煉獄さんが疱瘡絵のミミズクのイメージと重なっているように、義勇さんは達磨の疱瘡絵と重なっていると思います。
(この記事は、4巻、16巻、ファンブック第一弾、第二弾のネタバレを含みます)
ファンブック第一弾によると、義勇さんの趣味は詰将棋でした。(46頁)
一つ前の記事でまとめているのですが、詰将棋には「盤上に飾り駒を配置しない」という原則があるようです。
そして、ファンブック第二弾の「柱相関言行録」では、無一郎君から見た義勇さんは「置き物みたい」(113頁)と書かれているので、詰将棋そのものというより、縁起物の室内装飾としての「飾り駒」で、何かイメージを重ねていそうです。
縁起物の置き物といえば招き猫や達磨などがありますが、達磨は疱瘡絵にも好んで描かれる題材の一つです。
この記事では、そんな達磨と義勇さんに共通点がないか調べてみました。
「七転八起」の達磨さん、養蚕農家から疱瘡絵へ
今では「達磨」が動くというイメージはないかもしれませんが、江戸中期は起き上がり小坊師の代表格でした。
起き上がり小法師の起源は古代中国で、酒席の客の健康を祝福するおじいさんの姿をした縁起物だったようです。日本に伝わったのは室町時代後半で、子どもの玩具として受け入れられ、子どもの姿に変わりました。「小法師」は若い僧侶のことです。
禅の教えが一般の民衆に広まり始めた江戸時代中期になると、倒れてもすぐに起き上がる起き上がり小法師は達磨大師に姿を変え、「七転八起」(しちてんはっき)の禅語とともに縁起物として喜ばれるようになります。
例えば高崎だるまの発祥は禅宗のお寺と関係があるとされていて、天明3年(1783年)の浅間山の噴火で困窮した農民を救うため、少林山達磨寺の9代目 東獄和尚(とうごくおしょう)が達磨の作り方を教えたのが始まりと伝えられています。
参考 ~知ってるかい?だるま発祥の地・少林山達磨寺と高崎だるま | だるま工房 やなせ
こうした起き上がり達磨は、蚕の「上簇(じょうぞく)=あがり」と起き上がりの「あがり」を掛けて、養蚕農家で「良質な繭がたくさんとれますように」という願掛けの対象にもなっていました。
蚕に繭をつくらせるために、成熟した蚕を蔟(まぶし)に移すこと。
参考 禅宗の僧侶である達磨(だるま)をなぜ祝い事に利用するのか知りたい。 | レファレンス協同データベース
高崎だるまを生んだ群馬県は、明治になると富岡製糸場(富岡市)ができた場所でもあるので、起き上がり達磨と養蚕業の関わりの深さがよくわかりますよね。
冨岡さんの名前は「冨」で、「富岡製糸場」の「富」とは少し字が違うのですが、どちらも「とみおか」というところも何か関わりがありそうです。
そして文化・文政年間になって、山縣友五郎(やまがた ともごろう)がブランドとして高崎だるまを作り始めるころには、疱瘡から守ってくれる縁起物として、頭から赤い被(ひ)を被った達磨の姿が江戸でも人気になり、疱瘡絵にも好んで描かれるようになります。
疱瘡絵というのは、「痘瘡が赤ければ病も軽く済む」ということが経験的に知られていたため、「痘瘡が赤くなって早く治りますように」と、患者の周りに赤いものを置く風習があり、そんな中から生まれたお守り絵のことです。
倒れてもすぐに起き上がる達磨の姿と、「病床から元気に起き上がってほしい」という願いが重ねられていたみたいですよ。
武術の祖としての達摩さん
鬼滅の刃を担当された編集者カピバラさんのインタビューで、ワニ先生は「義勇はすごく有能な剣士」と説明されていたことが紹介されていました。
参考 『鬼滅の刃』大ブレイクの陰にあった、絶え間ない努力――初代担当編集が明かす誕生秘話 | livedoor NEWS
禅宗の始祖である達磨大師も、実は少林寺拳法の祖という話もあって、かなり優秀な武術家という顔を持っているようです。
名僧列伝「景徳伝灯録(けいとくでんとうろく)」(中国・北宋時代)によると、達磨は菩提多羅(ぼだいたら)といって、南天竺(南インド)の香至国(こうしこく)の第3王子でした。
仏法を継承した第27代目の祖師である般若多羅(はんにゃたら)の弟子となって「菩提達磨」(ぼだいだるま)という名を授けられ、40年以上の修行の末に一人前と認められるのですが、そこからさらに師匠の下で修行を続け、師匠が亡くなった後はインドで仏教を伝え、その後は中国へ渡って正法を伝えるよう申しつけられます。
達摩は教えのとおり、師匠が亡くなった後、仏教の教えをインドに広めてから中国へ渡ります。
白隠慧鶴(はくいん えかく)の起上小法師達磨図には、「南天竺(なんてんじく)の達磨大師、日本の起き上がり小法師。彼(かしこ)では六宗の外道を摧伏(さいぶく)し、此(ここ)に在(あ)っては三歳の孩児(がいじ)を誑(たぶらか)す」と書かれていて、インドの布教もけっこう大変だったようです。
でも、達摩さんも数字の「六」に関わる人だったんですね。羽織に籠目紋が隠れていた義勇さんにぴったりの人物です。
打ちくじいて屈服させる
中国へ渡った後、仏教を篤く信仰している梁(りょう)の武帝(ぶてい)に招かれるのですが、この時のやり取りが「達磨廓然」(だるまかくねん)という問答として有名です。
私はこれまでに多くの寺を建立し、写経をし、僧侶を得度させてきたことは数え切れないほどである。どれだけの功徳になるのか?
無功徳(むくどく)。
なんの功徳もない。
(功徳がほしいからと行う善行が何の役に立つのか)
如何なるか是れ聖諦(しょうたい)第一義。
聖なる真理における根本的な意義とは一体なんであるか?
廓然無聖(かくねんむしょう)。
すべては、からりとしてあるだけ、聖なるものは何もない。
(なんのとらわれもない無心の境地に、凡なるものも聖なるものもない)
朕に対する者は誰そ。
では、私の前にいるお前は何者なのか?
不識(ふしき)。
そんなことは、わからない。
(思量できる存在ではない)
達磨さん、もうちょっとその言い方… という気がしますが、深い禅の教えなのでしかたがありません。義勇さんは言葉足らずの設定ですが、達磨さんもなかなか。重なるところが多そうです(笑)
結局、武帝は達磨の言うところを理解することができず、達磨も仏教を布教する機が熟していないとして、北魏の都、洛陽(らくよう)の郊外にあった嵩山少林寺(すうざんしょうりんじ)に入り、後に「面壁九年」(めんぺききゅうねん)と呼ばれる修行を続けます。
少林拳の創始者は諸説ありますが、達磨大師も開祖として挙げられるのは、このとき少林寺に武術を伝えたという話があるみたいですよ。
だるま寺と重なる義勇さん
ところで、京都には達摩に関するお寺があります。通称「だるま寺」と呼ばれる法輪寺です。
創建は享保13年(1718年)ですが、「だるま寺」と呼ばれるようになったのはつい最近で、昭和19年(1945年)以降のこと。太平洋戦争敗戦からの復興を祈念して、第10代 後藤伊山和尚が市民に呼びかけて達磨堂を建立したことがきっかけです。
禅宗初祖である菩提達磨禅師(ぼだいだるまぜんじ)の七転八起の精神により起き上がり、忍苦・不倒のシンボルとして、起上小法師達磨(おきあがりこぼしだるま)がご本尊となっています。
達磨と義勇さんが重なっていると考えると、このお寺の立地がかなりユニークなんですよ。こんな感じ。
だるま寺のそばにある、キリスト教ゆかりの地「ダイウス」
だるま寺がある行衛町(ゆくえちょう)と同じ町内には、信長・秀吉の時代にキリスト教信者が多数住んでいたと伝わる「西ノ京ダイウス町」(中京区、天神道筋)があったようです。元阿弥陀寺跡の石碑がある辺りです。
「ダイウス」は「大臼」という字が当てられますが、「デウス」のことと言われています。
フランシスコ・ザビエルをはじめとする宣教師は、キリスト教を布教する際に信仰する神として創造主「デウス」を説いていました。
義勇さんは、キリシタン大名と伝わる黒田官兵衛の姿と重なるところが多いキャラクターだったので、イメージが重なりますよね。
黒田官兵衛と北野天満宮の縁に重なる「天神川」
お寺のそばを流れる川は「天神川」。かつては、北野天満宮のあたりから上流が紙屋川、下流が天神川と呼ばれていましたが、現在は河川法で天神川と総称されています。
天神さまといえば、福岡城内の住居が完成するまでの間、官兵衛は太宰府天満宮の境内に草庵を建てて2年ほど暮らしていたことがあります。
軍師のイメージが強い官兵衛ですが、母 明石氏(あかしし)は関白 近衛植家(このえ たねいえ)に歌道を授けた文人 明石宗和(あかし むねかず)の娘で和歌をたしなみ、叔父の黒田休夢(くろだ きゅうむ)は秀吉の御伽衆(おとぎしゅう)にも起用された茶人です。
こうした影響からか、官兵衛は和歌・連歌の神でもある菅原道真公を崇敬していたそうです。
菅原道真(天神さま)といえば、その神紋は「梅の花」ですよね。神社によって少しずつ異なりますが、星梅鉢紋(ほしうめばちもん)、梅鉢紋(うめばちもん)、剣梅鉢紋(けんうめばちもん)などがあり、梅鉢紋や剣梅鉢紋は宇髄さんの左目に施されたお化粧にそっくりなところが興味深いです。
義勇さんの羽織に関わる陰陽道のイメージ
そして、少し視野を広げると、意外と近い場所に「晴明神社」があります。
安倍晴明(あべのせいめい)は蘆屋道満(あしや どうまん)と並び称された平安時代の陰陽師です。義勇さんの羽織の模様に隠れていた籠目紋は、蘆屋道満に縁のある六芒星でした。
こうしたことを考えると、なんとも絶妙な位置に清明神社がありますよね。
千年竹林があった義勇さんの屋敷に重なる、竹林の跡
そして、だるま寺のそばには竹林寺(中京区西ノ京円町)があります。義勇さんの屋敷のそばにも竹林がありました。(第16巻 136話)
ここ以外にも、近隣の中京区西ノ京中保町や、右京区太秦安井にも竹林寺があるので、この一帯は竹林が多かったようです。
少々無理やりかもしれませんが(汗)興味深い立地です。
秀吉と官兵衛の関係を感じさせる遺構「御土居」
さらによく見ると、黒田官兵衛が支えた天下人、豊臣秀吉のイメージもありますよ。
だるま寺があるこの場所は、ちょうど秀吉が築いた「御土居」(おどい)の西の端にあたるのです。上の地図でいうと、オレンジの線の部分ですね。
明治以降は殆ど壊されてしまったようですが、この地図内でも北野天満宮の境内や、「御土居の袖」(おどいのそで)と呼ばれる西へ四角く出っ張った北側の一部(北野中学校内)に、その遺構が残っています。
御土居というのは、京都をぐるりと囲む全長約23kmの土塁と堀からなる城壁で、御土居の内側が洛中、外側が洛外になります。
他の都市にもある「惣構」(そうがまえ)と同じ設備と考えられていて、悪徒(あくと)の襲撃や鴨川の氾濫から街を守り、応仁の乱以降、長く続く戦乱で荒廃していた都の安全を保証するものでした。
源頼光の土蜘蛛伝説と重なる「東向観音寺」
そして、北野天満宮の二の鳥居そばにある東向観音寺(ひがしむきかんのんじ)は、土蜘蛛伝説に関わる蜘蛛塚由来の灯籠(火袋)があるお寺です。
土蜘蛛というのは、大江山の鬼退治で有名な源頼光(みなもとのよりみつ)を悩ませた物の怪のこと。
頼光が病を患って床についていたところ、身長7尺(約2.1メートル)の怪僧が現れ、縄を放って絡め取ろうとするので、頼光は名刀 膝丸(ひざまる)で切りつけ、怪僧は逃げ去ってしまいます。
翌日、頼光の四天王と、武勇の人 藤原保昌が血痕を辿っていくと、北野天神裏の古塚まで続いていて、そこには4尺(約1.2メートル)もある巨大な蜘蛛の妖怪がいたため退治したところ、頼光はたちまち回復し、膝丸はこれ以降 蜘蛛切(くもきり)と呼ばれたと伝えられています。
この話はかなり人気だったようで、「土蜘蛛草紙」(室町期)や、能「土蜘蛛」など、様々なバリエーションがあります。
東向観音寺にある土蜘蛛塚由来の灯籠は、七本松通り一条上るという所にあった蜘蛛塚のもので、明治時代に発掘調査された際に石仏などとともに出てきたものです。
大したものが出てこなかったということで、発掘調査自体は特に話題にならなかったようですが、このとき出てきた灯籠が好事家の手に渡り、庭に飾っていたところ家業が傾いたため、「土蜘蛛の祟り」としきりに噂されたのだとか。
いわくつきとなってしまった灯籠は、大正13年(1924年)に同寺に奉納されたというわけです。
義勇さんは第4巻 28話で蜘蛛の鬼がすむ那田蜘蛛山へ、しのぶさんとともに向かったわけで、二人にぴったりの伝説ですよね。(第4巻 28話)
こうしてみると、だるま寺のある場所は、義勇さんに関連する要素がギュッと詰まった地域になるようで、達磨さんと義勇さんは関わりがあると言えそうです。
当ブログには、義勇さんに関する考察記事があるので、よかったらこちらも覗いてみてくださいね。
達磨で共通するキャラクターは他にもいて、話の展開に重要な要素があるようです。