煉獄杏寿郎と煉獄千寿郎は、名前に花の名前があります。
Each flower has an interesting story.
それぞれの花には興味深い物語があります。
(この記事は、第4巻、第7巻、第10巻、ファンブック第一弾のネタバレを含みます)
射楯兵主神社(いたてひょうずじんじゃ)に祀られている五十猛命(イタケルノミコト)の神話には、槇寿郎さんに重なるイメージがありました。
では、煉獄さんや千寿郎くんの名前には、何か関連しそうな物語はあるのでしょうか?
射楯兵主神社の繋がりではみつからなかったのですが、煉獄さんとイメージが重なる平将門公の周辺を探してみると、該当しそうな話がありましたよ。
「杏」の歴史はかなり古い
煉獄さんの名前にある「杏」(あんず)は、バラ科の植物。原生地は中央アジアから中国を中心としたアジア東部で、日本の書物には「古今和歌集」(905年)や、「本草和名」(918年)、「和名類聚鈔」(931~938年)などに「唐桃」(からもも)の和名で掲載されていて、奈良時代に中国から渡来したと考えられています。
花言葉は「不屈の精神」「慎み深さ」です。
明治期に入ると、経済・産業を振興するための方策の一つとして、海外から新作物や新品種の導入が進められ、その中にアンズの品種もいくつか含まれています。
苗木から育てると3~4年で実をつけはじめるので、手っ取り早く導入できる植物として注目されたみたいですね。
それまでは酸味が強い品種が定番だったようですが、この頃から甘みが強くて生食もできる品種が栽培されるようになります。
杏は歴史のある植物ですが、明治期に果樹として改めてその価値が見直されたということが言えそうですね。槇寿郎さんや瑠火さんも、おいしいアンズを食べたのかな?(笑)
参考 果実・果樹情報/特産果樹/落葉果樹/アンズ | 公益財団法人中央果実協会
将門公を祀る神田明神
別記事にまとめたように、煉獄さんには平将門公の逸話と重なるイメージがありました。
平将門公を祀る神社は多数ありますが、その一つに江戸総鎮守「神田明神」があります。
神社の正式名称は神田神社で、創建は天平2年(730年)。出雲大社の祭神でもある大己貴命(オオナムチノミコト=大国主命)を祀ったのが始まりです。
将門公が合わせて祀られるようになるのは、延暦2年(1309年)になってから。将門公の没年は940年なので、それから見ると少し時代が遅いですよね。
神田明神のサイトで解説されている歴史によると、神田明神があったのは現在の将門の首塚の側で、この地には将門公を葬ったと伝わる将門塚があったのですが、その周辺では天変地異が頻発し、疫病も流行したことから「将門の祟り」と人々から恐れられていたのだそう。
武蔵国を遊行中だった真教上人(しんきょうしょうにん)が訪れたときには塚は荒れ果てていたため、「蓮阿弥陀仏」の法名を贈って将門公の霊を弔い、そばにあった天台宗寺院・日輪寺を時宗芝崎道場に改修し、さらに神田神社に将門公を奉祀(ほうし)して、二つの寺社を塚の護持とすることで災いが治まったといういきさつがあるようです。
戦国の世になると、神田明神は「勝負に勝つ」という神徳により、太田道灌や北条氏綱など戦国武将の崇敬を集め、関ヶ原の戦いでは戦勝祈願を行った徳川家康が、神田祭の日(旧暦9月15日)に勝利して天下統一を果たしたといいます。
※現在の神田祭は5月中旬
「勝負」といえば、伊之助も最初は「勝負、勝負ゥ!!」(第4巻)と騒いでましたよね。この辺、もしかして将門公の要素があったんでしょうか。
そして9月15日といえば、蛇柱・伊黒さんの誕生日ですよ(ファンブック第一弾 68頁)。これも何か関係しているのかな?
神田明神の神紋は「流れ三つ巴(ともえ)」とか「なめくじ巴」とも言って、普通の「三つ巴」に比べると、長く尾を引いた形をしています。
「巴」の字を「角川 漢和中辞典」で調べてみると、神田明神公式サイトに説明されているように、「蛇(へび)の一種の形にかたどる。その形から、うずまきの意となった」と説明されていました。
なんか、ありそうですね。
とても興味深いですけど、ともあれ、まずは「杏」を探してみましょう。
神田明神のご近所にある杏壇門
神田明神の側に湯島聖堂があるのですが、ここに「杏」の文字を名前に持つ「杏壇門」(きょうだんもん)という門があります。
「杏壇」というのは、山東省の曲阜(きょくふ)にある孔子の教授堂の遺址のこと。「曲阜」という場所は、周の時代に魯国(ろこく)の都があった場所で、儒教の創始者である孔子の故郷です。
宋の時代に行われた霊廟改築工事で、「壮子」の雑編「漁父」にある「孔子、緇帷(しりん)の林に遊び、杏壇の上に休坐す。弟子は書を読み、孔子は弦歌(げんか)して琴を鼓(こ)す」という寓話に沿って、大成殿(たいせいでん)を後方に移し、その跡に杏壇が建てられたそうで、後に門扉が設けられて「杏壇門」と呼ばれました。
こうしたことから、「杏壇」には「学問を教える所」とか「講堂」という意味があります。
参考 孔子の教育思想とその実践 王智新 | CiNii Articles
参考 史跡湯島聖堂 史跡の全容 | 湯島聖堂
「杏」に関しては、「杏園」という言葉も参考になります。
「角川 漢和中辞典」によると「唐の長安の都の西部、曲江の池のあたりにあった園。唐代、新しく進士の試験に及第したものが、宴を賜って多くここに遊んだので有名」と説明されています。
※曲江(きょくこう)
学問を修める人にとって、「杏」は最終目標を象徴する花だったみたいですね。
そして、孔子の思想を体系化したものが儒学です。
孔子の現行記録である「論語」が日本に伝わったのは4~5世紀ごろ。仏教の伝来は6世紀半ばなので、仏教よりずっと早く日本に伝わっているんですね。
儒教の教えには「仁」「義」「礼」「智」「信」の「五常」がありますが、中でも最高の徳目とされるのが「仁」で、「人を愛すること、他者への思いやり」を意味します。
「義」は利や欲にとらわれず、世のため人のために行動すること。「礼」は相手に敬意を払って接することを意味します。
「智」は偏らず幅広い知識や智恵を得て道理をわきまえ、善悪を判断すること。「信」は人を欺かず、また人から信頼されるよう常に誠実であることを意味します。
人がそれぞれ五常を体現することで、社会に秩序が保たれると考えるのが儒教という学問で、最高の人格者であり目指すべき尊い存在として「聖人」があります。
これ、どこか煉獄さんの言動に通じるものがありますよね。
ザビエルも知ってるアカデミー
湯島聖堂は、五代将軍綱吉により、上野忍ヶ岡にあった儒学者・林羅山(はやしらざん)の邸内にあった孔子廟を移して官学の府としたのが始まりです。
かつては「昌平坂学問所」(しょうへいざかがくもんじょ)と呼ばれていました。
「昌平」というのは、孔子誕生の地である魯国(ろこく)の昌平郷からきています。
江戸時代は儒教から発展した朱子学が幕府公認の官学だったため、各地の藩校にも孔子廟が建設されるのですが、栃木県足利市にある「足利学校」はもっと古くからある孔子廟です。
創建はいくつも説があってはっきりしないようですが、天文18年(1549年)にはフランシスコ・ザビエルも「日本国中で最も大にして最も有名な坂東のアカデミー(大学)」と西洋に紹介しているそうですよ。
別記事にまとめていますが、フランシスコ・ザビエルも煉獄さんと重なるイメージのある人物でした。
「学徒三千」と称されるほど発展した足利学校ですが、戦国時代末期になると、庇護していた小田原北条氏(後北条氏)が豊臣秀吉の小田原征伐(天正18年、1590年)で降伏したことから、足利学校も所領を没収されるなどの大きな打撃を受けてしまいます。
この復興に力を貸したのが徳川家康でした。
徳川家といえば、葵祭を再興する際にも大きな力となっています。葵祭は炭治郎のお母さんの葵枝さんとイメージが重なるお祭りでした。
足利学校と葵祭、どちらも徳川家とのつながりに共通するところがあって興味深いです。
ともあれ、煉獄さんの名前の「杏」の字には、学問(儒教)としての「杏」のイメージがありそうですね。
将門公の時代を知るサルスベリの花粉
そして千寿郎くんの名前にある「千」の字も、将門公の周辺を探してみると「千日花」(せんにちばな)という植物がありました。別名サルスベリです。
サルスベリの別名は、「百日紅」(ひゃくじつこう)が有名ですよね。開花時期が7月~9月ごろと100日以上咲き続けることに由来する名前ですが、「千日花」も同じ意味で、長い期間、花が楽しめるところからつけられています。
サルスベリはミソハギ科の落葉高木で、原産は中国南部。木の皮は剥げ落ちて木肌がすべすべしているので、猿でも滑り落ちるということでサルスベリと呼ばれています。
花言葉は、「雄弁」「あなたを信じる」です。
千寿郎くんはあまり「雄弁」なイメージはありませんが、煉獄さんの夢の中で「お前には兄がいる、兄は弟を信じている」と声を掛けられて抱き合っていた姿が重なりそうです。(第7巻 55話)
平将門とサルスベリ
2010年5月25日のことですが、平等院鳳凰堂の阿字池(あじがいけ)に堆積した940年ごろの地層から、平安時代のサルスベリの花粉が検出されたというニュースがありました。
それまでのサルスベリの最古の記録は、京都・醍醐寺の僧侶が1604年に記した、「境内にサルスベリを植えた」という日記です。
このため、サルスベリの渡来も「江戸時代初期」と考えられていたのですが、花粉の発見で奈良時代ごろに日本に入ってきたと考えることができるようです。
将門の乱が発生したのは939年、将門没年は940年なので、阿字池で見つかった花粉は、年代的にも関東の動乱を知っている花ということになりそうですね。
平等院の歴史を振り返ってみると、嵯峨天皇の第十二皇子である源融(みなもとのとおる)(822~895年)が859年に造営した別業(べつぎょう=別邸)がはじまりでした。
源融といえば、「源氏物語」の光源氏のモデルとも言われている人物です。
笑う千寿郎とサルスベリ
そして、このサルスベリという木は別名が多いようで、九州の一部では「くすぐりの木」とも呼ばれています。
理由は、「幹をこすると、くすぐられたように枝葉が揺れる」とされているから。
実際はそんなに揺れることはないみたいですが、この俗称は意外と古くから、それも各地にあるようです。こんな感じ。
こちょこちょの木 (新潟、島根、熊本など)
こそぐりの木 (宮崎、熊本、福岡)
笑木(わらいのき) 「花譜」貝原益軒(1694年)
擽木(くすぐりのき) 「花譜」貝原益軒(1694年)など
参考 百日紅(さるすべり)の別名を九州では「くすぐり」というそうだが、なぜか。 | レファレンス協同データベース
「鬼滅の刃」では第10巻 81話末のイラストで、炭治郎と文通しているという千寿郎くんが、手紙に顔をうずめて笑っている様子が描かれているのですが…
これ、サルスベリが枝葉を揺らして笑ってる姿に、重なって見えてきませんか?
サルスベリも、杏も、大体同じ奈良時代に中国から渡来したと考えられるわけなので、この点でも煉獄兄弟にぴったりな植物といえそうです。
そしてサルスベリの花粉が見つかった平等院は、源頼光らが討ち取った酒呑童子の首級が宝蔵に収められているという伝説があります。(逸翁美術館蔵の「大江山酒天童子絵巻」)
さらには、9人の柱と12鬼月につながる鍵も隠れているみたいですよ。
別記事にまとめているので、よかったらこちらも覗いてみてくださいね。煉獄さんに重ねられたイメージについて、さらに考察してみた記事もあります。