宇髄さんが「祭りの神」を名乗るのは、菅原道真の怨霊に理由がある?

桜の花

It seems that the legend of the vengeful spirit of Michizane Sugawara gives a hint to why Tengen Uzui calls himself the god of the festival.
菅原道真の怨霊伝説は、宇髄天元が祭りの神を名乗るヒントをくれそうです。

And Kitano Tenmangu Shrine, where Michizane Sugawara is enshrined, has a deep connection with Kabuki. According to the fanbook, watching Kabuki is one of Rengoku’s hobbies, and it seems to be a hint for consideration.
菅原道真を祭る北野天満宮は、歌舞伎と深い関わりがあります。ファンブックによると、歌舞伎は煉獄さんの趣味の一つで、考察のヒントになっていそうです。

(この記事は、「鬼滅の刃」3巻、8巻、9巻、10巻、12巻、14巻、16巻、18巻、ファンブック第一弾のネタバレを含みます)
 

「鬼滅の刃」と「ジョジョの奇妙な冒険」は、ちょっと似ているところがあります。

これはその漫画を見れば、「鬼滅の刃」の考察のヒントが見つかる「仕掛け」になっているといえそうです。

「ジョジョ」の場合、作品の中に「レ・ミゼラブル」(1862年)が織り込まれていましたが、「鬼滅の刃」もしっかりと織り込まれているようで、この中に宇髄さんが「祭の神」と名乗った理由も隠れていそうです。

レ・ミゼラブルで描かれているもの

「小説『レ・ミゼラブル』 ~偉大なる近代人の物語~」によると、この小説には二つの異なる叙述内容によって構成されているといいます。

 

  • 小説のストーリーを構成する、ジャン・ヴァルジャンの物語
  • ジャン・ヴァルジャンが生きた時代の歴史哲学的叙述

 

「レ・ミゼラブル」が描く時代は、王政復古(1815年)からパリ暴動(1832年6月)に至るまで、そしてその前史としてのフランス革命やナポレオン戦争です。

この時代の社会の惨状と、そこに生きる「悲惨な人々(Les Miserables)」に光をあてて、古き時代を打破することで、新しい民主的な時代を築くことが主題であると指摘しています。

古き時代に属するのは、自らの欲望のままに生き、他者ばかりでなく己自身をも害し堕落させてしまう「封建的人間」のこと。

それに対するのは、自己の欲望を理性で抑制することによって、己のみならず、他者のためにも生きることを可能とする自由を持った「近代人」のことだといいます。

 
参考 「言葉と文化のミニ講座 Vol.72 小説『レ・ミゼラブル』 ~偉大なる近代人の物語~ | 明星大学
 

「鬼滅の刃」でも、堕姫が「美しく強い鬼は何をしてもいいのよ」と言う場面があって「封建的人間」をイメージさせますよね。(10巻 第81話)

こうした人物像は、「鬼滅の刃」に織り込まれている平安時代の人々にも重なります。

 

この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば
今宵このときは自分の生涯で最良のときと思う 望月は欠けていることがないと思うので

 

この歌を詠んだのは藤原道長でした。

「角川 新版 古語辞典」で意味を訳すと上のような感じになると思うのですが、一般的には「この世は自分のためにあると思う、満月に欠けたところがないように」と、道長の傲慢さを表す歌として解釈されています。

道長をはじめとする藤原北家繁栄の基礎をつくったのは、藤原元方と対立した藤原師輔でした。

元方と対立した師輔の場合

 

九條の大臣(おとど)は、おいらかに、知る知らぬわかず心廣(こころひろ)くなどして、月頃(つきごろ)ありて参りたる人をも、ただ今ありつるやうに、けにくくも持てなさせ給はずなどして、いと心安(こころやす)げにおぼし掟(おき)てためれば、大とのの人々、多くはこの九條殿にぞ集まりける。

九条の大臣(師輔)はおっとりしてらして、付き合いのあるなしの区別なく寛大で、数か月も空けて参上した人でもそっけない扱いなどはされず、本当にいかにも気楽そうにしたいと心にお決めになっているようなので、大殿(忠平邸)の人々の多くはこの九条殿の邸に集まっていました。

 

「栄花物語」では、師輔は時の一の人(左大臣)である兄・藤原実頼が心苦しくなるほど優れていたといい、性格も上記のように描かれているのですが、実は菅公の怨霊伝説を積極的に利用して、実頼とその子供たちを排斥しようとしていたのではないかと指摘する研究者の方がいます。

実頼の妻の一人は、菅原道真が太宰府へ左遷されるきっかけを作った人物、藤原時平の娘です。

歴史上の主な出来事を辿っていくと、実頼・師輔兄弟は、菅原道真の怨霊伝説にガッツリと重なる時代に生きていたようです。

 
参考 「栄花物語」 巻第一 月の宴
参考 道真の怨霊と藤原師輔 黒木香 | 広島大学 学術情報リポジトリ

怨霊伝説に炭治郎の影

900年 兄実頼、誕生

901年 菅公、大宰権帥に左遷

903年3月26日 菅公が太宰府で亡くなる

905年 太宰府の菅公の御墓所の上に祠廟が創建される

菅公の霊を祀る神殿を建てるよう神託を受けた味酒安行(うまさけやすゆき)は、元々菅公に従って太宰府へやってきた人物。菅公没後、遺言に従って安楽寺へ埋葬したのもこの人。

906年 藤原定国が薨去

菅公が失脚するきっかけを作り、菅公の後任として右近衛大将を兼帯した人物。

908年 藤原菅根が雷に打たれて落命

菅公が失脚するきっかけを作り、宇多上皇が菅公の左遷を諫止するために参内しようとしたところを内裏の門前で阻んだ人物。

908年 師輔、誕生

909年 藤原時平が病死

讒言により菅公を大宰府へ左遷、失脚させたと言われる人物。

913年 源光が鷹狩りの最中に泥沼に転落して行方不明となる

菅公の後任として従二位に就いていた人物。

 

「北野天神縁起絵巻」(承久年間)や「歓喜天霊験絵巻」(鎌倉時代)によると、三伏(さんぷく)の夏の夜、比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)第十三代座主(だいじゅうさんだいざす)尊意(そんい)のもとに、怨霊となった菅公が現れたといいます。

菅公は天拝山(てんぱいざん)で七日七夜、無実を天に訴えたところ、奉じた祭文は帝釈天を過ぎて梵天まで達したことから自分は天満大自在天神になったと尊意に説明し、宮城(大内裏)に入って恨みを晴らすことを梵天、四天王、焔魔大王、五道大神、冥官冥衆、司命司録等から許しを得たので、たとえ勅宣があっても僧正にはその邪魔をしないでほしいというのです。

尊意は「天皇の勅命が再三あれば、これを断るわけにはいかない」と答えたところ、怒った菅公はそばにあったザクロをかじり、種ごと吐き出すと猛火に変わったといいます。尊意は瀉水の印(しゃすいのいん)を結んで速やかにこれを鎮めました。

尊意は平将門の調伏にも霊験を現したと伝えられている僧侶で、菅公の教学の師でもあります。

菅公も尊意の霊験を恐れたからとはいえ、事前に邪魔をしないよう申し入れに来たり、すでに神々から祟りをなす許可をもらっていたり、意外と事前の準備がマメですよね。政敵の讒言によって左遷された菅公は、清く明き誠の心を生涯貫かれたことで、正直・至誠の神として信仰されているからかもしれません。

ただ、この辺は、正直者で嘘をつく時、普通の顔ができなかったり(9巻 第72話)、不意打ちができない性格のため、名乗ってから鬼の首を切りにいく礼儀正しい炭治郎の姿に重なりそうです。(3巻 第21話、18巻 第152話)

 

三伏(さんぷく)
菅公が現れたという「三伏」は夏の極暑の期間のことで、夏至後の第三の庚の日が「初伏」、第四の庚の日が「中伏」、立秋後の庚の日が「末伏」といい、この3つをあわせて三伏といいます。

 

陰陽五行では、庚は「金の兄」で金気の性質であるため、火気の盛んな夏の季節(7月中旬~8月上旬)に巡ってくる庚の日は、火に金が害されて凶の意味が強くなる「火剋金」(かこくきん)と考えられていました。

「遊郭編」でも炭治郎たちの階級が「庚」だったのは、興味深い一致です。(8巻 75話)

参考 北野天満宮について | 北野天満宮
 

師輔・実頼の出世競争の始まり

915年 師輔の兄・実頼元服、従五位下

918年 三善清行が薨去

三善清行は881年に方略試を不合格となっていて、このときの問者が菅公だったことから恨み、事あるごとに菅公と対立したと言われる人物。

919年 醍醐天皇の勅命により、菅公の祠廟に御社殿が建立される

923年 師輔、元服、従五位下

923年 皇太子・保明親王が薨御

保明親王は、時平の妹と醍醐天皇の間に生まれたため、菅公の祟りとささやかれる。「日本略記」(平安末期)

醍醐天皇は菅公を右大臣に復帰させ、正二位を贈る。そして、菅公を大宰員外帥(だざいいんがいのそち)とした昌泰4年(延喜元年)正月の詔書が破棄される。

延長2年(924年)ごろ 師輔、藤原経邦(南家)の娘・藤原盛子と結婚(盛子は、943年10月13日に逝去)

925年 醍醐天皇が春から流行していた天然痘を患う。同じ月に皇太子・慶頼王(よしよりおう/やすよりおう)が5歳で薨去

慶頼王は保明親王と時平の娘との間に生まれた子だったことから、菅公の祟りとささやかれる。

928年 兄・実頼、右大将・従四位下に昇進

930年 清涼殿に落雷

菅公追放に関わった藤原清貫を含む多数の死傷者を出す。その後、醍醐天皇は体調を崩して崩御。菅公の祟りと恐れられる。

931年 師輔、右少将に昇進。兄・実頼、参議に昇進

939年 師輔と兄・実頼、大納言に昇進

 

「三国伝記」(室町時代)によると、三善清行(みよしのきよゆき/きよつら)の息子・浄蔵(じょうぞう)が、父の死を知って熊野から急ぎ戻ると、父の葬列はちょうど葬送の地へ向かう北橋を渡るところでした。

浄蔵が聖観世音菩薩に祈願したところ、清行は蘇って、父子はひととき話をすることができたという伝説があります。

それは父の死後5日目のことで、それから7日後、清行は念仏を唱えながら亡くなったといいます。このことから、父子が出会えたこの橋は「戻り橋」と呼ばれるようになります。

「撰集抄」(鎌倉時代)や「平家物語」(鎌倉時代)によると、戻り橋は鬼女の腕を切り落とした渡辺綱の伝説の場所でもあります。

鬼女は酒呑童子の一の子分の茨木童子だったという話もあり、無限列車の最終場面で、腕を失って飛び去る猗窩座の姿に重なる伝説です。(8巻 第65話)

平将門は菅原道真の生まれ変わり伝説

940年 承久の乱、発生

平将門と藤原純友がほぼ同時に反乱を起こす。

947~948年

実頼の3人の子供たちが次々に亡くなり、実頼は一時引きこもってしまう。

948年 憲平親王、誕生

後の冷泉天皇。父は村上天皇で、母は師輔の娘の藤原安子。

949年 師輔、実頼の父・忠平、薨去

951年 実頼の長女が亡くなる

953年 憲平親王、立太子

954年 兄・実頼、正二に昇進

955年 師輔、正二に昇進

959年 師輔、菅公を祀る神殿で、大規模な社殿の造営と宝物の奉納を行う

息子を摂政関白に、娘を国母にと、九条家の繁栄を願う祭文を捧げる。

960年 師輔、薨去

 

「平将門故蹟考」(1907年)によると、平将門は菅公の亡くなった年の生まれで、菅公の生まれ変わりであるという噂があったといいます。

「将門記」(平安時代)には、将門が新皇を称することになったのは、八幡大菩薩の使いという巫女の神託によるもので、その位記(いき)を菅原朝臣(菅原道真)が書いたとされています。

「鬼滅の刃」でも、煉獄さんのことを宇髄さんが意識している場面が描かれていましたよね。(10巻 第87話)

煉獄さんには平将門のイメージが、宇随さんには菅公のイメージが重ねられていると考えると、生まれ変わり伝説は興味深い関係です。

 

位記
朝廷から官位が授けられるときに与えられる文書のこと。

 

「雍州府志」(1684年)によると、多治比文子(たじひのあやこ)という人物に、菅公を祀る祠を右近馬場に建てるよう神託があり(942年)、小さな祠が造られます。

さらに947年に、近江国比良宮(おうみのくに ひらのみや)の禰宜・神良種(みわのよしたね)の子・太郎丸にも同様の神託があり、右近馬場に一夜にして数千本の松が生えるという奇跡が起きたため、北野朝日寺の住職・最珍(最鎮)の協力で、良種と文子は神殿「北野社」を建立します。これが後に北野天満宮となります。

 

右近馬場(うこんのばば)
大同2年(807年)、内裏の西側に開かれた右近衛府に属する鍛錬所のこと。右近衛大将だった菅原道真も愛した場所でした。

 

右近の馬場では様々な行事が行われていて、陰暦5月5日~5月6日に行われる「ひをり(引折)」という競馬・騎射の見物に在原業平も訪れています。

向かいの牛車の下簾(したすだれ)からわずかに見えた女性に恋心を抱いて歌を詠んでいるのですが、能の演目「右近」(世阿弥作)はこの歌が織り込まれていて、桜葉明神という女神が登場します。

女神の名前に「桜葉」の文字があるように、右近の馬場は桜の名所としても有名でした。

桜は「稲の花」を象徴する花祭りの花の一つ。昔は桜の花の咲き具合いで稲の実りを占っていました。

木花之佐久夜毘売命(コノハナノサクヤヒメノミコト)を御祭神に祀る富士山本宮浅間大社(ふじさんほんぐうせんげんたいしゃ)は、桜の木がご神木です。

農耕と関係の深い山の神につながる桜が、菅公の伝説にも関わってくるところは興味深いですよね。

 
参考 「折口信夫全集 2 花の話」
 

一条天皇が鍵・宇髄さんの祭りの神

987年 一条天皇から「北野天満大自在天神」の勅号が下賜され、北野天満宮となる
勅命により菅公を祀る神殿に勅使が遣わされ、勅祭「北野祭」が斎行される

993年 一条天皇から菅公に、正一位左大臣が贈られ、同年さらに太政大臣を贈られる
安楽寺(後の太宰府天満宮)に一条天皇の勅使が遣わされ、勅祭が執り行われる

999年 一条朝で最初の内裏焼亡

1001年 一条朝で二度目の内裏焼亡

1004年  藤原道長の勧めにより、一条天皇が北野天満宮に初めて行幸する

1005年 一条朝で三度目の内裏焼亡

このとき、神鏡(形代)が焼損する。

 

菅公を祀る北野天満宮の始まりは、多治比文子が造った祠ですが、藤原摂関家の庇護・崇敬により、摂関家を守護する神様となります。そして藤原摂関家と関係の深い一条天皇の縁で、朝廷の崇敬も受けることになります。

「北野天満宮」という神社の名前は、一条天皇から「北野天満大自在天神」という神号を賜ったことから始まるのですが、それまで私祭だった「北野祭」もこのときから皇室の安泰と国の平和を祈る勅祭となり、数カ月に及ぶ盛大なものになっていきます。

このように見ていくと、左目の周囲に亀戸天神社の神紋・梅鉢紋のような化粧を施した宇髄さんが、自分のことを「祭りの神」と名乗るのも納得できる話ですよね。(9巻 第71話)

一見、ギャグに見える場面も、実は伝承由来の鍵が正確に描かれているのかもしれません。

そして、年表では一条天皇から太政大臣の位が贈られた後に3度の内裏焼亡が発生しているのですが、「太平記」(室町時代)では3度の火災が発生してから太政大臣の位が贈られて、菅公の宿忿が鎮められたことになっています。

伝説では怨霊伝説を鎮めた人物として、一条天皇が重視されていると言ってよさそうです。

 

宿忿
長い間募らせてきた憤りや恨みのこと。

 

鍛冶の里編で三種の神器を思わせる「草薙の剣」が描かれている(12巻 第104話)ことを考えると、「鬼滅の刃」に重なる一条天皇は、その御代で火災に見舞われた「八咫鏡」(やたのかがみ)を指す鍵になっているといえそうです。

 
参考 御本殿に祝詞・読経の声響き 例祭・北野御霊会斎行 北野天満宮と延暦寺による神仏習合で国家安寧・疫病退散祈る | 北野天満宮社報 秋号 Vol.33
 

宴の席が示すヒント

九条家の繁栄のために、菅公の怨霊伝説を利用していた… かもしれない師輔ですが、師輔自身は外戚として力を振るうことはありませんでした。

師輔の娘・安子が生んだ憲平親王(のりひらしんのう)が冷泉天皇となるのは967年のこと。師輔はそれを見届けることなく、960年に薨去してしまいます。

実際に関白となって天皇を補佐したのは、皮肉なことに兄・実頼でした。

ただ、外戚の関係にない立場では、関白であっても権限がほとんどなく、外戚にあたる師輔の子どもたちの意向で勝手に物事が決まっていくことを嘆き、日記の中で軽んじられる自分のことを「揚名関白」(ようめいかんぱく)と書き残しています。

 

揚名関白(ようめいかんぱく)
揚名は名ばかりということで、肩書だけで職掌(担当する仕事)も得分(職に応じて得る収益)もないことをいいます。

「源氏物語」第4帖 夕顔には、「揚名介なる人の家」という言葉が出てきます。

 

師輔の悲願が叶ったのは、師輔の子どもたちの代のこと。特に道長・頼通の時代にピークを迎え、太皇太后、皇太后、皇后の三后を一家から出すという「一家立三后」を成し遂げます。

 

一条天皇(第66代)の皇后・彰子(しょうし/あきこ) … 太皇太后
三条天皇(第67代)の皇后・妍子(けんし/きよこ) … 皇太后
後一条天皇(第68代)の皇后・威子(いし/たけこ) … 皇后

 

有名な「望月の歌」が詠まれたのは、三女・威子が後一条天皇の中宮に立ったことを祝う宴の席でした。

月の宴がつなぐ、鬼滅の縁

 

この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば
今宵このときは自分の生涯で最良のときと思う 望月は欠けていることがないと思うので

 

「望月の歌」に出てくる「望月」は、陰暦十五夜(8月15日)の満月のことです。

陰陽五行では、秋(7月、8月、9月)は「木火土金水」の「金気」に配されていて、穀物が実り、結実する季節に当たります。「金気」は土から生まれる金属や鉱物を表して、象徴するものは「乾」「天」「剛」「円」「白」など。

秋のちょうど真ん中に当たる8月15日の中秋の名月は、白くて円い金気の象徴そのものです。

この季節、朝廷では月を愛で、供物を供えて詩歌管弦の遊びをする「月の宴」(つきのえん)が催されていました。

威子の中宮冊立(ちゅうぐうさくりつ)を祝う宴の席が設けられたのは、寛仁2年10月16日(1018年11月26日)のことなので、季節はちょっと合いませんが、道長は月の宴と祝いの宴を重ねて見ていたのかもしれませんね。

興味深いのは、キメツ学園に出てくる伎夫太郎の名前、「謝花」から連想できる二千円札に描かれているのも、「源氏物語」第37帖 鈴虫に出てくる「月の宴」なのです。

二千円札では見切れていますが、冷泉院の催す月の宴に招かれた源氏の君は、桐壷帝の子・蛍兵部卿宮や自身の長男・夕霧をつれています。

源氏の君の向かいに座る冷泉院は、源氏の君と藤壺との間に生まれた不義の子という秘密を持ち、容姿のよく似た二人が顔を合わせるこの場面は、「鬼滅の刃」16巻 第137話の表紙絵を思い出させます

実頼・師輔兄弟のことが描かれる「栄花物語」も、巻第一の「月の宴」の中ですから、キメツ学園の「謝花」は「月の宴」に関わるものを指す鍵ともいえそうです。

月の宴につながる、杣人の伝説

三ツ山大祭
 

「月の宴」に関わるものを指す鍵といえば、無限列車のイメージがあった射楯兵主神社(いたてひょうずじんじゃ)のお祭りにも共通するものがあります。

「三ツ山大祭」で造られる五色山(ごしきやま)を飾るのは、源頼光の大江山鬼退治です。

 
地図 愛宕街道
 

源頼光は東宮時代の三条天皇に仕えていましたが、藤原兼家に馬を献上したり、屋敷を新築した道長に新しい邸で使う家具調度類のすべてを献上したりと、摂関家とも深い関係を築いていた人物

清和天皇(第56代)の孫・源経基(みなもとのつねもと)を祖とする清和源氏の嫡流三代目でもあります。

清和天皇の母は藤原良房の娘・明子(あきらけいこ)で、清和天皇が9歳で即位すると、大臣として初めて良房が摂政に任じられ、これが藤原氏の摂関政治の始まりとなります。

地図の上でも、「死の六道」につながっているといわれる「生(しょう)の六道」(大覚寺のそば)や、炭治郎のイメージがある愛宕神社のそばに清和天皇が葬られたと伝わる水尾山陵があって、深い関わりを感じさせます。

ちなみに、清和天皇の異母兄弟の惟喬親王(これたかしんのう)も興味深い人物です。

在原業平と親しい付き合いがあり、君ケ畑、大森、大原といった山里に隠棲して、各地の杣人に轆轤で木地を加工する技術を伝えたことから、木地師の祖先と伝えられているんですね。

轆轤は下限の弐の鬼の名前(ファンブック第一弾 90頁)。無一郎のお父さんは杣人(14巻 第118話)という話があるので、興味深い伝説です。

まとめ

宇髄さんの左目の周囲には、菅原道真公を祀る亀戸天神社の神紋・梅鉢紋に似た化粧が施されています。

同じように、菅原道真公を祀る北野天満宮は、出雲大社の巫女と称する出雲阿国の拠点の一つ。慶長8年(1603年)に小屋がけした記録があり、ここで阿国歌舞伎を披露したと考えられています。

阿国を創始者とする阿国歌舞伎は、現在の歌舞伎の元祖とも言われていて、北野天満宮は歌舞伎に関わリの深い場所でもあるんですね。

ファンブックでは、煉獄さんの趣味は能や歌舞伎、相撲観戦(第一弾 50頁)となっているし、菅原道真公から師輔、道長につながる縁は重要な鍵になっていそうです。

二千円札の「月の宴」から道長に辿り着けるように、射楯兵主神社のお祭りからも道長に辿り着けるところは、ちょっとすごいですよね。

当ブログでは、「ジョジョ」から「鬼滅の刃」を考察している記事が他にもあります。よかったら、こちらも覗いてみてくださいね。

 

 

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