宇髄さんの名前に隠れる、鬼舞辻無惨につながるヒント

星と彼岸花

The image of Altair and the Big Dipper overlaps with Gyutaro.
妓夫太郎には牽牛星と北斗七星のイメージが重なります。

Uzuji has images of Michizane Sugawara and the Polar Star, and these are likely to be important hints.
which seems to be an important hint.

宇髄さんには菅原道真や北極星のイメージがあり、これらは重要なヒントになりそうです。

(この記事は、「鬼滅の刃」2巻、7巻、9巻、10巻、「ファンブック」第一弾、第二弾、「ONE PIECE」3巻、5巻、53巻「ぬらりひょんの孫」15巻のネタバレを含みます)
 

別記事で考察したように、妓夫太郎には牽牛星と北斗七星のイメージが重なっているといえそうです。

そう考えると、妓夫太郎と戦った宇髄さんには、北極星のイメージが重ねられていると考えることができそうです。

そのヒントは上限の壱・黒死牟にあります。

黒死牟の趣味が示すもの

ファンブックによると、黒死牟の趣味は「囲碁」と紹介されています。(ファンブック第二弾 138頁)

「鬼滅の刃」の様々な場面に織り込まれている「源氏物語」「枕草子」にも碁を打つ場面が頻繁に描かれていて、特に「枕草子」では、筆者・清少納言と藤原斉信 (ふじわらのただのぶ/なりのぶ)との会話で、二人だけに通じる男女関係の隠語として囲碁用語を使う場面が出てきたりするのです。(第一五五段「故殿の御服のころ」)

 
参考 「『春はあけぼの』に秘められた思い 枕草子のたくらみ」山本淳子著
 

宇髄さんの名前が秘めるもの

宇髄さんの名前「天元」も、囲碁にヒントがあるようです。

囲碁の碁盤上に黒いポチで印がつけられた所は「星」と呼ばれるのですが、特に中央の星のことを「天元」というんですね。

 
囲碁の天元
 

この星を「天元」と命名したのは渋川春海(安井算哲)と言われていて、彼は陰陽五行をもとに、碁盤上の中央の星が天の中心となる北極星(太極)に当ると考えたといいます。

 

渋川春海(しぶかわはるみ/しぶかわしゅんかい)/安井算哲(やすいさんてつ)
幕府の碁方・安井算哲の子で、京都生まれ。幼名は六蔵で、名前に六の数字を持つ人です。13歳で父親の家職と名前を継いで、安井算哲と名乗ります。渋川春海は、晩年(1702年)の改名。

 

渋川の功績に、暦の編纂があります。

それまで日本では唐伝来の宣明暦(せんみょうれき)が使われていましたが、日本と中国では里差(りさ)(緯度差)があることから時差が発生することを指摘。中国・元が採用していた授時暦(じゅじれき)をベースに、実際に観測したデータを加えた大和暦(やまとれき)を作成します。

三度目の上表で、改暦の任についていた土御門泰福(つちみかどやすとみ)に認められ、泰福の上奏により改暦の宣旨が下って貞享暦(じょうきょうれき)として採用されました。

「天元」に関わる人物が、初めて日本人の手によって編纂された和暦にも関わっているのは興味深い話ですよね。

「鬼滅の刃」で重要な鍵となる「青い彼岸花」は詳細のわからない謎の花ですが、彼岸花はお彼岸の季節に咲くことから「彼岸花」と呼ばれています。

その名前となっている「彼岸」は、日本独自の暦である「雑節」の一つ。和暦が深く関わる言葉なのです。

参考 暦Wiki 2.渋川春海と貞享暦† 貞享の改暦† | 国立天文台 暦計算室 サイト利用規定
参考 コンサイス 日本人名事典 改訂版 机上版
参考 新明解国語辞典 第五版
 

宇髄さんと堕姫が示す北極星

渋川春海が「天元」に見立てた北極星はいつも「北」にあり、その位置を変えることはないため、古くから正しい方角を示す不動の星とされています。

でもそれは、人間の短い一生でのこと。現在は、こぐま座のポラリス(α星)が北極星ですが、紀元前2000年ごろは、りゅう座のドゥバン(α星)が北極星でした。

これは、動きを止める直前のコマが首を振りながら回っているように、地球の自転軸もおよそ2万6千年の周期で首を振りながら回っているためです。歳差運動といいます。

そのため下図のように、歳差運動がつくる円の上にある星が、過去、もしくは未来の北極星になるわけです。

 
過去、現在、未来の北極星
 

ドゥバンの等級は4等星、ポラリスは2等星なので、昔の北極星は今より少し暗い星、つまり地味な星だったようです。

ファンブックによると、宇髄さんは「忍びとして影に隠れ地味に生きてきたので、不満が爆発して派手になりました」(ファンブック第一弾 57頁)と説明されていて、北極星の移り変わりに重なります。

興味深いのは、これから1万2千年後には、こと座のベガが北極星になるところ。

別記事で考察したとおり、堕姫にはこと座のベガ(織姫)のイメージが重なります。

原作では「アタシ本当に強いのよ、今はまだ陸だけど、これからもっと強くなって…」「ほんとにアタシは上弦の陸だもん、ほんとうだもん、数字だって貰ったんだから、アタシ凄いんだから」と大泣きしていました。(10巻 第85話)

ベガの等級は0等級。これは星の明るさを示す基準となる数字で、数字が大きくなるほど暗い星を表します。

堕姫は「陸」の数字をもらった上弦の鬼ですが、実はベガも星の明るさに関してちょっと特別な数字が与えられているんですね。

そしてベガは将来の北極星ということを考えると、「アタシ凄いんだから」というセリフも北極星を示すヒントになっていそうです。

 
参考 新明解国語辞典 第五版
参考 正確な曲軸合わせの方法 | 天体写真の世界
 

星欠けの三光門にかかるもの

「天元」を名前に持つ宇髄さんは、別記事で考察したように菅原道真のイメージがあります。

「北極星」と「菅原道真」の2つのイメージは、北野天満宮を示すヒントになっていそうです。

というのも、菅原道真を御祭神とする北野天満宮には、「星欠けの三光門」という星に関わる七不思議が伝えられているのです。

公式サイトにはこんなふうに説明されています。

 

御本殿前の中門は三光門と呼ばれ、神秘的な「星欠けの三光門」伝説が残っています。それは、門の名は日・月・星の彫刻に由来しているけれども星は天上に輝く北極星のことで、実際には刻まれていないという説。平安時代、御所は現在の場所とは異なり当宮を北西に臨む千本丸太町に位置し、帝が当宮に向かってお祈りをされる際、三光門の真上に北極星が輝いていたからだと伝えられています。

 

欠けている星を北極星と考えると、御所が千本丸太町にあったとしても方角が少々おかしなことになるのですが、北極星と北斗七星の両方を表す「北斗星」だとしたら意味が通りそうです。

旧暦の九月(9月下旬~11月上旬)になると、三光門に北斗七星がかかるのです。

大極殿から見た景色

「隠された神々 古代信仰と陰陽五行」によると、「旧九月には北斗は西北の空にもっとも低くかかり、人の世に触れるばかりに近づく」と指摘しています。

京都の西北は愛宕山系の山々が連なっているので、実際に地表近くまで降りてきた北斗七星を見ることはできません。

でも、大内裏にあった朝堂院(ちょうどういん)から見ると、北野天満宮と北斗七星の方角は重なりそうです。

 
北野天満宮と北斗七星
 

この北斗七星とつながるものが、三光門を飾る彫刻の中にあります。北面外側にある、波乗り兎と三日月です。

三日月といえば、家紋にも「月に北斗七星」という紋があるんですよね。

こうした表現があることを考えると、三光門の三日月は、北斗七星が欠けた三日月を表しているようにも見えます。

 
星欠けの三光門
 

別記事で考察したように、妓夫太郎には北斗七星と重なるイメージがありました

「鬼滅の刃」にも、何か関係がありそうです。

 
参考 平安京へ出かけよう | 風俗博物館
参考 隠された神々 古代信仰と陰陽五行 吉野裕子著
参考 境内のご案内 天神様の七不思議 | 北野天満宮
 

旧暦九月に行われる伊勢神宮の祭事

旧暦九月といえば、伊勢神宮の第一の大祭とされる神嘗祭(かんなめさい)があります。(現在は10月17日に開催)

神嘗祭というのは、その年の新穀を天照大神に捧げ、豊穣を感謝する祭事のこと。

同じように収穫祭に該当するお祭りは、宮中をはじめ諸大社で行われる新嘗祭(にいなめさい)があるのですが、それはどれも旧暦十一月に行われていました。(現在は11月23日に開催)

旧暦九月の日程で行われるのは伊勢神宮の一カ所のみ。神嘗祭は他とは違う、ちょっと珍しいお祭りなのです。

「隠された神々 古代信仰と陰陽五行」によると、神嘗祭は、地上近く降りてきた北斗七星を仲介として、人々が捧げる新穀を、太一(たいいつ)(北極星)と習合した天照大神に届ける儀式だといいます。

北極星と北斗七星が関わるお祭りと考えることができるんですね。

そして、諸大社が旧暦十一月に祭事を行うのは、星の動きに合わせて行われる神嘗祭の意義を高めるために、ずらしているのではないかと指摘しているのです。

 
参考 恒例祭典 10月 神嘗祭 | 伊勢神宮
参考 隠された神々 古代信仰と陰陽五行 吉野裕子著
 

旧暦九月が示すもの

神嘗祭が行われる時期は、「鬼滅の刃」でも重要になってくるようです。

旧暦九月は新暦でいうと、9月下旬~11月上旬にあたります。この時期は年中行事に「秋のお彼岸」と「中秋の名月」が入ってくるのです。こんな感じ。

 

・旧暦九月 … 新暦でいうと9月下旬~11月上旬
・秋のお彼岸 … 秋分の日「9月22日~24日」を中心に、その前後3日間
・彼岸花の開花時期 … 9月中旬~9月末頃
・中秋の名月(旧暦8月15日) … 新暦でいうと9月7日~10月8日ごろ

 

興味深いのは、「お彼岸」は日本では仏教行事として行われているのに、仏教が伝えられた国々にお彼岸はなく、日本独自の風習となっているところです。

一説に、長岡京遷都の造営使・藤原種継(ふじわらのたねつぐ)の暗殺(785年)に関わったとして皇太子を廃され、無実を訴えて憤死された早良親王(さわらしんのう)を慰めるために始まったと伝えられています。

 
参考 由緒/御祭神 | 崇道天皇社
 

桓武・早良兄弟の事情

早良親王の系図
 

早良親王は桓武天皇(第50代)の同母弟です。

東大寺の羂索院(けんじゃくいん)に寄住し、11歳(760年)のときに出家。仏教教義の研鑽に身を捧げ、20歳(769年)、もしくは21歳(770年)のときに登壇授戒(とうだんじゅかい)を受けて僧侶となります。

良弁僧正の後継者として高い地位にあったのですが、桓武天皇の即位(781年)とともに還俗して皇太子に立ちました。

 

登壇授戒
戒壇に登って受戒すること。奈良時代、僧侶になるためには、三師七証による厳格な登壇授戒が必要とされたといいます。

東大寺(奈良県)の他に、下野薬師寺(栃木県)、観世音寺(福岡県)に戒壇院があり、天下の三戒壇と呼ばれています。
 

参考 戒壇の原意 平川彰 | J・STAGE
参考 天下之三戒壇のひとつ 戒壇設置 | 観世音寺

 

「人物叢書 早良親王」によると、桓武天皇が即位してまず注力したことは、光仁天皇の近臣を排除して、自らの政権基盤を固めることだったといいます。

さらに平城京から長岡京へ遷都したのも、天武系天皇の王都であった平城京を捨て、天智系天皇にふさわしい新たな首都を建設することが目的だったと指摘しています。

こうした動きは、桓武・早良兄弟の母である和新笠(やまとのにいがさ)の出自が低かったことが影響していると考えられるようです。

早良親王が還俗して立太子したのも、皇統を継ぐのは光仁天皇(第49代)のどの皇子でもなく、新笠を母に持つ兄弟こそが皇統の担い手であるという王権の意思を示す必要があったというのです。

 
参考 「人物叢書 早良親王」 西本昌弘著
参考 戒壇の原意 平川彰 | J・STAGE
参考 天下之三戒壇のひとつ 戒壇設置 | 観世音寺

種継暗殺事件がつくる早良親王のイメージ

藤原永手(ふじわらのながて)や藤原百川(ふじわらのももかわ)によって擁立された桓武天皇は、即位時から政治的に不安定な状況にあったようで、早良親王だけでなく、それまでも多くの人が謀反の疑いで処分されていました。

 

天応2年(782年)閏1月11日 氷上川継の乱
光仁天皇の葬儀を終えた翌月のこと、氷上川継(ひがみのかわつぐ)が宮中に従者を潜入させて、桓武天皇に危害を加えようとしたとする事件が発生。春宮大夫を務めていた大伴家持(おおとものやかもち)も事件に連座したとして一時現職を解任される。
氷上川継の父・塩焼王(しおやきおう)は天武天皇の皇子・新田部親王(にいたべしんのう)の子で、母・不破内親王(ふわないしんのう)は聖武天皇の皇女。

延暦元年(782年)6月 左大臣・藤原魚名が事に坐して罷免
詳細の記録がない事件。藤原魚名(ふじわらのうおな)は藤原浜成(ふじわらのはまなり)とともに光仁天皇の近臣だった。浜成は氷上川継の妻の父で、氷上川継の乱では参議の職を剥奪されている。

延暦4年(785年)9月23日 藤原種継暗殺事件
長岡京へ遷都して間もない延暦4年(785年)9月23日夜、造営使・藤原種継が造営監督中に矢で射られ、翌日、自邸で薨去する事件が発生。早良親王の他に、大蔵卿・藤原雄依(ふじわらのおより)も事件に連座したとして隠岐に配流される。
雄依は桓武天皇擁立の功臣・藤原永手の次男だが、光仁天皇の近臣でもある。

 

種継は桓武天皇即位前後(781年)から急激な昇進を遂げていて、延暦3年(784年)には前任の参議たちを抜いて正三位中納言となっていました。

桓武天皇擁立に功績のあった藤原良継(ふじわらのよしつぐ)(777年死去)・藤原百川(780年死去)は種継の叔父。そして桓武天皇の第一皇子・安殿親王(あてしんのう)を生んだ藤原乙牟漏(ふじわらのおとむろ)は良継の娘です。

「人物叢書 早良親王」によると、こうした関係から種継は、叔父・良継の娘で桓武天皇との間に安殿親王を生んだ乙牟漏を守り、安殿親王の立太子に向けて動いたことは想像に難くないと指摘しています。

一方、早良親王の周辺は、皇太子傅(こうたいしふ)が薨じた後も後任が任命されず、持節征東将軍に任命された東宮大夫・大伴家持は京を離れ、事件の二十日ほど前に薨去していて、親王を支えるべき人々が欠けた状態になっていました。

桓武天皇は皇女・朝原内親王(あさはらないしんのう)が斎王として伊勢に出立するのを見送るため、延暦4年(785年)8月24日に旧都平城へ行幸。その帰途、9月10日から水雄岡(みずおのおか)で遊猟を行っていたため、事件が発生した夜は桓武天皇も京を不在にしていました。

事件の首謀者として中心的な役割を果たしたのが、早良親王の従者である大伴竹良(おおとものたけら)や大伴継人(おおとものつぐひと)らだったため、暗殺事件は王権を揺るがすクーデターとして扱われ、早良親王は事件に連座する者として処罰されたのです。

「人物叢書 早良親王」は、種継の存在が皇太子・早良親王の地位を脅かすものとみて暗殺が決行されているところが、伴健岑(とものこわみね)らの動きを巧みに利用して恒貞親王(つねさだしんのう)の廃太子をはかった「承和の変」と同様の背景があると指摘しています。

忍辱(にんにく)の衣を披る人々

「扶桑略記」(ふそうりゃっき)(平安時代)によると、早良親王が皇太子を廃位されようとするとき、使者を諸寺に遣わして白業(びゃくごう)を修めさせようとしたと伝えています。

白業というのは、「よい果報がもたらされることを期待して、写経・読経などの善業(ぜんごう)を行うこと」ですが、「人物叢書 早良親王」によると、「性霊集」(しょうりょうしゅう)(成立不詳)や「類聚三代格」(るいじゅさんだいきゃく)(平安時代)で用いられている文を例に挙げて、「よい果報とは白業を命じた本人ではなく、広く父母・国王などにもたらされる果報のこと」であると指摘しています。事件で動揺する人々のために指示されたわけですね。

関わりを避けるためか諸寺がこれを拒むなか、菅原寺(すがわらでら)にいた興福寺沙門の善珠(ぜんじゅ)だけが要請を入れて白業を修し、使者にこう伝えます。

 

前世殘業 今來成害 此生絕讎 更勿結怨

前世の残業、今来たりて害を成す。此生(このしょう)は讐(しゅう)を絶ち、更に怨を結ぶなかれ
前世から残る業によって、今このような災いとなっていますが、現世で返報を終わらせ、重ねて、うらみを生じさせてはなりません。

 

使者が帰ってこのことを報告すると、早良親王は憂いのなかに歓びを浮かべて、こう言ったといいます。

 

自披忍辱之衣 不怕逆鱗之怒

みずから忍辱(にんにく)の衣を披(かぶ)り、逆鱗の怒を怕(おそ)れず
自ら忍辱の衣を被り、激しい怒りをおそれずにいよう。

 

「忍辱」は他から恥を与えられても、怒りの気持ちを起こさず耐えること、または安らぎの心を持つことをいいます。忍辱の心は一切の害難を防ぐところから、身を守る衣に例えて「忍辱の衣」と表現されます。

興味深いのは「源氏物語」にも、自分がやっていないことを責められ、他者から恥を与えられることを心配する人物が出てきます。「第五十一帖 浮舟」で、川に身を投げて死に損なっていた浮舟を助けた横川僧都(よかわのそうづ)です。

いつもは宮中からのお召しさえ辞退して山にこもっているのに、成り行きとはいえ誰とも知れない女性・浮舟のために祈祷をしていると評判になっては困ることもあるだろうと、修法の声を人に聞かせないよう弟子たちに隠すよう指示するのです。

弟子たちはいろいろ非難がましく言うのですが、僧都は「静かにするがよい。自分は無慚(むざん)の僧で、御仏の戒めを知らず知らず破っていたことも多かったであろうが、女に関することだけはまだ人の譏(そしり)を受けず、みずから認める過失はなかった。年六十を過ぎた今になって世の非難を受けてもしかたのないことに関わるのも、前生からの約束事だろう」と言うのです。

「無慚」というのは、仏語で「僧が罪を犯しながら心に恥じる所の無いこと」をいいます。

もとは「無慙」「無慚」と書いていたのが、借字で「無惨」「無残」とも書きます。

「無惨」には「残酷であること、乱暴であること」の意味もありますが、「むごたらしくて(かわいそうで)見ていられないこと」という意味もあって、つまりこんな関係が成り立ちそうです。

 

鬼舞辻無惨=残酷、乱暴=「むざん」=むごたらしい(かわいそう)=早良親王

 

こんなふうに考えると、鬼舞辻無残の名前そのものが大きなヒントになっていそうです。

 
「自分がやってもいないことを責められ、他者から恥を与えられても、怒りの気持ちを起こさず耐える」
 

こうしたイメージを持つ人達が、「鬼滅の刃」でも見ることができます。

 

マイケル・ジャクソン→生前、没後とゴシップに苦しめられる
マイケル・ジャクソンによく似た服装で描かれる鬼舞辻無惨(2巻 第13話)

サロメ→母の命令で洗礼者ヨハネの首を求めたのに、自ら求めた話に変わって広まる
洗礼者ヨハネの首を抱えるサロメによく似たイメージで描かれる堕姫(9巻 第74話)

シザーハンズのエドワード→周囲の勝手な評価で追い詰められていく
エドワードによく似た服装で大きなハサミを持つ無意識層にいた善逸(7巻 第57話)

 

どれも世に広められた姿と実像が違う人達です。

そしてこのキャラクターたちは、マイケル・ジャクソンによく似た歩き方をする「ジャンゴ」(3巻 第25話)、サロメと同じ名前を持つボア・ハンコックの「ペットの大蛇」(53巻 第516話)、エドワードのように手が刃物になった技(杓死)を使う「クラハドール(キャプテン・クロ)」(5巻 41話)と、「ONE PIECE」に出てくるキャラクターにも重ねられていて、「ONE PEACE」からたどることができるヒントになっているようです。

忍辱の衣を被る人のイメージが、どうして繰り返し描かれるのか、それは日本史上三大悪女に数えられる平安時代の人物を指しているのかもしれません。

後ほど、別記事にまとめていきますね。

当ブログには鬼舞辻無惨に関して考察している記事があるので、よかったらこちらも覗いてみてください。

 

 

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