鬼を踏み台にする男、伊之助の強さを考察してみた

掌悪童子のイメージ

Inosuke is a man of action with a motto is rushing forward. However he is not reckless.
伊之助は、猪突猛進をモットーとする行動派です。でも、決して無謀ではありません。

It seems that the characteristics of Inosuke is based on the flanking attendant of the Shogun-Jizo, which was once enshrined at Atago Shrine.
伊之助の特徴は、かつて愛宕神社に祀られていた勝軍地蔵の脇侍を参考にしているようです。

(この記事は、第3巻、第4巻、第5巻、第8巻、第10巻、第18巻、第19巻のネタバレを含みます)

愛宕神社は、かつてご本尊として祀られていた勝軍地蔵という地蔵菩薩があって、炭治郎と重なるイメージがありました。

勝軍地蔵の左右には掌善掌握の二童子が控えていて、左脇に侍する掌善童子は善逸に重なるイメージがあります。

右脇には掌悪童子が侍するのですが、この仏様は「無明(無知)を降伏する働きをする」とされています。

掌悪童子が働きかける「無明」は、「生命の根源的な無知」のことで、無知は無知でも「智慧がない無知」のこと。

明かり(智慧)がないので、自分は暗く、見えていないため愚かであることから、「一切の煩悩を生む根源」とされています。

伊之助の場合は猪に育てられているので、文字の読み書きはできず、食事は手づかみ、お清めのための「切り火」も、人を埋葬する意味も知りません(第4巻 27話)

伊之助の優れた感覚

でも、伊之助はただの無知ではなく、それまで知らなかったことでもすぐに使いこなせる器用さを持っています。

例えば第4巻 28話では、藤の花の家紋の家のお婆さんについて、炭治郎とのやり取りでは、こんなことを言っています。

誇り高く? ご武運? どういう意味だ?
(略)
その立場って何だ? 恥ずかしくないってどういうことだ?
なんでババアが俺たちの無事を祈るんだよ

何も関係ないババアなのに何でだよ
ババアは立場を理解してねぇだろ

「わからない」、「知らない」と言ってる端から、きっちり使いこなしてますよね。触覚的な感覚だけでなく、言語感覚も何か突き抜けたところがあって、伊之助って結構すごいです(汗)

知識は知ることによって身につけることができますが、智慧は体験や経験を通して気づくことで身につけるもの。

伊之助は「知識がない無知」が目立つキャラクターといえそうです。

第18巻 160話で、童磨が伊之助のお母さんのことを「頭が鈍い分、感覚が鋭かったみたい」と表現しているので、もしかするとお母さん譲りの性質なのかもしれませんね。

鬼を踏み台にして、より強く、より高く

そして伊之助は、「今ここ」にしか興味を向けません。

「俺には親も兄弟もいねぇぜ」「他の生き物との力比べだけが、俺の唯一の楽しみだ!!」と言います(第4巻 27話)。

確かに伊之助は、「猪に育てられた」という以外、自分がどこの誰だかわからない状態なんですよね。

ふんどしに名前は書かれていますが、自分では読み書きができないので、教えてくれた、たかはる青年の祖父の言うことを信じる他はないわけです。(第10巻 番外編)

なんとも心許ない話ですが、そのせいか「今この刹那の愉悦に勝るもの無し!!」(第4巻 26話)と言ったりしていて、伊之助にとって確かなものは、瞬間でしかなくても「心に感じる喜び」だけで、心も、そこにとらわれているようです。

鬼退治の際にも、「さァ、化け物!! 屍を晒して、俺がより強くなるため、より高く行くための踏み台となれェ!!」(第3巻 22話)

と、言っているので、鬼殺隊の入隊も、自分がより強く、より高く行くために、その踏み台となる「もの」(鬼)を探すためということみたいです。山の王を名乗って力比べを続けてきた、その延長線上といえそうですね。

足代のイメージ

Unlike the ‘scaffolding’ at a construction site, the ‘Fumi-‘ on a Fumidai has the meaning of moving.
工事現場の「足場」と違い、踏み台の「踏み-」には「動く」意味があります。

ちなみに古語辞典を見ると、「踏む」という言葉には、「足の下にする」という意味の他に、「歩む」「行く」とか、「(その地位に)つく」「(その地位に)のぼる」など、動いていく意味があるようで、単に「足場」とか「足がかり」のことを表す「あななひ」や、建築などで高い所に上るための足場を表す「足代」(あししろ)とは含む意味が少し違うみたいですよ。

「足場」や「足がかり」ではなく「踏み台」という言葉が選ばれているのは、こうした動く要素を表しているのかもしれませんね。

ともあれ、炭治郎と出会うことで、さらに「炭治郎に張り合うこと」も加わって、那田蜘蛛山では事あるごとに張り合うのですが、伊之助にとって満足する気持ちは長続きしないようです。

前に出るばかりではない炭治郎の戦い方に接したり、桁違いに強く大きくなった鬼の出現に直面したり、圧倒的な強さを見せる義勇さんの剣撃を前にして、蝶屋敷では無力な自分に対して落ち込む伊之助の姿がありました。

でも無限列車では、外しているようでいて、実はしっかり状況を見極めることができていて、伊之助自身もそのことに気づいています。

無限列車で見る夢は鬼が見せる夢ですが、伊之助の貴重な体験(智慧)となって揺るぎない自信に繋がっているようで、上弦の鬼と炎柱の桁違いの死闘を前にして大粒の涙を流しても、最初のときのように自分の無力に落ち込んでしまうことはありません。

折れてしまいそうになっている炭治郎を励ます伊之助の言葉は、苦難を乗り越えた者の強さを感じさせるものでした。(第8巻 66話)

まさに鬼を踏み台にして、より強く、より高くを目指すのが伊之助なんですね(笑)

ちなみに、仏教などでは「今ここにいる自分」と向き合うために座禅を組みます。「今この刹那の愉悦」と似ているところがありますが、向き合うのは他者ではなく、己に向き合います。

他者に惑わされないためには、己をしっかりと保つことが大切。

漫画では多くは語られませんが、他者である炭治郎に張り合っていた伊之助も、自分と向き合い、自分の中にしっかりしたものがあると自覚したとき、大きく変わったのかもしれませんね。

炭治郎と張り合う姿は遊郭編でも出てきますが、これまでのように角を突き合わせるような感じはなくなっていました。

「お前が言ったことは全部な、今俺が言おうとしてたことだぜ!!」(第9巻 75話)と言う伊之助は、素顔のせいかなんとも晴れ晴れとした顔をしています。

掌悪童子で見る伊之助像

鬼を踏み台にするといえば、伊之助は童磨戦で母親の記憶を取り戻します。

炭治郎たちと出会ったときに、「俺には親も兄弟もいねぇぜ」(第4巻 27話)と言っていた伊之助ですが、「誰にでもいるよ、お母さんは」と炭治郎に諭された際に(第19巻 163話)、母親の記憶そのものがないことが語られます。

俺には母親の記憶なんてねぇ
記憶がねぇならいないのと一緒だ
(第19巻 163話)

自分が自分であるために、記憶はとても大切な要素であることが近年の研究で解明されてきています。

日々、暮らしていく中で直面する状況に対して、適切に行動していく判断材料として、その都度、人は記憶を呼び起こしています。

今、目の前にいる人や、目にしている事物は何なのか、自分とどんな関係があるのか、もしくはどんな関係があったのか、これまでの人生で起きた「記憶の積み重ね」が今の自分を形作っているわけですね。

このブログでも、英語学習で役に立ちそうだということで、エピソード記憶のことを調べた記事があるので、よかったら参考にしてみてくださいね。

「誰にでもお母さんがいる」という炭治郎も正しいけれど、記憶を失う(思い出せない)ということは、記憶に基づいて適切に行動することができなくなるということです。伊之助の言うように、「記憶になければ、ないのと同じ」。判断のしようがありません。

ただ、伊之助の場合、完全に失っていたわけではなく、思い出すための「種」が残っていました。

第5巻 37話で蜘蛛の鬼(父)に頚椎を握りつぶされそうになる瞬間、走馬灯の中で記憶の欠片が現れています。

その後も、心理学的には「記憶の錯覚」とも呼ばれるデジャブーに似た感覚として、しのぶに「何処かで昔会った気がする」と感じていた様子が童磨とのやり取りで現れます。(第18巻 160話)

童磨の記憶から大切な母親の姿を取り戻す伊之助は、やはり鬼を踏み台にして、より強く、より高く行く人なのかも。

そして、無いものをある、または、あるものを無いと思い込んでいるのが「無明」という心の錯覚であるなら、あるものを無いと思っていた「思い込み」に気がついた伊之助は、明かり(智慧)を手にして自分を照らすことができるようになったはずですよね。

伊之助もまた、掌悪童子の働きに従って、成長する人と言えそうです。

このブログでは、他にも伊之助に関する考察記事があるので、よかったら覗いてみてくださいね。

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