如何なる理由があろうとも、煉獄さんが鬼にならないわけ

炎虎のイメージ

I believe that Kyoujuro Rengoku is related to the Kyushu samurai. The Kyushu samurai were people who had a close relationship with Christians.
煉獄杏寿郎は九州武士と関係があると思います。九州武士は、キリスト教徒と密接な関係を持った人々でした。

(この記事は、7巻、8巻、15巻、20巻のネタバレを含みます)
 

煉獄さんこと煉獄杏寿郎(れんごく きょうじゅろう)は、鬼殺隊の柱の一人です。呼吸は「炎の呼吸」で、日輪刀は「燃えたぎる炎のような赤色の刃」。代々炎の呼吸を伝える煉獄家の長男で、お父さんの槇寿郎(しんじゅろう)さんも元炎柱です(第8巻 67話)

連載時も人気でしたが、「無限列車」の映画化で、さらにその人気が爆発していますよね。

ワニ先生の出身は福岡ということもあってか、煉獄さんは九州武士を感じさせる、とても興味深いキャラクターだと思います。

蒙古来襲を押し返した九州武士の活躍

九州といえば、中世のころから防人(さきもり)を配置していた防衛の最前線。その歴史の中でも最大の危機が蒙古来襲です。

文永の役(1274年)と、弘安の役(1281年)の2回に渡って脅かされたことは、学校の授業でも習う有名な出来事ですよね。

中国側の記録をもとに、当時の状況を「日本の武士団は元の集団戦法に押され気味で、火薬を使った武器に苦しめられた」と考えられることが多かったのですが、最近は国内の文献などをもとに、意外とよく戦っていたと分析する人もいるんですよ。

元の軍勢が対馬を攻撃したのは1274年10月6日のこと。この知らせはその日のうちに博多に伝わり、10月18日には九州の諸侯が博多に参集・迎撃の配置についていたのだそう。

これだけ早い対応ができたのも、文永5年(1268年)からフビライ・ハンの国書を奉じた使者が6回も訪れて事態が緊迫していたこと、文永9年(1272年)には鎮西東方の奉行として大友頼泰(おおとも よりやす)を豊後国へ下向させ、少弐資能(しょうに すけよし)が務める鎮西奉行の機能を強化して、元の驚異に備えていたことなど、鎌倉幕府も九州の武士団も早くから準備していたのは確かなようです。

文永の役では、遠浅の浜や干潟を生かした戦いを展開していたと考えられるみたいですよ。

 
参考 「赤坂・鳥飼」元寇文永の役、博多を廻る鎌倉武士団の戦い現地レポート 博多・天神の情報ポータル「ハカテン」
 

弘安の役では、この2年前に滅ぼされた南宋の軍人が軍勢に加えられていたようですが、沿岸一帯に設けられた防塁の守りや、伊予水軍の河野通有(かわの/こうの みちあり)、肥後唐津の草野次郎といった四国・九州の御家人の活躍で撃退しています。

こうした九州武士の活躍は、無限列車に乗車していた200人余りの生命を守りきった煉獄さんの活躍と重なりますよね。

九州武士とカトリック教会の関係

ところで、煉獄さんの「煉獄」って、漫画のキャラクターにしても少し変わった名前ですよね。

これはカトリック教会の教義にある”Purgatory”(パゲタリー)のことで、地獄に行くほどでもない魂が、天国に入る前に必要とされる、最後の浄化を受ける場所や状態のことをいいます。

ただこれは同じキリスト教でも、プロテスタントや正教会では認められていない考え方で、カトリックだけの教義になるようです。

そう、日本に初めてキリスト教を伝えたのは、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルですが、イエズス会はローマ・カトリック教会に所属する男子修道会の一つでした。

九州武士はキリシタン大名を多く生み出していますが、彼らに大きな影響を与えた、その教会の考え方だったんですね。

ちなみに日本の守護天使は大天使聖ミカエルとされていますが、これを定めたのもザビエルです。

薩摩の守護大名、島津貴久(しまづ たかひさ)から初めて日本での布教を許されたのが、ちょうど聖ミカエルの祝日にあたる9月29日だったみたいですよ。

ミカエルは大天使(アーク・エンジェルス)の一人で、シンボルは抜身の剣。西洋儀式魔術では、四元素は火、色は赤、方位は南を司るとされています。

どの天使に祈ればいいのかわからないときは、取りあえずミカエルに祈っておけばOKというオールマイティなところもあるようで、キリスト教の他、ユダヤ教、イスラム教にも偉大な天使として伝えられています。

ミカエルのこうした要素も、面倒見のいい煉獄さんのイメージにぴったりです(笑)

煉獄家は始まりの剣士のころから存在する名家なので、原作でもきっと関東武士に属する設定だと思うのですが、江戸以前の発達した水運事情から考えると、九州と関わりがありそうというのはそれほど無理な話でもないと思います。

関東地方の水運に関しては、こちらの記事の最後のほうにまとめているので、参考にしてみてくださいね。

 

 

九州はキリスト教伝来の地として、武士とキリスト教の関係も深かった… そう考えると、煉獄さんと猗窩座のやりとりはとても興味深い場面になってきます。

 

「素晴らしい提案をしよう。お前も鬼にならないか?」

「君と俺とでは価値基準が違う。俺は如何なる理由があろうとも鬼にならない」

 

原作では、第8巻 63話に出てくるシーンです。

このやりとりは少し唐突に見えるかもしれませんが、ミカエルが関わるエピソードの一つ、「創世記」の「アダムとイヴの生涯」が参考になります。

アダムとイヴの「失楽園」と九州武士

この物語に出てくるのは、最初の人間であるアダムとイヴです。

蛇に乗り移った悪魔にそそのかされて禁断の実を食べたため、肉体の死に支配される存在となり、神との約束を破ったことで楽園を追放されてしまうお話ですね。

有名なミルトンの失楽園では、こんな感じで話が展開していきます。

 

サタン(悪魔)は元々天使の一人で神のお気に入りでしたが、神の命ですべての権力を独占した御子(キリスト)の登場で反逆を決意。「服従ではなく自由を取り戻すために、神を打倒するべく立ち上がろう」と仲間の天使たちを誘います。

この誘いに反対したのはただ一人、アプディエルという天使で、「お前は自分自身の奴隷になっているのではないか」と指摘するのですが、サタンはかまわず反逆を起こし、神のもとに戻ったアプディエルに打ち負かされ、ミカエルに傷つけられ、さらに神に遣わされた御子によって、堕天使の軍勢もろとも地獄へ落とされてしまいます。

それでもサタンは自由の尊さをうたい、「神の寵愛を受ける人間を滅ぼすか、味方に引き入れることができれば、神への復讐になる」として実行されたのが、アダムとイヴに仕掛けられた誘惑でした。

 

でも、楽園を目指すサタンも、その後に訪れるアダムとイヴの堕落も、最初から神様にはお見通しで、「私は天使にも人間にも自由な意思を与えておいたので、正しく立つのも、落ちるのも自由である。」というのです。

「正しく立つ」のはともかく、「落ちるのも自由」。

人間や悪魔は、なかなかシビアな宿命を背負わされているようですね(汗)

こちらの論文によると、天上におけるアダムの堕落は、天上におけるサタンの堕落に対応していると考えることができるのだそう。

 
参考 Paradise Lostにおける理想的人間像 服部厚子 | CORE
 

天使ラファエルの語るアプディエルのエピソードは、サタンは「内なる地獄」に苦悩する存在で、自分の奴隷となって苦しむのは正しく理性を選び取ることをしないためだと教えてくれます。

天使ミカエルの語る人類の未来のエピソードは、うつろう時間の中での人間の存在の儚さと、人智の遠く及ばない永遠には、神の意志が貫いていることを教えてくれます。

堕落してしまったアダムはエデンに留まることはできませんが、二人の天使の教えからわかることは、神から与えられた聖なる理性を働かせ、人を導く摂理を守り、善でもって悪に打ち勝つこと、また耐えることで、サタンが「内なる地獄」に苦しみ続けるのと違い、荒野にあっても「内なる楽園」を持つことが可能になるということです。

西洋ではこうした道徳的な教えは宗教教育が担うけれど、日本では武士道が大きな役割を果たしていると語っているのが、「武士道」を著した新渡戸稲造です。

 

「みずからの道を”義の道”と呼び、「われに従えば、失われたものを見出すことができるだろう」といわれた、偉大な師イエス・キリストの言葉を、私たちは鏡を見るごとく思い出すであろう。」

「(「仁は人の良心なり、義は人の道なり」と説く孟子によると)『義』とは、人が失われた楽園を取り戻すために通らねばならない、まっすぐな狭い道のことである。」

 

九州でキリシタン大名が何人も誕生したのは、こうした考え方が似ているところで共感があったのかもしれませんね。

瑠火さんが煉獄さんに最後に伝えた教え

武士道で「義」と表現された考え方を、煉獄さんのお母さんは煉獄さんにこのように伝えています。

 

よく考えるのです
母が今から聞くことを

なぜ自分が人よりも
強く生まれたのか
わかりますか

弱き人を
助けるためです

生まれついて
人よりも多くの
才に恵まれた者は
その力を世のため人のために
使わねばなりません

天から賜りし力で
人を傷つけること
私服を肥やすことは
許されません

弱き人を助けることは
強く生まれた者の責務です
責任を持って
果たさなければならない使命なのです

 

煉獄さんのお母さんの名前は「瑠火」。「瑠」の字は、「瑠璃」(るり)とか「玻璃」(はり)といった使い方で玉の名前を表します。

瑠璃や玻璃は、仏教においては極楽浄土の素晴らしさを表現する宝、七宝に含まれる宝玉のこと。七宝は、仏教以外でも貴重で美しいものの象徴や、富の象徴、珍重すべきもののたとえとして使われる言葉です。

瑠火さんは、煉獄家に玉として伝わってきた理性や摂理を、後世に伝える役割を持った人だったのかもしれませんね。

黒死牟によると、縁壱の死後、日の呼吸の型を知る剣士は無惨と黒死牟で殺し尽くしたそうだし(第20巻 178話)、あまね様によると、鬼殺隊はこれまでも何度も壊滅させられかけたという話なので(第15巻 128話)、こういう状況下で何かを継承していくことは、とても重いものがあります。

でも、こうした教えをしっかり継承している煉獄さんだからこそ、猗窩座の「お前も鬼にならないか?」という問いに即座に「ならない」と答えることができたのでしょう。

ちなみに、杏寿郎の「杏」は、彼岸花が咲く秋分と対比する春分に花を咲かせ、6月~7月に出回る果実は陰陽五行の「火」に分類される植物です。

 
陰陽五行 方位
 

心にも名前にも炎を持った人なんですね。

それから煉獄さんの「煉」の字は、炭治郎たちに大きな影響を与えた人物としてぴったりの文字が選ばれているようです。

「角川 漢和中辞典」によると、「煉」は「焼き溶かす」語源を持つ文字からなっていて、「火でやきとかしてねる」ことから以下のような意味を展開する文字になります。

 

・金属を火に焼き溶かして精錬する
・きたえる、心をきたえる
・薬品を混ぜ合わせてこねる

 

煉獄さんによると、炎と水の剣士はどの時代でも必ず柱に入っていたそう。(第7巻 54話)

「煉獄」は家としての名前なので、代々こうした心を守り伝えてきたことを考えると、鬼殺隊としての杖柱として頼られる家柄だったことを伺わせる名前といえそうです。

この他、日本書紀や故事伝説で煉獄さんに重なるイメージがいくつかあるのですが、ファンブックに出てきた「梟」や「さつまいも」といったキーワードもヒントになっていそうです。こちらの記事もよかったら覗いてみてくださいね。

 

 

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