日輪刀は太陽を意味しますが、「輪」には、車輪の意味もあります。ストーリー上、重要なメッセージが隠されていると思います。
(この記事は、2巻、5巻、ファンブック第一弾のネタバレを含みます)
鬼殺隊の持つ刀は「日輪刀」といいます。
日輪刀の原料は、一年中陽が射しているという陽光山(ようこうざん)でとれる「太陽の光を吸収する鉄」ということなので、まさに「太陽の刀」ですよね。
でも、名前につけられているのは「太陽」ではなく、「日輪」です。どうして「日輪」でなくてはいけなかったんでしょう?
「日輪」は、太陽と月が対になった言葉の一つ
辞書で調べてみると、「日輪」は太陽の別称だと説明されています。
太陽を表す言葉にはいろいろありますが、月と対になっているものがいくつかあって、「日輪」もその一つです。
「角川 漢和中辞典」によると、「日」は太陽の輝くさまをかたどっていて、「月」はみちかけする月の形をかたどっているのだそう。古い字形だと、上の図のような感じになるみたいです。対象物の形に注目した言葉になるわけですね。
「太陽」は現在よく使われる言葉ですが、対語として月を表す「太陰」があります。2つ並べるとよくわかりますよね。陰陽に注目した言葉になるようです。
我が家の辞書の説明では「太陽の異称」とか、「太陽」というだけだったり、そもそも掲載されていなかったりする言葉なのですが(汗)
一般的な言葉というより、仏教の曼荼羅や、水墨画、絵巻物、屏風といった絵画などによく出てくる言葉になるようです。
「輪」は車輪のように丸いものの意味
「角川 漢和中辞典」で「輪」の字を調べてみると、「車のまわる部分」とか「車のわ」といった意味があり、「輪のように丸いもの」ということで「日輪」「月輪」という言葉も説明に併記されていました。
「輪」という文字そのものに、車輪の意味があるんですね。
この点は公式でも意識されているようで、炭治郎の耳飾りに関するデザインの注意書きの所に、放射線の先の部分に「たまりを作る」と説明されていることがファンブック第一弾に掲載されています。(ファンブック第一弾 132頁)
「たまり」というのは、水たまりのように、ものがたまっている所のこと。
確かに原作もアニメも、線の先は塊があるように描かれています。耳飾りが大きく描かれている所でよくわかりますよ。
そう思って見ると、炭治郎の耳飾りは太陽の光線というより、長くのびた何かの足、もしくは大きな車輪の一部にも見えてきます。
そこで思い出したのが、車紋で代表的な「源氏車紋」(げんじぐるまもん)です。下図右は地面に接した車輪のイメージで、ずっと近寄ってみました。
軸(よこがみ)からのびる輻(や)から、車輪の一部を形成している小羽(こば)につながる様子が、炭治郎の耳飾りの「たまり」と似てますよね。
「神紋総覧」によると、伊勢外宮の神官の方が用いる車紋で「十二本滑車」というものがあり、これは太陽の光線に見立てた天照大神のシンボルでもあるのだそう。
家紋には太陽の神様を車輪に見立てる例があるんですね。
参考 「神紋総覧」丹羽基二著
大いなる日輪、大日如来
密教でも「日輪」という言葉が出てきます。大日如来の「大日」は、「大いなる日輪」という意味になります。
「日輪」はすべての根源という大日如来の「智恵」を象徴するもので、太陽の光のようにあらゆるものを分け隔てなく照らしているので、こう表現されるのだとか。
この他にも、お釈迦様の説いた教えを車輪に例えて「法輪」(ほうりん)と表したり、密教法具に「輪宝」(りんぽう)という物があったります。
どうして「輪」の字が使われるのかというと、仏教では釈迦の説いた教え(法)を広めることを戦車の車輪(cakra)が回ることに喩えるためです。
例えば釈迦が最初に行った説法のことを、「初転法輪」(しょてんぽうりん)といいます。
釈迦の説いた教えは1カ所に留まることなく、あらゆる場所、あらゆる人に行き渡ることを、車輪が進む様子に喩えているんですね。
つまり密教では、「日輪」は「太陽」と「法(釈迦の説いた教え)」という言葉で構成される用語になるわけです。
「無限列車」に重なる祭りに見えるもの
興味深いのは、「日輪=大日如来」として見ると、「三ツ山大祭」に設けられる「二色山」にイメージが重なってくるところです。
「三ツ山大祭」というのは、姫路にある「射楯兵主神社」(いたてひょうずじんじゃ)のお祭りで、上の図のように三つの造り山が設けられます。
射楯兵主神社の神使はミミズクなので、柱相関言行録で無一郎君が、煉獄さんの印象を「梟みたい」と言っていたことにつながる神社です。(ファンブック第二弾 113頁)
造り山の一つである「小袖山」(上図右端)は、藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の百足退治を表現していて、小袖に覆われた造り山の上を大百足がぐるりと巻き付いています。
二百人の乗客を乗せて走る無限列車のようなイメージがありますよね。
二色山は青と白の二色の布が巻かれていて、富士山を表しています。
表現されているのは、仁田四郎直常(にったしろうただつね)の富士猪退治です。
「富士山記」(ふじさんのき)(平安時代)によると、富士山には古来、浅間大神(あさまのおおかみ)が宿ると言われていたといいます。
奈良時代以降、本地垂迹(ほんじすいじゃく)が広まると、浅間大神の本地仏は大日如来と考えられるようになります。
仏や菩薩が衆生を仏道で救うため、借りに日本の神々の姿となって現れるという考え方です。
「本地仏」は姿を借りる前の本来の仏や菩薩のこと、「垂迹」は姿を借りた後の日本の神々のことをいいます。
この考え方は明治初期の神仏分離令以降、衰退してしまいます。
富士山といえば「富士講」に代表される富士信仰があり、「江戸八百八町に八百八講あり」と称されるほど人気を集めていました。
開祖は長谷川角行(はせがわ かくぎょう)といって、長崎の武家の子と伝えられています。禰豆子が好きな「金平糖」(ファンブック第一弾 34頁)は長崎が伝来の地なので、「角行」と「禰豆子」が重なるんですよね。
だとすれば、「三ツ山大祭」の造り山は、日輪刀の特徴にイメージが重なると考えることはできないでしょうか?
「小袖山」には疱瘡神として祀られていた猩々のイメージがあり、日輪刀の原料には猩々緋砂鉄・猩々緋鉱石が使われているとされていました。
「五色山」には陰陽五行のイメージがあり、日輪刀の色変わりの性質は、陰陽五行で説明することができそうです。
「二色山」の富士山は、富士信仰の大日如来のイメージがあるとすると、日輪刀の名前にある「日輪」は大日如来と考えることができそうです。
日輪刀が「日輪」でなければいけない理由
密教では、大日如来を表すものに両界曼荼羅(りょうかいまんだら)というものがあります。
大日如来の「智」を表す金剛界曼荼羅(こんごうかいまんだら)と、大日如来の「理」を表す胎蔵界曼荼羅(たいぞうかいまんだら)があって、2つ合わせて両界曼荼羅といいます。
両界曼荼羅に関しては、煉獄兄弟に重なる平等院や、溝口竈門神社につながる宝満山の修験者から辿ることができますよ。よかったら、こちらの記事も覗いてみてくださいね。
金剛界曼荼羅ですが、これは「会」(え)と呼ばれる9つの区画に区切られて表現されています。まるで9人の柱のようです。
そして、胎蔵界曼荼羅は、「院」(いん)と呼ばれる12の区画に区切られて表現されています。こちらは12鬼月の数にぴったり合います。
金剛界曼荼羅は「人間の悟りへの道を暗示している」といわれているそうで、胎蔵界曼荼羅は「人間の苦難を救い、即身成仏の教理を示している」といいます。
参考 「西国33カ所巡拝」小林茂著
そして胎蔵界曼荼羅の中央に赤く表現されているのは蓮の花で、人間の心臓を表しているそうですよ。これは、「どんな人も仏になる素質があり、大日如来の慈悲でその道が開かれる」という考え方を表しているそうです。
「鬼滅の刃」では、鬼の急所である頸を大日如来の名前を秘めた「日輪刀」で斬ることで、鬼の体は骨も残さずに崩れてしまいます。炭治郎はこのとき「灰のような匂いがする」と言います。(5巻 第42話)
無惨様の血の量が多い12鬼月(ファンブック第一弾 90頁)になると、地獄からのお迎えのような猛火に包まれるところは印象的ですよね。
猛火があがるか、あがらないかの違いがあるだけで、どちらも大日如来によって成仏しているように見えます。
地獄のお迎えのこと。仏教では罪人が臨終を迎えるとき、猛火に包まれた車(火車)が地獄へ送るために迎えに来るといいます。
仏画では炎を上げる大八車のようなものに亡者を乗せて、獄卒(ごくそつ)がひいていく様子が描かれます。
獄卒というのは、地獄で亡者を責めるといわれる鬼のことです。
煩悩を脱して悟りを開くこと。広い意味で、死んで仏となることもいいます。
まとめ
こういうふうに考えると、日輪刀は「陽の光を吸収する鉄」(2巻 第9話)を使っているけれど、鬼を退治するためには単に「太陽」というだけではなく、大日如来を表す「日輪」でなければいけないということが言えそうですね。
日輪刀にはこの他にも、鬼を退治するために重要な要素があるみたいですよ。そこには射楯兵主神社の「三ツ山大祭」で設けられる造り山が、鍵として重ねられていそうです。
大日如来のイメージが重なるのは二色山ですが、その他のイメージはこんなふうに考えることができそうです。
・二色山 富士信仰 → 大日如来を表す両界曼荼羅:刀の名前「日輪刀」
・五色山 陰陽五行 → 陰陽五行の理:日輪刀の性質、色変わりの刀
それぞれ別記事にまとめているので、よかったらこちらの記事も覗いてみてくださいね。