隅田川から日本の古典を見ると、「鬼滅の刃」に重なるジャンルがあります。「隅田川物」と呼ばれる人気の作品群です。
The motif is based on a sad legend from the Mokuboji Temple on the upper reaches of the Sumida River.
隅田川上流の木母寺に伝わる、悲しい伝説がモチーフになっています。
(この記事は、1巻、2巻、6巻、8巻、9巻、10巻、11巻、16巻、20巻、ファンブック第一弾、ファンブック第二弾のネタバレを含みます)
回向院には、煉獄さんの趣味の「相撲」と「歌舞伎」のイメージがありました。(ファンブック第一弾 50頁)では、煉獄さんのもう一つの趣味、「能」に関わる場所も、どこかにあるのでしょうか?
地図を見てみると、隅田川の上流に木母寺(もくぼじ)というお寺があります。
ここには梅若丸という稚児と、その母・花御前の悲しい伝説があり、能「隅田川」の題材となっています。
梅若丸の名前には宇髄さんの目の模様と同じ「梅」という字があるし、煉獄さんの趣味にも重なりそうですよ。
木母寺に伝わる梅若伝説
文禄3年(1594年)に「大橋」(千住大橋)が架けられて千住宿ができる以前のこと、奥州街道は日本橋から蔵前浅草田圃(くらまえ あさくさたんぼ)を通って橋場の渡し(真先稲荷神社の辺りから隅田川神社の辺り)を渡っていました。
上の図は、この辺かな? という所をオレンジの線で辿ってみました。
隅田川河岸には「隅田宿」という、今は消えてしまった宿場町があったといい、梅若伝説はここを舞台に成立したと考えられています。
二人が近江国坂本の日吉山王(ひえさんのう)(現 日吉大社)に祈願したところ、夫婦の枕元に山王権現が子供の姿で現れ、次のように告げました。
汝らは過去の悪業の報いにより、この世で子種はない。しかし、あまりにも真心を込めて祈るので、私が生まれ変わって二人の子供になろう。
二人はまもなく男の子を授かり、春を待つ梅の枝にめでたげに咲いた一輪の花のようだということで、梅若丸と名付けます。ところが梅若丸が5歳のときに、吉田少将は病で亡くなってしまうのでした。
花御前は梅若丸の将来を案じていましたが、7歳のときに比叡山・月林寺(がちりんじ)の阿闍梨のもとへ預けられることになり、家来の中山次郎よしひろと共に比叡山に入ります。
容姿端麗で学問にも秀で、詩歌音曲に至るまで優れた才能を発揮する梅若丸は、これ以上はない稚児として称賛を集めました。
しかし比叡山の僧房の一つに東門院(とうもんいん)という寺があり、こちらには松若丸という稚児がいました。
周囲から何かと引き比べられる東門院の山僧(さんそう)たちは梅若丸を妬み、月林寺に闇討ちを仕掛けます。2月も二十日すぎの寒い季節の事でした。
混乱の中、中山次郎よしひろは、月林寺から梅若丸を逃がすことはできたのですが、梅若丸の父の形見の品である笛やお守りを探しに戻ったため、東門院の山僧たちに見つかって討たれてしまいます。
暗く厳しい寒さの中を足の血で雪を赤く染めながら、梅若丸は山を降り、大津の浜まで辿り着きます。そこに偶然に通りかかったのは、奥州の人買商人・信夫藤太(しのぶのとうた)でした。梅若丸は信夫藤太に欺かれ、東国へ連れ去られてしまいます。
奥州へ向かう途中、慣れない長旅に疲れきった梅若丸は病にかかり、隅田川のほとりで動けなくなってしまうのですが、信夫藤太はそんな梅若丸を見捨てて逃げてしまうのでした。
この様子を見ていた里人たちは、梅若丸を哀れんで手厚く介抱してやります。夜になると不思議なことに、どこからか二匹の猿が現れて、梅若丸に付き添っています。
しかし介抱の甲斐もなく、梅若丸は息をひきとってしまいます。
このとき、自分の名前や父母のこと、人買いにかどわかされてここまで連れてこられた事情などを話し、「ここは都の人も往来する東海道の道筋で、もしかすると自分のことを尋ねてくれる者がいるかもしれないので、亡骸を道の傍らに埋めて、墓標として柳を植えて欲しい」と遺言をし、和歌を残すのでした。
尋ね来て 問はば応へよ都鳥 隅田川原の露と消へぬと
探しに来て 問われたら答えておくれ都鳥 隅田川原の露のように消えてしまったと
このとき梅若丸12歳。貞元元年(976年)3月15日のことだったといいます。
そして、たまたま通りかかった天台宗の僧侶・忠円阿閣梨(ちゅうえんあじゃり)が梅若丸を哀れに思い、里人とともに塚を築き、柳を植えて手厚く葬ってやりました。
狂女に身をやつした花御前が、我が子の行方を尋ねて隅田川のほとりに辿り着いたのは、梅若丸の一周忌に当たる翌年3月15日でした。隅田川の渡し守から我が子の末路を知らされて、花御前も供養のために夜通しの大念仏に加わります。
夜も更け、川風が吹き始めた頃、塚の中から花御前や里人たちに合わせて念仏を唱える幼い声が伝わってきます。月の光の中に幻のように現れたのは梅若丸でした。
しかし母と子は抱き合うこともできないまま、朝日に消える露とともに梅若丸の姿も消えてしまいます。
この話を聞いた忠円阿闍梨は、梅若丸を弔う草堂を築きました。
花御前はそこに住み着いて梅若丸の菩提を弔っていたのですが、夫と子供のもとへ行きたいという思いは強くなるばかり。次のような和歌を残して、とうとう浅茅が原(あさじがはら)(現 東京都台東区橋場付近)にあった底なしの池に身を投げてしまうのでした。
かくばかり わがおもかげは かはりけり あさぢが池の 水かがみ見て
これほどに 私の面差しは 変わってしまった 浅茅が原の 水鏡を見て気付かされる
入水から3日後、不思議なことに、美しい色をした大きな亀が、花御前の亡骸を乗せて浮かび上がってきました。忠円阿闍梨はそこに墓を建て、妙亀大明神として祀り、梅若丸は山王権現として人々から篤い信仰を受けるのでした。
梅若権現の託宣によると、もし人が梅若権現に祈れば、必ず叶えられる7つの誓願があるといいます。
一つ、戦いにおける良い運が続くこと
二つ、人に愛され、敬(けい)せられること
三つ、福徳と知恵が得られること
四つ、子供に恵まれること
五つ、病気が治ること
六つ、結婚が成就すること
七つ、災難を免れること
山王権現は大山咋神(オオヤマクイノカミ)ともいわれる山の神格を持つ神様で、「古事記」では須佐之男神(スサノオノミコト)の御子である大年神(オオトシノカミ)の御子と伝えています。
最初に座したとされる日吉大社の神使は猿。次に座したとされる松尾大社の神使は鯉と亀です。
神仏が人に乗り移ったり、夢の中に現れたりして、お告げをすること。
仏や菩薩が一切の衆生の苦しみを救おうと誓いを立てて、その成就を願うこと。
梅若丸の供養のために梅若塚のそばに建てられた草堂が、今の木母寺の前身と言われています。
木母寺は昭和になってから、東京防災拠点建設事業の影響で現在の場所に移転しましたが、その前は榎本武揚像の辺りにあったといいます。
そもそも榎本武揚像がどうしてこの地にあるのかというと、晩年は向島に隠棲していたためで、隅田川沿いを木母寺までよく馬で散歩していたといいます。その関係で大正2年5月に木母寺の境内に銅像が建立されました。
「鬼滅の刃 煉獄杏寿郎外伝」で新選組に関わる鬼が登場したのは、箱館戦争で共に戦った榎本武揚のご縁だったのかもしれませんね。
参考 すみだゆかりの人物を紹介します(榎本武揚、中浜万次郎) | 墨田区立図書館
絵巻「梅若権現御縁起」と鬼滅の刃
梅若伝説は人気の題材で、これまでも、読み物、謡曲、浄瑠璃、能、歌舞伎と、様々な文芸で表現されてきました。こうした作品群を「隅田川物」といいます。
そんな隅田川物を詳しく見ていくと、「鬼滅の刃」と共通するところが見つかります。
例えば木母寺に伝わる絵巻物「梅若権現縁起」(江戸時代)では、こんな感じ。
・「過去の悪業の報いにより、この世で子種はない」と山王権現の 夢告がある。
⇒産屋敷家の子どもたちは皆、早逝してしまう(第16巻 137話)
・主人公をかばって亡くなる侍がいる
⇒無限列車の煉獄さん(第8巻 63話、64話、65話、66話)
・主人公が雪の積もった山を降りてくる
⇒禰豆子を背負って雪山を降りてくる炭治郎(第1巻 1話)
・水鏡に映る、面変わりした自分の様子を見て悟り、最期を迎える
⇒無限城の黒死牟(第20巻 176話)
など
この他にも、ファンブック第二弾の「柱相関言行録」では、無一郎くんの天元評は「猿みたい」(113頁)だったし、ときと屋の売れっ子の鯉夏花魁(第9巻 71話)は、名前に「鯉」の字が入っています。亀の甲は「六」を表す代表的なモチーフで、「鬼滅の刃」では義勇さんの羽織をはじめとして、「6」の数字に関わるものが象徴的に描かれています。
歌舞伎「桜姫東文章」と鬼滅の刃
そして隅田川物の一つ、歌舞伎「桜姫東文章」(さくらひめ あずまぶんしょう)では、こんな場面がつながりそうです。
⇒無惨様とお館様(第16巻 137話表紙、137話末イラスト)
・梅若丸と松若丸は双子の設定
⇒緑壱と厳勝(第20巻 174話)
・桜姫は権助のことが忘れられず、権助が腕に入れていた釣り鐘の彫り物(入痣)を自分の腕にも入れる。自分の思いを権助に伝えるきっかけにはなったが、権助に女郎屋へ売られた後は、腕の入れ墨が風鈴に見えること、そして武家の高貴な言葉が残ることから、「風鈴のお姫」と呼ばれ、人気女郎になる。
⇒鋼鐵塚さんの編笠につけられた風鈴(第2巻 9話、第6巻 51話)
⇒もしかすると、鬼や痣者の痣に重なっていたりするかも(第10巻 83話、第11巻 94話)
⇒源氏名に平家の姫君・蕨姫の名前を持つ蕨姫花魁(第9巻 72話、73話)
・清玄がお金を持っていると勘違いした長浦と清玄の弟子・残月は、青蜥蜴の毒を盛って清玄を殺害しようとする。毒が顔にもかかったため、清玄の顔半分が気味悪く変色してしまう。また、桜姫を女郎屋へ売った権助にも、清玄と同じような痣が現れるというホラーな演出もある。
⇒お館様(第6巻 46話)
参考 隅田川物の中の『都鳥妻恋笛』 ─其磧時代物小考─ 佐伯孝弘 | 佛教大学論文目録リポジトリ
参考 「桜姫東文章」 さくらひめ あずまぶんしょう | 歌舞伎見物のお供
もとは古代中国の墨刑(ぼっけい)の一種で、小さな刺青のことを入墨子、入痣といったようです。
日本では山岳信仰などの宗教や、海で働く人々、戦国時代の雑兵などで、呪術的なものとして刺青を入れる文化が大化(645年~650年)以前からありました。
寛永の頃(1624年~1644年)になると、遊女が命懸けの証として好きな客の名前を腕に彫るようになるのですが、これを入痣(いれぼくろ)と読んでいました。
古書肆 l’archiviste (らるしびすと)さん(@hrtcn)によると、遊女だけでなく、男性も馴染みの女の紋所を彫ったりしたのだそう。そして入痣には、籠字(かごじ)というものが使われることもあったそうです。
籠字というのは文字を書く練習の一つで、お手本の文字の上に半紙を置き、半紙にお手本の輪郭を写し取って、その上から文字を書くことをいいます。
こうすることで、筆圧や筆間の角度、運筆のリズムを初心者でも体験することができます。
また、この方法を使えば、相手の男性の文字のクセをそのまま彫り物に取り入れることができるわけですね。
義勇さんの羽織には「籠目紋」が隠れていたし、彫り物にも「籠」の字を含む手法があるのは、興味深いですよね。
隅田川物は数多くあるので、探してみると他にも重なるものがあるかもしれません。「鬼滅の刃」は現代の隅田川物と言っていいのかもしれませんね。
梅若伝説から伊勢物語、そしてつながる鬼の伝説
こうした梅若伝説を題材とする作品の中で、もっとも古いものに観世十郎元雅(かんぜじゅろうもとまさ)・作の能「隅田川」(室町時代)があります。
能の「隅田川」では、梅若丸の母親・狂女の花子が、我が子を探して隅田川にたどり着いたところから始まります。
渡し舟に乗ろうとするのですが、渡し守は「おもしろう狂うて見せ候へ」と意地悪を言って乗せてくれません。
花子は「隅田川の渡し守ならば『はや舟にのれ、日くれぬ』(早く舟に乗れ、日が暮れる)と言うはずなのに、舟に乗るなとは隅田川の渡し守とも思えない言葉だ」と、なじります。
狂女・花子が引き合いに出したのは、「伊勢物語」(平安時代)の第九段「都鳥(みやこどり)」に出てくる渡し守のセリフです。
都から遠く離れた隅田川までやって来た主人公の一行は、見慣れない鳥を見かけて渡し守に問うたところ、「これなむ都鳥」(これが都鳥だよ)というぶっきらぼうな返事が返ってきます。
気持ちも沈みがちだった一行は、このことで望郷の思いを一層強くして、こんな歌を詠むのです。
(都という)名がついているならば ぜひ尋ねてみたいものだ都鳥よ 私の愛する人は まだ生きているのか、それとももうこの世にはいないのかと
「在原業平が都の妻のことを思って詠ったように、子を尋ねて歩く自分も思いは同じだ」と花子は嘆くのです。
「伊勢物語」の主人公は匿名で、「昔男」(昔、男ありけり)としか出てきませんが、古くから在原業平がモデルになっていると考えられていました。
伊勢物語に出てくる鬼
でも、ここで能の「隅田川」が「伊勢物語」につながるのは興味深いですよね。「伊勢物語」の第六段「芥川」には、鬼が出てくるのです。
昔、男がいました。(身分が違いすぎて)妻にできそうになかった女に求婚し続けてきたのですが、やっとのことで(女を)盗み出して、とても暗い中をやって来ました。
芥川(あくたがは)といふ河を率ていきければ、草の上にをきたりける露を、「かれは何ぞ」となんおとこに問ひける。
芥川という川をつれて歩いていると、(女は)草の上におリた露を「あれは何かしら」と男に問うのでした。
ゆくさき多く夜もふけにければ、鬼ある所とも知らで、神さへいといみじう鳴り、雨もいたう降りければ、あばらなる蔵に、女をば奥にをし入れて、おとこ、弓胡(ゆみやなぐひ)を負ひて戸口に居り、はや夜も明けなんと思つゝゐたりけるに、鬼はや一口に食ひてけり。
行く先は遠く、夜も更けてしまったので、鬼がいる所とも知らずに、雷までもが恐ろしく鳴って雨もひどく降っていたので、荒れて隙間だらけになっている蔵に、女を奥に押し入れて、男は弓胡を背負って戸口におりました。「早く夜が明けてくれないか」と思いつついたところ、鬼は早くも(女を)一口に食べてしまっていたのでした。
「あなや」といひけれど、神鳴るさはぎにえ聞かざりけり。やうやう夜も明けゆくに、見れば、率て来し女もなし。足ずりをして泣けどもかひなし。
(女は驚いて)「あれよ」と言ったけれど、騒々しいほどの雷に(女の声は)聞こえなかったといいます。しだいに夜も明けていくので、(男は女を)見たところ、つれてきた女はおらず、地団駄を踏んで声を上げ涙を流すけれども無駄でした。
しらたまか なにぞとひとの とひしとき つゆとこたへて けなましものを
(あれは)真珠か何か? と(いとしい)人が尋ねたときに、露だよと答えて、いっそ(私も)消えてしまえばよかったのに
これは、二条の后のいとこの女御の御もとに、仕うまつるやうにてゐたまへりけるを、かたちのいとめでたくおはしければ、盗みて負ひて出でたりけるを、御兄人(おほんせうと)堀河の大臣(ほりかはのおとど)、太郎国経(たらうくにつね)の大納言、まだ下らう(げらふ)にて内(うち)へまいりたまふに、いみじう泣く人あるを聞きつけて、とゞめてとりかへしたまうてけり。
これは、二条の后が、従姉妹である女御の御所に出仕するという形でおられた時に、容姿がとても美しくいらっしゃったので、(男が)盗んで背負って出てきたのを、御兄の堀川の大臣と長男の国経の大納言(の御二人)が、まだ官位が低い頃でしたが宮中に参内されておられて、甚だしく泣く人がいるのを聞きつけて、引き止めて取り返しなさったのでした。
それを、かく鬼とはいふなりけり。まだいと若うて、后のたゞにおはしける時とや。
それをこのように、鬼(の仕業)といったのでした。まだとても若く、后が普通の身分でいらっしゃるときのことだといいます。
「芥川」では、話の流れで鬼が出てきますが、それは、もののたとえで、本当はさらった女性を取り戻されて悔しがっているだけなんですよと種明かしをして話は終わります。
でも、これと似たような話が「今昔物語集」(平安時代末期)巻第二十七第七にもあり、展開が少し変わっています。
主人公はずばり、在原業平です。
今昔物語集に出てくる鬼
「今昔物語集」では、愛しい女性を盗み出したものの、やはり隠れる場所もなかったため、思い悩んだ末に北山科の辺りにある、荒れた古い山荘で一夜を過ごすことになります。
北山科の付近に荒れ果てて人も住まなくなった古い山荘があり、その家の内に大きな校倉がありました。
片戸(かたど)は倒れてなむ有ける。屋は板敷の板も無くて、立寄べき様も無かりければ、此の倉の内に畳一枚を具(ぐ)して、此の女を具して将行て(いいて)臥せたりける程に、俄(にはか)に雷電霹靂(らいでんへきれき)して喤(ののしり)ければ、中将、太刀を抜て、女をば後の方に押遣(おしやり)て、起居(おきゐ)てひらめかしける程に、雷も漸(やうや)く鳴止にければ、夜も曙ぬ。
(開き戸の)片方の戸は倒れていました。家は板張りの所にも板はなく、近寄れそうな様子もないので、この倉の中に畳一枚を持ち込んで、この女と一緒に寝ていたところ、突然、かみなりといなずまが激しく鳴り響くので、中将は太刀を抜いて、女を後ろの方に押し遣って、起き上がり、その場に座って(太刀を)きらめかせているうちに、雷もしだいしだいに鳴り止んで夜も明けました。
而る間(しかるあいだ)、女、音為ざりければ、中将、怪むで見返(みかえり)て見るに、女の頭の限と着たりける衣共と許(がり)残たり。中将、奇異(あさまし)く怖しくて、着物をも取敢へず、逃て去(い)にけり。
そうする間に、女は物音もさせずにいたので、中将は変なことだと思って振り返って見たところ、女の頭ばかりが着ていた服などとともに残っているのでした。中将は驚き恐ろしくなり、着物さえ整える間もなく逃げ去ったといいます。
其れより後なむ、此の倉は人取り為る倉とは知ける。然れば(されば)、雷電霹靂には非ずして、倉に住ける鬼のしけるにや有けむ。
それから後、この倉は人を捕えて食べる倉と知られるようになったのでした。そうであれば、かみなりといなずまが激しく鳴り響いていたのではなくて、倉に住んでいた鬼の仕業であったのでしょうか。
然れば、案内知らざらむ所には、努々(ゆめゆめ)立寄るまじき也(なり)。況や(いわむや)宿(やどり)せむ事は思懸(おもひか)くべからずとなむ語り伝へたるとや。
そうであるから、事情がわからない場所には、決して近寄ってはなりません。ましてや旅先で宿泊しようとするなど心に留めてはならないと語り伝えているとかいうことです。
参考 「今昔物語集 巻第27 本朝 霊鬼 7話 在原業平中将女被噉鬼語」
「伊勢物語」と同じく姿を見せない鬼ですが、「今昔物語集」では疑いようもなく食べています。それも、このまま「鬼滅の刃」の一場面に出てきても違和感ないですよね。
「鬼滅の刃」では、鬼は再生能力が高く、普通では死なない生き物として登場しますが、その他の特徴は、意外と古典に出てくる鬼を忠実に表現しているのかもしれません。
宇髄さんに重なる、在原業平
このように木母寺を見ていくと、「梅若伝説」と「伊勢物語」、そして「今昔物語集」へと繋がっていくのですが、これは偶然でしょうか?
調べていくと、どうも偶然ではなさそうです。
例えば「大鏡」(平安時代後期)には、在原業平に関して興味深い逸話が出てきます。当時、侍従を務めていた後の宇多天皇と相撲をとって、清涼殿の殿上の間にある御倚子(おいし)の高欄を折ってしまったというんですね。
宇多天皇は菅原道真を重用し、「寛平の治」と呼ばれる政治改革を行なっています。菅原道真は、天神信仰の祭神として祀られている人物です。
ということは、宇多天皇は、左目の化粧に天神さまのイメージが重なる宇髄さんにつながっていく人物と言えそうです。
「日本三代実録」(平安時代)によると、在原業平は「体貌閑麗、放縦不拘、略無才学、善作倭歌」(姿も顔も麗しく、気ままで束縛されず、出世のための漢文の才はほぼなかったが、和歌の名人であった)と評されていました。
義勇さんの天元評「自由な感じが少し羨ましい」や、甘露寺さんの天元評「大人の色気が凄い! 言動が十歳くらいの子供みたいな時もあって面白い人!」にも重なってきそうです。(ファンブック第二弾111頁、 114頁)
在原業平の父・阿保親王(あぼしんのう)は、平城天皇(へいぜいてんのう)の第一皇子。母・伊都内親王(いとないしんのう)は、桓武天皇の第八皇女といい、かなりすごい血筋の人物です。
忍びの家系の宇髄姉弟は、一族の衰退に危機感を募らせる父親から蠱毒(こどく)を実践するかのような殺し合いを課せられたといい、宇髄さんはそのときの体験がその後も暗く影を落としているという人物でした。(第10巻 87話、ファンブック第二弾 89頁)
壺などに虫や蛇などを閉じ込めて殺し合いをさせ、最後に残った1匹を呪詛につかうという古代中国の呪術。
伊黒さんの天元評にも「自分の血筋に不快感を持ち…」(ファンブック第二弾 114頁)と血筋を強調した表現があるので、在原業平とどこか重なるところがありそうですね。
在原業平に関しては長くなるので、別記事にまとめています。よかったら、こちらも続けて覗いてみてくださいね。