冨岡義勇のことは官兵衛に聞け、射楯兵主神社からつながる糸

黒田官兵衛のイメージ

The footprints of the Kuroda family also seem to hide hints of Demon Slayer.
黒田家の足跡にも、「鬼滅の刃」のヒントが隠れていそうです。

Fukuoka Prefecture was a domain ruled by the Kuroda family. Some of the shrine in Fukuoka has an image that overlaps with that of Yoshio Tomioka.
福岡は黒田家が治めていた藩です。福岡の神社の中には、冨岡義勇と重なるイメージがあります。

(この記事は、1巻、5巻、15巻、ファンブック第一弾のネタバレを含みます)

煉獄さんのミミズクのイメージと重なる射楯兵主神社ですが、この神社は代々の姫路城城主の崇敬を受けてきた古社という顔を持っています。

姫路城の前身となる姫山城の時代には、城代を務めていた戦国武将の黒田官兵衛とも縁があるみたいですよ。

城代
城主の代わりに城を守り、政務を代行する人。城代家老の略。

黒田家の動きに注目すると、興味深いことに、もう一人の柱のイメージと重なる「鷲尾愛宕神社」へとつながっていくんですよね。その人物は、水柱の義勇さんです。

まずは黒田家と射楯兵主神社の関係をおさらい

黒田家は播磨の守護大名・赤松氏一門の小寺家に仕え、官兵衛の祖父の代から姫山城の城代を務めていました。

官兵衛が家督を継いだのは永禄10年(1567年)。この年、官兵衛の父 職隆(もとたか)は、射楯兵主神社の拝殿と神門を修築しています。

御家人と呼ばれる時代から、武家は社寺に寄進することで天下安泰と家門の繁栄を祈ってきました。黒田家も世代が変わることをきっかけに、次の時代がさらに繁栄することを祈っていたのかもしれませんね。

そして官兵衛の名を世に知らしめたのが、赤松家の内紛から発生した青山・土器山(あおやま・かわらけやま)の戦い(永禄12年、1569年)です。

3000の赤松政秀(あかまつまさひで)の軍勢を相手に、わずか300の手勢で奇襲攻撃を繰り返して姫山城を守り抜くのですが、土器山の戦いでは逆に奇襲攻撃を受けたことでその犠牲も大きく、父 職隆の実弟 井手友氏(いでともうじ)や、古株の母里小兵衛(もりこへえ)、幼い頃から官兵衛に従っていた母里武兵衛など200名以上が討ち死にしてしまいます。

「黒田家譜」(貝原益軒、17~18世紀)には、官兵衛のことを評して「知謀をもって敵城を降参せしめ和議を調え、人を殺さずして勝事を好みたまう」と書かれています。また、ルイス・フロイスの「日本史」(1926年~1938年)によると、官兵衛は天正11年~12年ごろに改宗してキリシタン大名になっていたようですが、こうした境地に至ったのは、壮絶な戦を経験してきたことが大きかったのかもしれませんね。

「人は殺さず活かしてつかえ」というスタンスは、鬼になってしまった禰豆子を斬らなかった義勇さんの姿にも重なりそうです。(第1巻 1話)

天正4年(1575年)、官兵衛は仕えていた小寺政職(こでらまさもと)とともに織田信長に臣従。天正5年(1576年)には、信長の命により播磨へ進駐する秀吉に、中国遠征の拠点として姫山城の献上を申し出ます。

姫山城が姫路城と名前を改めるのは、天正9年(1581年)に行われた、秀吉による大築城の後のこと。姫路城築城に伴って、射楯兵主神社は現在の場所に遷移します。

大名の列に加わった官兵衛は、天正8年(1580年)に秀吉の命により黒田家の旗幟(きし)を定め、職隆とともに射楯兵主神社に7日間参詣して軍旗の祈祷を受けるのですが、これは遷移する直前の話になるみたいですね。

この旗幟を掲げた戦で官兵衛が一度も負けなしだったのは、射楯兵主神社の加護のおかげといわれているそうですよ。

秀吉に城を献上してから5年ほど間が空いていますが、これは天正6年(1578年)~天正7年(1579年)の間、毛利方に寝返った荒木村重(あらきむらしげ)により土牢に幽閉されてしまったことが影響しているのかもしれません。官兵衛の働きで信長方についた播磨の諸大名が、いつの間にか反信長にひっくり返るという危機的な局面があったのです。

このとき幽閉中の官兵衛が、牢の窓から見える藤の花に励まされた話は有名です。

炭治郎のイメージが重なる愛宕神社は、藤の花に縁のある和気清麻呂(わけのきよまろ)が関わっていましたが、官兵衛も藤の花に縁のある人物なんですね。

このように、煉獄さんのイメージと重なる射楯兵主神社とがっつり絡む黒田家は、九州平定を目指す秀吉とともに九州へ向かいます。

刀剣の地から福岡へ、黒田家がつなぐ糸

九州が平定されると、黒田家は豊前国(福岡県東部から大分県北部)を賜り、秀吉の命により博多(現 福岡市)の復興を手掛けることになります。

さらに関ケ原の合戦後では筑前国を所領として賜り、官兵衛の子 黒田長政(くろだながまさ)が筑前国福崎に新城を築城。「黒田家譜」によると、このとき地名を「福岡」と命名したのは、黒田家発祥の地である備前国邑久郡福岡(びぜんのくに おくぐん ふくおか)にちなんでのことといいます。

参考 九州の福岡の地名の由来は,岡山県の備前福岡と関係があるか。 | レファレンス協同データベース

振り返ってみると、黒田家が播磨に出てきたのは祖父 重隆(しげたか)の時代。詳細は不明ですが、それ以前は近江国伊香郡黒田村(現 滋賀県北部)の豪族とも言われています。

近江といえば、三ツ山大祭の小袖山に飾られていた「俵藤太の百足退治」が伝わる伝説の地です。そして「福岡」は、この後で見ていくように、義勇さんに関連するイメージが重なる場所になるようです。

ちなみに中世の備前福岡(現 瀬戸内市)は、人や物資が集まる山陽随一の商都でした。

市内の備前福岡と長船(おさふね)を含めた一帯は、鎌倉時代から刀剣の生産地としても全国的に有名で、福岡一文字派や長船派といった刀工集団から何人も名工を輩出しています。

ただ、天正18年(1590年)の吉井川の氾濫で大きな被害を受け、生き残った刀工たちも離散して備前鍛冶は衰退してしまいます。

刀工といえば、鍛治の技術を使って日本刀をつくる職人のこと。黒田家発祥の地となる備前福岡は、る刀鍛冶の里の人たちの姿とも重なりそうです。

イメージが重なると言えば、官兵衛は「吾妻鏡」とも奇妙なご縁がありました。

秀吉の天下統一の決め手になったのは、小田原征伐における北条氏政・氏直親子の降伏で、無血開城させることに成功したことでした。このとき和議を成立させるために貢献したのが官兵衛です。

残念ながら和議が成立する前に、当主の氏直が徳川家康を頼って城を出てしまったため、和議はなし崩しになってしまったのですが、丸腰で説得に向かった官兵衛を秀吉も絶賛しています。

この交渉は官兵衛の力が大いに発揮された一件ですが、口下手の義勇さんとは真逆ですよね(笑)

このとき、秀吉との仲介にたった官兵衛に対して、和議の報恩のしるしとして、北条家から宝刀「日光一文字」などとともに、歴史書として「東鑑」(吾妻鏡)が贈られています。

「吾妻鏡」といえば、射楯兵主神社の三ツ山大祭にも出てきましたよね。二色山の飾り付けが、「吾妻鏡」に出てくる仁田四郎忠常の富士猪退治でした。

北条氏から贈られた「東鑑」は、後に黒田長政から徳川秀忠へ献上され、徳川家の所蔵本と合わせて編纂されて、「吾妻鑑(北条本)」として現在は「国立公文書館」の所蔵となっています。

福岡の地と重なる冨岡義勇の姿

義勇さんに重ねられた福岡のイメージは、例えば藤襲山の最終選別を受ける前に、鱗滝さんから渡される狐面にも見ることができます。義勇さんのお面には、目の上に眉毛のように見える模様が表現されていました。(第15巻 131話)

でも、炭治郎をはじめ、他のお面に眉毛はありません(第1巻 4話、5話、6話、7話)。つまり眉毛のように見えるけれど、これは義勇さんを表す模様と考えることができます。

猪の牙紋

この模様によく似ているのが、福岡県福岡市にある鷲尾愛宕神社の神紋です。「神紋総覧」(丹羽基二著)によると、これは「猪の牙」(いのね)といって、「二つ巴の変形」になるそう。

イノシシは陰陽五行では「水」を表すシンボルです。京都の愛宕神社でも神使として扱われる動物なので、「猪の牙」も火伏せの象徴として何か謂われがあるのかもしれませんが、福岡の愛宕神社とともに「日本三大愛宕神社」と称される京都、東京の愛宕神社はどちらも三つ巴なので、福岡はちょっと珍しい形になるようです。

これは神社の変遷が影響しているのかもしれません。

福岡の愛宕神社は、山の名前も元は鷲尾山といって、鷲尾神社という神社がありました。寛永11年(1634年)福岡藩主・2代 黒田忠之が、京都の愛宕神社から愛宕権現を勧請して愛宕神社をつくったことで、山の名前も愛宕山と呼ばれるようになります。

明治になって、鷲尾神社と愛宕神社は鷲尾愛宕神社という一つの神社になります。近年では単に愛宕神社と呼ばれることが多いようですが、もともとは二つの神社から成り立っていたようです。

参考 福岡県 福岡 西新・姪浜 | 三井住友トラスト不動産

参考 文化財情報検索 愛宕神社 | 福岡市の文化財

そして、この神社は義勇さんと重なるイメージがもう一つあります。神社の境内から海を臨むことができるのです。

義勇さんが編み出した独自の型は、無風状態の海を表す「凪」でした(第5巻 42話)

愛宕神社の境内から見る海のイメージ

これだけ海が近いだけあって、海岸には今も元寇の時代に築かれた防塁が残っているみたいですよ。

参考 文化財情報検索 元寇防塁(生の松原地区) | 福岡市の文化財

参考 文化財情報検索 元寇防塁(西地区) | 福岡市の文化財

当ブログでは、元寇を撃退した九州武士の姿は煉獄さんにあると思っていたのですが、もしかすると義勇さんに重ねられたイメージなのかもしれませんね。

義勇さんの鴉の名前は「寛三郎」(ファンブック第二弾、74頁)。蒙古来襲に関する書物「神風遺談」(安政3年)を書いた人物に菊池寛三郎という名前の人がいて、鴉の名前と一致します。

この他、好きな食べ物として紹介されている「鮭大根」(第5巻 41話末の大正コソコソ噂話、ファンブック第一弾 46頁)も、福岡に重なるイメージがあります。

鍵となるのが、福岡県嘉麻市にある「鮭神社」です。

御祭神は、葺不合尊(ウガヤフキアエズノミコト)、彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)、豊玉姫命(トヨタマヒメノミコト)の三柱の神様。「献鮭祭」(けんけいさい)という祭礼で鮭を神使として祀る、ちょっと変わった神社です。

神社の近くを流れる遠賀川(おんががわ)には不定期に鮭が遡上してくるそうで、この鮭を五穀豊穣を願って奉納するのだそう。

ただ、九州は鮭が来遊する最南端の地域です。そのためか鮭が遡上しない年もあるようで、鮭が来ない年は、大根を縦割りにして、目やヒレの飾りをつけて、鮭に見立てたものを奉納するそうです。

つまり、鮭神社で「鮭」がないとき「大根」。
   ↓
「鮭」「大根」。
   ↓
義勇さんの好きな食べものは「鮭大根」。

鮭大根のイメージ

もしかして鮭大根で義勇さんが微笑んだという噂は、ダジャレで笑ってたとか? …どうだろう(汗)

無一郎から見た、義勇さんを知るためのヒント

そして、趣味とされる「詰将棋」(ファンブック第一弾 48頁)も、ダジャレっぽい何かがヒントとして隠れていそうです。

詰将棋を解説しているブログ「平ちゃんのブログ旅日記」によると、詰将棋の原則は、「盤上に飾り駒を配置しない」というのがあるそうです。

参考 [詰将棋]は思考回路を刺激する・・・「京都将棋」は喜怒哀楽!! | 平ちゃんのブログ旅日記

ここでいう「飾り駒」は、あってもなくても詰将棋の内容に影響しない「無駄な駒」のことなのですが、ワニ先生のインタビューでは、「ネームを直す際に気をつけていることは?」という質問に対して、「主人公と直接関係ないことや、ストーリーの主軸と直接関係ないことは極限まで短くするかカットします」と答えておられるので、漫画にも何か通じるものがありますよね。

参考 吾峠呼世晴先生への質問 | 少年ジャンプ漫画賞

ともあれ、少し調べると、同じ「飾り駒」という名前でも、山形県天童市には「飾り駒」という将棋の駒をかたどった置き物があることに気がつきます。

飾り駒のイメージ

例えば上図のように「馬」の字が左右逆になった文字が描かれたものは「左馬」(ひだりうま)といって、「馬」を逆から読むと「まう(舞う)」になるため、めでたい席で舞を舞うことと重ねて「福を招く」と解釈されたりするようです。

飾り駒に使われる材料は、主に「栓の木」(せんのき)や「梻」(たも)といった、硬くて木目の美しい木材が使われます。栓の木はタラノキと同じウコギ科の植物で、新芽は天ぷらにして食べることができるみたいですよ。

善逸の雀と同じ名前の科目の植物だったり、炭治郎の好きなタラの芽に近かったりするところが興味深いですよね(ファンブック第二弾 55頁、第一弾 26頁)

でも、ファンブック第二弾の「柱相関言行録」の無一郎君から見た義勇さんは、「置き物みたい」(113頁)と書かれているので、飾り駒は「縁起物の室内装飾」という点で何かイメージを重ねていそうです。

縁起物の置き物といえば、招き猫や達磨などがありますが、達磨は疱瘡絵にも好んで描かれる題材の一つなんですよね。

長くなったので、達磨と義勇さんの関係は後ほど別記事にまとめてみます。

当ブログには義勇さんに関する記事が他にもあるので、よかったら覗いてみてくださいね。

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