りばめられていそうです。

これはやはり煉獄さんのイメージと重なる射楯兵主神社のお祭り、「三ツ山大祭」の「二色山」のイメージと重ねられているのでしょうか?

宇治の地形で見ると、「志津川」だけでなく「蛍塚」、「宇治橋」、そして「平等院」そのものにも源平に関わる話があり、「鬼滅の刃」に重なりそうなキーワードがあるみたいです。

長くなるので別記事にまとめてみました。よかったら、こちらの記事も覗いてみてくださいね。

この他、平等院周辺には「鬼滅の刃」と重なりそうな伝説・物語もありますよ。

 

 

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