善逸の抱える謎について、原作で描かれる、獪岳、桑島師範から考えてみた

掌善童子のイメージ

Zenitsu has a low self-esteem. Perhaps because of this, what he believes is a little different from what Tanjiro believes.
善逸は自己肯定感が低いです。そのせいか、彼が信じていることは、炭治郎が信じていることとは少し違います。

It seems that the characteristics of Zenitsu is based on the flanking attendant of the Shogun-Jizo, which was once enshrined at Atago Shrine.
善逸の特徴は、かつて愛宕神社に祀られていた勝軍地蔵の脇侍を参考にしているようです。

(この記事は、第1巻、第2巻、第3巻、第4巻、第11巻、第12巻、第16巻、第17巻のネタバレを含みます)

善逸が登場してすぐ、伊之助から禰豆子を庇う場面で、こんな独白があります。

でも俺は人によく騙された
俺は自分が信じたいと
思う人をいつも信じた
(第4巻 26話)

ネズミのイメージと重なる善逸は、聴覚も特別です。「注意深く聞くと、相手が何を考えているかもわかった」というほどの能力があるのですが、「人によく騙された」といいます。

その原因は自分でもよくわかっていて、「自分が信じたいと思う人をいつも信じた」というんですね。

自分の何が悪いのかがわかっているのにもかかわらず、鬼の禰豆子をつれて歩いている炭治郎のことも、「そこには必ず事情があるはずだ」「それは俺が納得できる事情だって信じてる」と、ほぼ無条件で信じようとします。

これはどういうことなんでしょう?

善逸は自己肯定感低めのキャラクター

善逸はとにかく自己肯定感が低いキャラクターです。

「ここで生き残っても、結局、死ぬわ俺」と、物事をネガティブに捉えるし(第2巻 8話)

「俺はすごく弱いんだよ、守ってあげられる力が無いの」と、自分にはできないとすぐに決めつけるし(第3巻 23話)

周りへ依存する気持ちが強いせいか、頑張りつつも正一くんにまですがりつくし(第3巻 23話)

困難な状況に直面すると、絶叫して逃げようとするし(第4巻 33話)

「俺が一番、自分のこと好きじゃない」(第4巻 33話)と言いきります。

でも、那田蜘蛛山で蜘蛛の鬼(兄)と戦う際に、桑島師範との記憶が自分を支えていることに気が付きます。

武術にしても、学問にしても、修行は自分を信じて努力することから始まりますが、自己肯定感が低い善逸でも修行を続けることができたのは、師である桑島師範が善逸を信じて見守ってくれていたからこそ。

桑島師範は、きっと善逸の「変わりたい、ちゃんとした人間になりたい」(第4巻 33話)という気持ちが本物だと知っていたから、修行から逃亡しようとする善逸を見限ったりせず、何度も引きずり戻してくれたんでしょうね。

でも、こうした記憶だけでは、善逸は自分のことを肯定できるまでにはならなかったようです。

炭治郎の「信じる」ことと、善逸の「信じる」こと

善逸を見ていると、もう一つ、「信じる」というキーワードが見えてきます。

「信じる」という言葉は、鬼滅の刃では物語としても重要なキーワードですよね。

第1巻 1話に出てくる炭治郎は、三郎爺さんの言うことを全然信じませんが、最終選別を乗り越えて、鬼狩りとして最初の仕事に取り組む際には、和巳さんの証言に力強く「信じる」と答えます。(第2巻 10話)

第12巻 103話では、自分には緑壱零式を修理する技術がないと絶望する小鉄少年に、「(今の自分にできなくても、必ず他の誰かが引き継いでくれると信じているからこそ)次に繋ぐための努力をしなきゃならない」と説きます。

でも、こうしてみると、炭治郎の「信じる」と善逸の「信じる」はずいぶん違います。

善逸の場合、第4巻 26話では、ほぼ無条件で炭治郎のことを信じるのに、第3巻 20話では、雀の言っていることがわかるという炭治郎に向かって、「嘘だろ!? 俺を騙そうとしてるだろ」と否定的です。

さらに第16巻 134話では、悲鳴嶋さんのことを「鬼殺隊、最強だ」と評する炭治郎や伊之助に対して、「俺は信じないぜ」「あのオッサンはきっと自分もあんな岩、一町も動かせねぇよ」と全否定。さらには炭治郎に「お前は何で言われたことをすぐ信じるの? 騙されてんだよ」と畳み掛けます。

自分が信じたいと思う人・事(のみ)を信じるというスタンスは微動だにしません(笑)

ただ、眠りに入って戦闘態勢になると、「お前、なんかすごい、いい感じじゃねーか!! どうした!?」と、伊之助が驚くほど、的確に物事を見て、判断しています(第11巻 91話)

「普段は緊張や恐怖で体が強張り、うまく動かせない」けれど、眠ることで強くなるのが善逸の特徴(第3巻 23話)ですが、眠ることで力を発揮するのは強さだけではないようです。

それだけ心の働きが、善逸の本質的な働きを妨げていると言えそう。

信じるもの・信じることを、自分の気持ちで選り分けてしまうのも、自己肯定感が低いために、自分の中で基準となる軸が揺らいでいるのかもしれません。

掌善童子が教えてくれる善逸の課題

こうした善逸の姿を見ていると、関わりがありそうな仏様がいることに気がつきます。勝軍地蔵の左脇に侍する、掌善童子(しょうぜんどうじ)です。

将軍地蔵は、かつて京都の愛宕神社にご本尊として祀られていた、炭治郎のイメージと重なる地蔵菩薩でした。

勝軍地蔵に関してはこちらの記事にまとめているので、よかったら覗いてみてくださいね。

「蓮華三昧経」には「勝軍地蔵の左右には掌善掌悪の二童子が侍している」ということしか書かれていないようですが、「延命地蔵菩薩経」にはもう少し詳しい説明がありますよ。

手には「白色の白蓮華(びょくれんげ)」を持っていて、「法性(ほっしょう)を調御す」という働きをするそうです。

白蓮華は煩悩に汚されることのない清浄な仏の心をあらわす花で、お釈迦様の故郷に咲いていた蓮の一つ。法性は「物事の動かしようのないあるがままの姿」で、調御は「馬を調教するように強い言葉で教化する」仏陀そのものを意味します。

「物事のあるがままの姿、本来的なあり方を、調伏制御して悟らせる」という意味になるみたいですね。

桑島師範の訃報を受けて、自分のやるべきこと、やらなくてはいけないことを自覚した善逸は、炭治郎と別れた後も恐らく一人で悲鳴嶋さんの訓練をやりとげて、さらに修行を重ねていたはず。(第16巻 136話)

兄弟子である獪岳と対峙したときには、眠りに入ることなく、本質的な強さを発揮することができるようになっていました。

こうしてみると、善逸は掌善童子の働きに従って、繰り返し実践することで成長する人と言えそうです。

善逸を大きく変えることになった兄弟子の獪岳は、「俺は俺を評価しない奴なんぞ相手にしない」「俺は常に!! どんな時も!! 正しく俺を評価する者につく」と、師範の訃報を前にしても非情な言葉を並べますが(第17巻 144話)

「死ぬまでは負けじゃない」と、最後まで生きることにこだわる姿は、死ぬことばかり恐れていた善逸とどこか似ています(第17巻 145話)。

さらには、自分を肯定するために常に自分を高く評価することを求め、それを根拠とした自信にすがる人だったと考えると、獪岳も善逸と同じように、ありのままの自分を肯定する感覚が低い人だったといえそう。

ただ、獪岳の「獪」の字は、「角川 漢和中辞典」によると、けっこう強烈な意味になるようです。

[解字] 悪がしこい犬の意味。
[字義] わるがしこい(・し)。ずるい。狡獪(こうかい)姦獪(かんかい)

性質で似ているところはあるけれど、これでは善逸のように、いいご縁をつくっていくのは難しそうですね(汗)

「獪岳が自分のことを嫌っていたのはわかっていたし、自分も獪岳が嫌いだった」という善逸ですが、第17巻 145話には、獪岳のことは桑島師範や自分にとって特別だったと思い返すシーンが出てきます。

善逸にとって無条件に信じていたい人の一人が獪岳だったのかもしれませんね。

そんな兄弟子は、一線を越えて鬼となってしまっているのですが、善逸は師範から伝えられた型ではなく、自分で考えた自分だけの型で滅殺します。

師範と弟子の最後の場面で描かれるもの

彼岸花のイメージ

獪岳の使う雷の呼吸は血鬼術で強化されていたこともあって、善逸は大きなダメージを受けてしまいますが、意識が朦朧とする中、三途の川らしき場所で桑島師範と再会します。

善逸を大国主命(オオクニヌシノミコト)になぞらえるなら、川の此岸(しがん)に立つ善逸は大穴牟遅神(オオナムチノカミ)、川の彼岸に立つ桑島師範は根の堅州国(ねのかたすくに)の須佐之男命(スサノオノミコト)といったところでしょうか。

二人の足元に咲くのは、原作の白黒の画像ではわかりませんが、恐らく赤い彼岸花。彼岸花には、天上に咲くと伝わる「曼珠沙華」(まんじゅしゃげ)という別名があります。

そして赤い彼岸花の花言葉には、「情熱」、「独立」、「再会」、「あきらめ」、「悲しい思い出」といった、二人にぴったりの言葉があるみたいですよ。

ちなみに「あきらめる」のは、物事を諦める意味もありますが、もとは仏教の「諦観」(たいかん)のこととも言われていて、諦観は「(大宇宙の真理である因果の道理を)あきらかにみる」ことを意味します。

「因果の道理」というのは、すべての結果には必ず原因があり、原因なしに起きる結果は万に一つもないという仏教の教えのことです。

この辺は掌善童子にもつながりそうですよね。

ただ、気になるのは、彼岸花には「捨て子花」という悲しい別名もあるのです。

花が咲くときには葉がなく、花が散ってから葉が出てくることから、葉を親に、花を子に見立てた名前なのですが…。

どうしてこの二人の間に、この異名を持つ彼岸花が描かれているんでしょうね? 何か悲しい思い出でもあるんでしょうか、桑島師範。(汗)

ともあれ、これだけ経験を積んだのだから、この後は善逸もさぞかし禰豆子にふさわしい人物になって…。

あれ? あれあれ? 第23巻 203話末の説明イラストや、205話の我妻燈子の話からすると、どうも様子が違うような。

ま、まあ、修行は何度も積み重ねていくものらしいので、これからも頑張れ、善逸。

善逸は大国主命のイメージに重なるかも? という考察は、こちらの2記事にまとめているので、よかったら覗いてみてくださいね。

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