鬼滅の刃と源平合戦、我慢のきかない次男が表す「大天狗」

平等院周辺

The Uji Bridge Battle is one of the famous battles in the Genpei War.
宇治の橋合戦は源平合戦の中でも有名な戦いの一つです。

The story about this battle also has some keywords that overlap with “Demon Slayer”.
この戦いにまつわる話には、「鬼滅の刃」と重なるキーワードがいくつかあります。

The “eldest son” and “second son” in Tanjiro’s lines may also be related to the names of the great fires that occurred during this period.
炭治郎のセリフにある「長男」と「次男」も、この時代に発生した大火の名前に関連しているのかもしれません。

(この記事は、2巻、3巻、12巻、16巻、23巻のネタバレを含みます)
 

「鬼滅の刃」には、物語の鍵を握っていそうな場所がいくつかあります。

その中で、聖地ではないかと言われている神社の一つ「溝口竈門神社」のそばには、源平の合戦場跡や平家の落人伝説の伝わる場所がありました。

では、千寿郎くんの名前にある、サルスベリの花と重なる「平等院」はどうでしょう? やはり、ここも源平合戦の古戦場跡になるようです。

九州が「源平合戦最後の地」であるなら、宇治橋から平等院にかけては「源平合戦始まりの地」といえるみたいですよ。この記事では、「宇治橋」、「平等院」、「蛍塚」について見ていこうと思います。

その前に、どうして宇治橋で合戦になったのかを見ていくと、大天狗の姿を見つけることができますよ。

平家終焉の始まりとなった「宇治橋合戦」

「権勢に任せて傍若な振る舞いをする平家を追討すべし」

後白河法皇の第二皇子・高倉宮以仁王(たかくらのみや もちひとおう)と源氏の長老・源頼政(みなもとのよりまさ)は、東海、東山、北陸三道諸国の源氏や群兵等に向けて、平家討伐を呼びかけるのですが、計画は程なく露見して、宇治橋で合戦となります。「平家物語」(第四巻)にも出てくる「橋合戦」ですね。

「吾妻鏡」の物語も、八条院の蔵人に任ぜられた源行家(みなもとのゆきいえ)によって、以仁王の令旨(りょうじ)が源頼朝の下に届けられるところから始まります。

 

令旨
皇太子・三后の命令を書き記した文書のこと。後に親王・法親王・女院などの文書も指していうようになります。

 

令旨が出される前年(治承三年、1179年)の11月には、平清盛による軍事クーデター「治承三年の政変」が発生していて、後白河院は幽閉。院政は停止していました。

2月21日には清盛の意向による高倉天皇の譲位を受けて、安徳天皇が践祚(せんそ)、4月22日には即位します。

建春門院(平滋子)が死去(安元2年、1176年7月8日)して以降、平家を追い落とす動きが加速していたとはいえ、軍事力でねじ伏せる清盛のやり方は大きな反発を招いたわけです。

結局、挙兵は失敗して、頼政は立てこもっていた平等院で自刃。以仁王は平等院を脱出することはできたものの、光明山の鳥居の前で追手に追いつかれ、最期を遂げてしまいます。

しかし、平家追討の令旨はその後も生き続け、木曽義仲や源頼朝の挙兵に繋がり、元暦2年(1185年)まで続く大規模な内乱「治承・寿永の乱」に発展して平家を追い詰めていきます。

「人の想いこそが永遠であり不滅」(第16巻 137話、第23巻 201話)

「鬼滅の刃」に出てくるメッセージのような展開を見せるのが源平合戦の顛末です。

もともとの火種は後白河院 vs 延暦寺

ただ、物事にはその原因となるものがそれぞれあって、平家だけが悪いというわけではないみたいなんですよね。

まとめてみると、こんな感じ。事の始まりは馬の尻尾だったという話があります。

 
白山事件、顛末
 

安元3年(1177年)、藤原師経(ふじわらの もろつね)が兄・師高(もろたか)の目代として加賀国(現 石川県)に赴任していました。

白山宮(はくさんぐう)の中宮八院の一つ、宇河(うかわ)の山寺(涌泉寺)の湯屋で、目代の家来たちが師経の馬を洗うという狼藉を働いたため、怒った寺僧たちは馬の尻尾を切って追い返してしまいます。

愛馬の尻尾を切られた師経は激怒。湧泉寺の坊舎を焼き討ちするのですが、白山中宮の衆徒が約500騎の武装で集まったため、師経は京都へ逃げ帰ってしまいます。

おさまらない宇河の僧徒たちは、目代の配流を求めて本山の延暦寺へ訴えて、強訴に至ります。

 
参考 白山神社と比叡山の関係 その2
 

湯屋(ゆや)
湯浴みをする場所です。寺院では斎戒沐浴を目的とした「湯屋」という施設が奈良時代からありました。

「中世武士による神社仏閣焼き討ちの実態と神威超克の論理」(稙田 誠)の事例11で紹介されている「『延慶本平家物語』第1本 師高与宇河法師事引出来」によると、「目代ノ秘蔵ノ馬ヲ切テケリ」(目代の秘蔵の馬を切ったそうだ)と書かれているみたいですが…。切ったのはしっぽ? それとも馬? でも、馬を切るのは大変そうですね(汗)

強訴(ごうそ)
平安中期以降、大寺社に属する僧兵や神人(じにん)などが、神仏の権威を誇示して集団で朝廷や幕府に訴えや要求をすること。

神輿や御神木を担いできて、要求が通らなければその場に放置して帰るというのも脅しの手段になっていました。

神罰や仏罰が信じられていた時代の交渉術とも言えますが、恐れられる理由もあったようです。

美濃守・源頼綱の配流を求める延暦寺・日吉社の強訴(嘉保2年、1095年)では、これを武力で拒絶した関白・藤原師通(ふじわらのもろみち)が、正徳3年(1099年)に悪瘡(あくそう)を患って38歳で急死するという例がありました。このとき延暦寺は「神罰が下った」と喧伝しています。

 

後白河院が延暦寺を嫌うわけ

師経が京都へ逃げ帰ったのは3月22日ですが、4月13日には強訴となり、4月20日には衆徒の要求が通って、加賀守・藤原師高と、目代・藤原師経の配流が決定します。一連の出来事は白山事件(山門事件)と呼ばれています。

一見、横暴な国司がやらかしたように見えますが、人間関係をよく見ると興味深いのです。

藤原師高と藤原師経は兄弟で、父親の西光法師(さいこう ほうし)は後白河院の近臣、その前は信西入道(しんぜい にゅうどう)の家来でした。

信西は、出家する前は藤原通憲(ふじわらのみちのり)といって、当世無双の宏才博覧(こうさいはくらん)と称された人物。藤原頼長(ふじわらのよりなが)と双璧をなしていました。

藤原南家の出身だったため官位は正五位下・少納言止まりでしたが、2人目の奥さんが雅仁親王(まさひとしんのう、後の後白河天皇)の乳母を務めていたこともあって、出家した後も後白河天皇に重用されていました。

保元の乱(保元元年、1156年)に勝利した後白河天皇と信西は、「保元新政」(ほげんのしんせい)を作成。後白河天皇による親政を行うため荘園公領制の改革などを目指すのですが、その改革の大きな障害となったのが、巨大な荘園を保有して過激な対応をする延暦寺でした。

つまり、延暦寺に関係するお寺で騒ぎを起こした藤原師高は後白河院の近臣で、後白河院と延暦寺はこれまでも関係があまりよくなかったという背景があります。

 

親政(しんせい)
天皇自らが政治を行うこと。
延暦寺の権力の源
人々から寄せられる寄進にはお米の他に農地などもあり、特に比叡山・延暦寺は北陸、山陰、近畿、九州など全国に荘園を所有して、不輸不入の特権がありました。

こうした寄進されたものから生じる米を使い、比叡山・日吉大社が「出挙」(すいこ)として小売で貸し出しすることを始めます。

出挙というのは古代の貧民救済策が始まりですが、この仕組みの中で発生する利息収入は国家の重要な財源となっていき、私的に出挙を行う「私出挙」(しすいこ)も発生したというわけです。

延暦寺と表裏一体となって発展してきた日吉大社も、貸し付ける米は豊富に所有しているので、私出挙を行うようになるのは自然なことなのかもしれませんね。これが中世の貨幣経済の発展とともに、本格的な貸金業である「土倉」(どそう)に変わっていきます。

さらに商品流通に欠かせない「市」(いち)や「座」(ざ)も、実質的には寺社が支配しており、大きな利益をあげていました。

延暦寺はこの他にも、琵琶湖の物資の陸揚げ港である「下坂本」にも影響を及ぼしていたので、当時の運送業者である「馬借」(ばしゃく)や「車借」(しゃしゃく)からも、大きな税収入を得ていました。

そして源平が活躍したこの時代は、乱世へ向かう混乱の時代でもあります。自力救済が必要だったため、僧侶や神官も武装をしていました。

大きな経済力を持つ者が武力をも持っているわけで、当時の有力者にとってかなり厄介な存在だったようです。

 

大火の発生と大天狗の影

 
太郎坊焼亡のイメージ
 

そんな中、安元3年(1177年)4月28日夜半に火災が発生します。「方丈記」(1212年)にも記される「安元の大火」です。

180余町、都の三分の一が焼失する大惨事で、正殿である大極殿を含む政務機構の八省院の全て、朱雀門・應天門・応天門・神祇官といった大内裏の南東部分、さらに公卿の邸宅14家など多数の被害が出ました。

この前年には建春門院(平滋子)の他に、高松院(二条天皇の中宮)、六条院、九条院(近衛天皇の中宮)といった、保元の乱で崇徳院と対立していた後白河院や藤原忠通(ふじわらのただみち)に近い人々が立て続けに亡くなっていたため、崇徳院の怨霊の仕業ではないかと噂されていました。

この大火も崇徳院と関連付けて見る人が多かったようで、「崇徳院が天狗となって起こしたのだ」とも、「崇徳院の意を受けた愛宕山の大天狗・愛宕山太郎坊が起こしたのだ」とも噂され、「太郎焼亡」(たろうしょうぼう)と呼ばれました。

本当に天狗が火災を起こしたのかどうかはともあれ、政治の中枢部を巻き込んだ大火は、人々の大きな不安を招いていたと想像することができますよね。

 
参考 愛宕山の太郎坊天狗について | レファレンス協同データベース
 

幻の比叡山焼き討ち

この動揺に乗じるように、5月に入ってすぐ、後白河院を激怒させる証文が出てきます。

藤原成親と平時忠が処分された「嘉応の強訴」(かおうのごうそ)と、今回の「白山事件」の騒動は、延暦寺の貫主(かんしゅ)である天台座主・明雲(みょううん)の下知によるものだとするものです。

後白河院の命により、すぐさま明雲は捕縛され、座主職は解任、所領も没官となります。

罪状を決める陣定(じんさだめ)では、明雲のこれまでの功績を鑑みて、還俗・流罪の猶予が妥当という判断が下されますが、後白河院の命令で謀反人として流罪が言い渡されます。

ところが伊豆へ配流する途中で明雲は大衆に奪還され、比叡山に逃げ込まれてしまうのです。

この知らせを受けた後白河院は、近衛大将を務める平重盛・宗盛に、坂本を封鎖して延暦寺を攻撃するよう命じます。福原にいた清盛も上洛して院と会見し、延暦寺攻撃を命じられていたようです。

こうして見ると、後白河院の強硬な姿勢に比べて、平家側は清盛まで呼びつけられているのにすぐには動かない。ずいぶん消極的ですよね。

これは清盛にとって、延暦寺は因縁のあるお寺だったことが影響しているようです。久安3年(1147年)6月、清盛が政治の世界に現れてすぐのころに発生した「祇園社乱闘事件」です。

祇園社御霊会(ぎおんしゃ ごりょうえ)において、清盛の家人と祇園社の神人の間で小競り合いが発生し、これが忠盛・清盛親子の流罪を求める強訴に至ります。この騒ぎは、延暦寺の衆徒と鳥羽院の間で武力衝突に発展しかねないにらみ合いとなるのですが、このときは鳥羽院の毅然とした態度が延暦寺側の矛を収めさせます。

事件は決着しましたが、その後も天台座主・行玄(ぎょうげん)が僧兵によって追放されてしまうなど、延暦寺内でも長く揉め続けた原因になっています。

この事件以降、清盛は昇進を重ねた後も、延暦寺との関係においては事を構えることがないよう細心の注意を払っていたようで、今回の明雲の事件に関しても、平家の対応はかなり消極的だったようです。

そんな中で発覚したのが、鹿ヶ谷事件(ししがたにじけん)(安元3年、1177年 5月29日)でした。

「平家物語」では、西光らが平家打倒の謀議を図っているという密告があったということで、謀議の参加者が次々に捕縛されたと伝えています。

謀議の参加者として名を連ねる西光と藤原成親(ふじわらのなりちか)は、強訴に対して明雲の処罰を主張する強行派だったこともあり、両名が処断されたことで延暦寺攻撃に関する話は立ち消えになりました。

朝廷内の勢力バランスが生んだ鹿ヶ谷事件

鹿ヶ谷事件は、後白河院の院近臣である藤原成親と西光が共謀して、平氏打倒を企てていたと言われています。

でも、論文「鹿ヶ谷事件における西光と成親」によると、西光は建春門院の栄華を象徴する法住寺殿の造営に深く関わっていること、そして後白河院の御座所として使われた新七条殿を新造する大役を任されていたことなどから、後白河院はもちろん、平家の平時子派とも良好な関係を持つ人物だったと考えられるようです。

 
参考 鹿ヶ谷事件における西光と成親 松下健二 | CiNii Articles
 

西光は平氏繁栄の功労者でもあるけれど、西光を明雲流罪の首謀者とみなす延暦寺大衆のことを考えるなら、処罰しなければ収まらない。しかし、西光の存在が欠けた場合、その後の勢力バランスは偏ってしまう。

誰かが企んだ陰謀なのか、それとも偶然が偶然を呼んだ巡り合わせだったのかはわかりませんが、延暦寺の焼き討ちを避け、なおかつ政界の勢力バランスを保つために、鹿ヶ谷事件は必要な事件だったと考えられるようです。

当時の朝廷内には、建春門院を介して後白河院との関係を保っていた平時子派と、八条院の権威を後ろ盾に二条院を支えてきた親政派という2つの勢力がありました。

ただ、肝心の建春門院は賀応2年(1170年)に病で崩御、安徳天皇が生まれるのは治承2年(1178年)11月12日のことなので、鹿ヶ谷事件(1177年)が発生した当時は勢力図が大きく傾いていた時期に重なります。

ザックリした図にすると、こんな感じ。

 
平時子派と八条院派の勢力図
 

この勢力分布は、平家一門も二分する状態になっていたんですね。

鹿ヶ谷事件は、どちらの勢力からも犠牲を出す出来事でしたが、これで物事が収まるわけではないと予感させるような大火が再び京都を襲います。

治承2年(1178年)3月24日夜中に発生した、「治承の大火」です。

鬼滅の刃と重なる、太郎坊・次郎坊

前回の太郎坊焼亡の際は、御所の一部や官庁、公卿の邸宅を含む地域に被害を出す大火でしたが、今回は官営市場である「東市」(ひがしのいち)を含む庶民街、50~60町を焼失する大火でした。

太郎焼亡で焼失した南側の地域で多くの被害を出したため、前年度の大火と関連付けて噂する人が多かったようで、「太郎焼亡」に対して「次郎焼亡」(じろうしょうぼう)と呼ばれています。

「次郎焼亡」の「次郎」というのは、比良山次郎坊のこと。愛宕山太郎坊と同じ大天狗で、太郎坊は長男格の大天狗、次郎坊は次男格の大天狗と言われています。

もともとは比叡山にすんでいましたが、高僧のいる延暦寺ができたことを嫌って、大した抵抗をすることなく比良山へ引っ越してしまったという伝説があります。

「鬼滅の刃」では、「俺は長男だから我慢できたけど、次男だったら我慢できなかった」(第3巻 24話)というセリフが出てきますが、「長男→愛宕山太郎坊」「次男→比良山次郎坊」と考えると、大天狗の伝説にかけながら、後白河院と延暦寺が衝突するさなかに発生した、この2つの大火のことを指しているのかもしれませんね。

そして鹿ヶ谷事件の後、後白河院と平家の関係は悪化の一途を辿り、次のキーワードが浮かび上がってきます。

導火線に火がつくまで

治承3年(1179年)6月17日、清盛の娘・盛子(近衛基実の正妻)が亡くなると、後白河法皇は盛子の相続していた摂関家領を自らの管理下に置いてしまいます。

そして10月の除目では、清盛の娘・完子(さだこ)が嫁いでいた近衛基通(このえ もとみち、基実の子)を差し置いて、松殿基房(まつどの もとふさ、基実の弟)の子・師家(もろいえ)を権中納言に就任させます。

基通はこのとき20歳、師家は8歳です。まるで延暦寺攻めをなし崩しにして、院近臣の多くを処罰した清盛へ嫌がらせをするかのような対応ですよね。

でもこれは、盛子・完子の2人の娘を使って摂関家へ食い込んでいこうとしていた清盛の野望を打ち砕く動きと考えることもできるみたいです。

そうすると、なかなか計算高い行動なわけで、源頼朝から「日本第一の大天狗は、決して他の者ではない」と言われただけある人物です。

 
参考 近衛基通のこと | き坊の棲みか
参考 吾妻鏡 第五 文治元年(一一八五)乙巳 十一月大十五日
 

平家 の反撃

ただ、少しやりすぎたようです。同年7月29日に亡くなった清盛の息子、重盛の知行国だった越前を、嫡男である維盛に継承させず、これも没収してしまったからです。

維盛の父・重盛は、母方に有力な親族を持たず、鹿ヶ谷事件で処罰された藤原成親の妹を妻としていたこともあって、棟梁でありながら平家一門の中で微妙な立場になっていました。

維盛も成親の娘を妻としており、重盛の死後は、時子を母とする宗盛が棟梁となったので、その立場は一層微妙なものになっていたようです。

この上、生活基盤となる知行国が没収され、平家一門がそれを守れなかったとなると、その不満はどんな暴発を招くのか…。一門の分裂につながりかねないデリケートな問題だったと考えられるみたいです。

こうしたことが重なって、豊明節会(とよのあかりのせちえ)で天皇や諸臣たちが集まる中、福原から数千騎を率いた清盛が上洛します。

松殿基房、師家親子を解任し、近衛基通を関白・氏長者に任命。さらに院近臣たち39名を解任・京外に追放して、後白河院を幽閉・院政を停止してしまいます。

平家政権の成立、「治承三年の政変」です。

 

氏長者(うじのちょうじゃ)
平安時代以前の氏上(うじのかみ)と同じで、朝廷での職業や住んでいる場所などをもとにした「氏」を名乗る同族集団のいちばん偉い人のこと。

 

蛍ケ渕の蛍合戦

こうした政変を受けて、八条院を後ろ盾に持つ以仁王と源頼政が立ち上がったわけですね。

ちなみに、頼政は畿内近国に地盤を持つ摂津源氏の流れの人。大江山の鬼退治で有名な源頼光から数えて5代目に当たります。しっかり、鬼退治に重なっています。また、こうした鬼退治のイメージからか、頼政自身にも、近衛院を毎夜悩ませていた化け物「鵺」(ぬえ)を退治する話があります。(「平家物語」巻第四 「ぬえ」)

「吾妻鏡」によると、令旨が下されたのは治承4年(1180年)4月9日。

「平家物語」(13世紀前半)によると、5月には計画が露見して、以仁王は園城寺(三井寺)へ逃げ込みます。頼政は園城寺攻撃の命令が下った5月21日に自宅に火を放ち、一族を率いて園城寺の以仁王と合流します。

しかし園城寺だけでは兵力が足りないとの判断で、令旨に応じる興福寺へ向かうことになります。

ただ、前日に眠れなかった以仁王が疲労して、園城寺から宇治に来るまでに6度も落馬してしまうため、園城寺の末社だった平等院で休息をとることになります。これが5月26日の早朝のこと。

宇治橋で合戦が始まり、頼政が平等院の境内で自刃を遂げるのは、その日の夜のことでした。

 
宇治の蛍合戦イメージ
 

最初の地図で、宇治川の上流を見ていくと、白川口に「蛍塚」があります。蛍といえば、鋼鐵塚さんの名前が「蛍」でしたよね。(第12巻 101話)

宇治川の蛍は古くから有名で、「都名所図会 巻5」(1780年)では夏の風物詩として紹介されています。

5月下旬から6月上旬にかけて無数に飛び交う蛍火は、頼政とその同志の亡霊が蛍と化したものと伝えられていて、飛び交うさまは「宇治の蛍合戦」と呼ばれました。

「蛍塚」の碑文によると、「ゲンジボタル」という蛍の名称も、この蛍合戦が由縁という話があるようです。

現在、宇治川で蛍を見ることはできませんが、宇治市植物公園で開催される「蛍ナイター」で蛍を鑑賞することができますよ。

 
参考 宇治市植物公園
 

「鬼滅の刃」に源平のイメージが散りばめられているわけ

炭治郎のセリフに重なる「太郎坊」に「次郎坊」、そして炭治郎の刀を担当する刀鍛冶の名前の「蛍」。「鬼滅の刃」には平家だけでなく、源氏と平氏、両方のイメージが盛り込まれているようです。

これは第2巻のカバーデザインにも見ることができます。

表表紙と裏表紙のカバー折り返し部分を並べると、対立するように流れる白い水流紋と赤い水流紋を背景にして、大きな藤の花が描かれています。

該当部分の一部を取り出して描いてみると、こんな感じ。

 
鬼滅の刃 第2巻 カバー折返しのイメージ
 

諸説ありますが、赤(紅)と白の色分けは、源平合戦が起源と言われています。紅旗が平氏で白旗が源氏ですね。

そして源氏といえば、射楯兵主神社(いたてひょうずじんじゃ)の「三ツ山大祭」にもつながりそうですよ。

煉獄さんのフクロウのイメージから辿り着く射楯兵主神社には、20年に一度行われる「三ツ山大祭」という奇祭がありました。

以下の3つの造山が築かれるのが特徴で、このうち「小袖山」は無限列車のイメージがあります。

 

・俵藤太(藤原秀郷)の百足退治を表現した「小袖山」(こそでやま)
・新田四郎忠常の富士猪退治を表現した「二色山」(にしきやま)
・源頼光の大江山鬼退治を表現した「五色山」(ごしきやま)

 

「二色山」で表現される新田四郎忠常(にったしろうただつね)の猪退治は、「吾妻鏡」(鎌倉時代末期)や「曽我物語」(南北朝時代)に出てくるお話です。

忠常は頼朝・頼家の源氏二代に仕え、平氏追討や奥州合戦で多くの武功を挙げた剛の者(ごうのもの)。源平合戦に深く関わる人物なんですね。

「鬼滅の刃」に「三ツ山大祭」のイメージが重なっているとすれば、「二色山」に表現される源平のイメージが物語に散りばめられているのは納得です。

そして、平家の赤(紅)の水流紋を「鬼」と見るなら、平将門(平氏)を討つのは藤原秀郷(藤)ですから、鬼を退治するのに藤の花が有効というのは当然のことなのかもしれません。

この他にも、平等院周辺は「鬼滅の刃」につながりそうな場所がありますよ。よかったら、こちらの記事も覗いてみてくださいね。

 

 

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