縣神社には、雨乞い伝説と七夕伝説が隠れているかもしれません。
There seems to be a hint there that leads to the story of “Operation Entertainment District”.
そこには、遊郭編の物語に繋がるヒントがありそうです。
(この記事は、第6巻、第7巻、第8巻、9巻、10巻、11巻、16巻、20巻、ファンブック第一弾、第二弾のネタバレを含みます)
上の図は京都・宇治周辺の地図です。
「鬼滅の刃」には物語の鍵を握っていそうな場所がいくつかあります。平等院周辺もその一つ。
宇治神社・宇治上神社に祀られている菟道稚郎子命(うじのわきのいらつこのみこと)には炭治郎のイメージが、橋姫神社に祀られている橋姫には禰豆子のイメージが重なる伝説があります。
この記事では、縣神社と宇治神社に関してまとめています。
平等院の鎮守社 縣神社(県神社)
「縣神社」(あがたじんじゃ)は、土地の守護神として古くから祀られてきた神社です。御祭神は、木花咲耶命(コノハナサクヤヒメノミコト)の別名である、鹿蘆津姫命(アシツヒメノミコト)。
創建年代は不明ですが、後冷泉天皇の永承年中(1046~1053年)に、時の関白・藤原頼通の建立した平等院の総鎮守となっています。
木花咲耶命は大山祇命(オオヤマツミノミコト)の娘で、富士山の御祭神・浅間大神(アサマノオオカミ)と同一視されている神様のこと。
富士山には赫灼の子につながりそうな赫夜姫伝説がありましたが、この神社も何かありそうなニオイが(笑)しますよね。
鬼滅の刃と重なる、縣神社の奇祭
6月5日に行われる「県祭り」(あがたまつり)では、6月5日の深夜から6日未明に催される「梵天渡御」(ぼんてんとぎょ)という行事があります。
灯火を消して暗闇の中で行うため、県祭りが「暗闇の奇祭」と呼ばれる由縁でもあります。
「梵天」と呼ばれる男性が、御祭神の宿る梵天(ぼんてん)に片手でしがみついた状態で巡幸が行われるのですが、交差点では梵天役がしがみついたまま、「横ぶり」「縦ぶり」「ぶんまわし」が行われます。
梵天を横に倒したり、縦に倒したり、振り回したりするのですが、梵天役の人はしがみついたまま落ちません。そのためか、梵天役は筋肉隆々の人が務めるようです。
このお祭りでは縣神社の御祭神である鹿蘆津姫命と、宇治神社の御祭神である稚郎子命が、年に一度の契りを暗闇の中で執り結ぶと伝えられていて、「菟道稚郎子の一考察」という論文では「あたかも七月七日七夕の織姫・彦星のようである」と表現されています。
確かに神社の配置も宇治川を挟んで向かい合っているわけで、天の川を挟んで輝く織姫と彦星のようです。
諸事情によりここ数年は通常ではない形で巡幸が行われているようですが、もともとはこんな形で町を練り歩いていたといいます。梵天渡御は縣神社だけでなく、本来は宇治神社も関わるお祭りになるようです。
宇治神社 御旅所
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縣神社(神移し)
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宇治神社
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縣神社(還幸祭)
そして、論文「菟道稚郎子の一考察」によると、神輿の担ぎ手は「河内国の御幣講」が奉仕していたとのこと。
ブログ「いにしえの都」さんによると、論文に出てくる「河内国の御幣講」は、現在は「県祭奉賛会」という崇敬組織になるようで、河内の他に摂津や播磨の講・崇敬組織も含まれているようです。
参考 宇治上神社|世界文化遺産に封印された「宇治の神様」の真実とは? | いにしえの都 にっぽんの神社・パワースポット巡礼
神社の祭事を支える団体組織のこと。地域的な集団や同業者の集団など、内容は様々あります。
例えば、大阪天満宮では令和2年(2020年)の時点で25の講と呼ばれる団体があり、御祭神・菅原道真公が年に一度、本殿からお出ましになって、氏子とその町々が平安であることをご覧になるためのお渡りの行列「陸渡御」(りくとぎょ)のお供を務めています。陸渡御には例年約3000人が参加しています。
大阪の民間伝承によると、この祭の始まりは、 ”仁徳天皇が河内の日照りに困り、ウジノワキイラツコの魂に呼びかける「雨乞い」のために始まった” と伝えられているそうです。
仁徳天皇の時代、都は難波の高津宮にありました。
寝屋川にある日本最古の築堤「茨田堤」(まんだのつつみ)や、上町台地の北側にあった「難波堀江」(なにわのほりえ)の築造もこの時代のことといわれ、仁徳天皇は河内平野の開拓に努めた天皇ということが言えます。
仁徳天皇に関わる雨乞いの行事に河内国の人が関係するのは、こうした背景があるみたいですね。
まとめてみると、このお祭りにはこんな特徴がありそうです。
・一年に一度、女神と男神が会う、七夕のイメージがある
・播磨~摂津~河内エリアに、講、崇敬組織がある
・お祭りの始まりは河内国の雨乞いのためという伝承があり、仁徳天皇が関わっている
こういう物語があることを知ったうえで「鬼滅の刃」を見てみると、原作の「遊郭編」と共通点がありそうです。
炭治郎が気を失っている間に見る禰豆子の夢は、雪が積もる山の中で炭治郎と向き合う形で描かれています。まるで七夕の織姫と彦星のようです。(第11巻 92話)
そのシーンに至るまでにも、蝶屋敷で炭治郎たちが鍛錬を積むそばで「ツツジの花」が(第8巻 70話)、人攫い騒動が起こる場面では背景に「紫陽花の花」が描かれています(第8巻 70話)。そして第9巻のカバー折返しには青、緑、黄、薄紅、白と複数の色を含む水流紋を背景に「笹」が描かれています。
七夕に向かって移ろっていく季節を感じさせるのです。
栗花落カナヲと雨乞い伝説
雨乞いといえば、カナヲの苗字の「栗花落」(つゆり)は、梅雨と関わりの深い名前です。
「栗花落」は摂津八部郡山田庄原野(現 神戸市北区山田町原野)に伝わる「栗花落の井」(つゆのい)に出てくる名前で、雨乞いに関わる伝説なんですよね。
上の図の赤い線で囲んだ部分は現在の神戸市。そして、薄い黒線は「旧国名地図」です。2つを重ねると、「栗花落の井」は射楯兵主神社のあった播磨と摂津の国境近くに位置していたようです。
伝えられている雨乞い伝説は、こんな感じのお話です。
真勝は恋文を送り続け、その数は千束にもなったというのですが、姫の心はなびきませんでした。
身分違いということもあり、全く見込みがなかったわけですが、御所で行われた「歌合わせ」に真勝も参加したことで流れが変わります。当日、真勝はこんなふうに歌を詠みます。
「水無月の 稲葉の露も こがるるに 雲井を落ちぬ 白糸の滝」
水無月の稲田では、稲の葉に宿る露の水さえ待ちこがれています。どうして雲井から白滝のような雨は落ちてこないのでしょう
これに対する白滝姫の返歌はこんな感じ。
「雲だにも かからぬ峰の白滝を さのみな恋そ 山田をの子よ」
雲さえかからないほど高い峰の白滝を、そのようにむやみに恋しく思わないことです、田舎者さん
諦めない真勝は、さらにこんな歌を送ります。
「水無月の 稲葉の末も こがるるに 山田に落ちよ 白滝の水」
水無月の稲田では、稲の葉の先まで待ちこがれています。山田に落ちてきませんか、白滝の水よ
こうした真勝の猛プッシュに心を打たれたのは、なんと淳仁天皇で、自ら仲立ちをされて右大臣を説得してくれたので、二人は身分違いを乗り越えて結婚し、真勝の故郷へ帰ることになったのでした。
真勝は幸せいっぱい。とはいえ、奈良時代の古道を行く旅は大変なものだったようで、真勝は姫の手を引き、支え、ときには背負って歩いたようです。
疲れ果てた姫は山深くなっていく景色を見て泣き伏してしまうのですが、不思議なことに、地面に落ちた姫の涙は泉となり川となるのでした。
この川はその後も絶えることはなく、白滝姫の名をとって白水川と呼ばれています。(現 西宮市中野字東山)
さらに石井村の北の森(現 神戸市兵庫区都由乃町)では、梅雨を迎えたというのに酷い干魃に困っている村人に出会い、姫が手に持っていた杖で地面を突くと、そこから清水が湧き出したといいます。
清水の面に栗の花がはらはらと落ちたことから、その地は栗花の森(つゆのもり)と呼ばれるようになり、現在の町名「都由乃町」の元になっています。
その後、二人は無事に山田の里に着き、子どもを一人もうけるのですが、ある年の梅雨のころ、姫は病気にかかって亡くなってしまいました。
屋敷の東隅に設けられた姫の廟所の前には、それ以降、栗の花の落ちる梅雨の時期になると、旱天の日でも絶えることのない清水が湧くようになり、決まって栗の花が散り落ちたといいます。
このことが天皇の耳に達し、霊泉に「栗花落の井(つゆのい)」という名を賜り、二人がもうけた子・真利は、左衛門佐に任ぜられました。これにより、山田家は姓を栗花落(つゆ)と改めたといいます。
参考 兵庫伝説紀行 ー 語り継がれる村・人・習俗 ー 山田の里と白滝姫の伝説を訪ねる | 兵庫県立歴史博物館
参考 兵庫県神戸市兵庫区都由乃町 つゆの森のホームページ | 都由乃会
お父さんの真勝は「左衛門尉」(さえもんのじょう)だったのですが、その子・真利は「左衛門佐」(さえもんのすけ)を賜ったということなので、山田家は1つ出世して貴族になったみたいです。
日本の律令制の官職の一つで、都の左側の門を守る役職のことをいいます。
左衛門尉 < 左衛門佐 < 左衛門督(さえもんのかみ)の順番で偉くなっていきます。
左衛門尉は従六位や正七位の官位の者が就くことが多く、貴族の一歩手前。源義経も後白河院からこの役職に任ぜられています。
左衛門佐は従五位の官位の者が就くことが多く、最下層ながら貴族の身分。トップを務める左衛門督を補佐する役職になります。
高貴な姫君やお金持ちの娘を獲得する山田男の話は日本各地にありますが、「鬼滅の刃」で考えるなら、栗花落の井伝説はちょっと特別な話になりそうです。
なぜかというと、それは「淳仁天皇」が登場するから。権力争いに翻弄された挙げ句、事実上、淡路島へ流されてしまった天皇です。これに大きく関わっているのが孝謙上皇(称徳天皇)で、道鏡を重用して、宇佐八幡宮の神託事件に至ったことで有名です。
神託を持ち帰った和気清麻呂(わけのきよまろ)は、炭治郎のイメージが重なる京都・愛宕神社の整備にも関わった人物でした。
そして興味深いことに、道鏡は河内国若江郡(現 八尾市の一部)の出身なんですね。
縣神社のお祭りも、栗花落の井伝説も、都(京都、奈良)、河内、摂津で話がまとまっているようです。
ちなみに、真勝の出身地である矢田部郡は、源平時代は平家の知行地で、平家の瀬戸内海支配の拠点でもありました。
栗花落の雨乞い伝説は、菟道稚郎子命に関連する梵天渡御だけでなく、愛宕神社や源平合戦にも緩やかにつながっていく伝説と言えそうです。
武士の俸禄として支給された領地のこと。
「鬼滅の刃」第7巻 番外編では、花柱・胡蝶カナエがカナヲと炭治郎のことを想像させる予言めいたことを言うのですが、平等院周辺には花の寺で有名な「恵心院」があり、花柱の姿とも重なりそうです。
「鬼滅の刃」のストーリーに宇治のイメージが重ねられているとすれば、炭治郎とカナヲのご縁はかなり早くから決まっていたのかもしれませんね。
カナヲのファンブック情報に潜む鍵
この他、カナヲのファンブック情報(第一弾 76頁)からも、「雨乞い」と「神戸」のキーワードを読み取ることができそうです。
カナヲの趣味は「朝から晩までシャボン玉」でした。
「日本玩具博物館」によると、「シャボン玉」の童謡が発表されたのは大正12年で、シャボン玉遊びは春から初夏の遊びとして定着していったそうです。
稲作はこの時期、田植えか、田植え直後の季節。稲の根を育て、健康な株にするために、十分な水が必要でした。空梅雨ともなれば、村の者が総出となって雨乞いが行われます。
参考 近世知多地方の雨乞い 日本福祉大学子ども発達学部助教 松下 孜 | CiNii Articles
栗の花の季節は5~6月で、花の時期は2週間前後。6月の半ばには花の時期が終わってしまいます。咲き終わった栗の花が落ちる時期を「栗花落」とか「墜栗花」と書いて「ついり」といい、ちょうど梅雨入りの季節に重なります。
白くて長い尻尾のような花は、青臭いような、香ばしいような、人によっては嫌われてしまう独特な臭いがするので、農作業の忙しい季節と重なってけっこう存在感があったようで、白滝姫の伝説にも梅雨の時期の清水とともに栗の花が印象的に登場していました。
カナヲのシャボン玉は、季節的にも雨乞いのイメージに重なるといえそうです。
そしてカナヲの好きな「ラムネ」は、「栗花落の井」がある神戸と重なります。
日本で本格的なラムネの製造と販売を行ったのは神戸旧居留地にあったシーム商会で、明治17年~18年(1884年~1885年)以前のことだといいます。
ちなみに、俳句の世界では、ラムネは夏の季語になっています。
参考 福原遷都 語句解説 | 神戸市文書館
参考 攝津国山田庄と栗花落文書 今井林太郎 | 大手前大学 大手前短期大学リポジトリ
参考 さぼん玉・シャボン玉 | 日本玩具博物館
参考 清涼飲料よもやま話 第六話「ラムネの沿革について」 | 一般財団法人日本清涼飲料検査協会
神戸旧居留地 18番 | 神戸調査隊記録
宇髄天元と七夕伝説
遊郭編に登場する柱は音柱・宇髄天元です。左目の周囲に施した、天神さまの神紋・梅鉢紋のような化粧が目を引きます。
この方、どうも菅原道真公にイメージが重なるみたいなのですが、そう考えると、七夕のイメージにつながる遊郭編にぴったりのキャラクターといえそうです。
というのも、菅原道真公は大宰府で七夕にまつわる歌を詠んでいるんですよね。
ひこ星の 行き会ひをまつ かささぎの 渡せる橋を われにかさなむ
彦星が逢瀬を待つというカササギの渡す橋を、どうか私に貸してほしいものだ
「カササギの橋」というのは、天の川で引き裂かれた彦星と織姫のために、カササギが翼を広げて橋を架けてくれるという古代中国の七夕伝説に出てくる橋のこと。
その橋を私にも貸してほしい、都に残る妻のもとへ帰りたいという道真公自身の心情を重ねた歌です。
「天の川のカササギ」は、星座でいうと「白鳥座」のことだといいます。星座だとかなりデカいのですが(汗)
実際のカササギは体長45cmほど。半分は尻尾なので、20cm弱の小型の鳥になります。七夕伝説でも、カササギは群れになって翼を広げて橋を作ります。
興味深いのは、仁徳天皇の別名にも小鳥の名前が入っていることです。
「日本書紀」では大顦鷯尊(おおさざきのみこと)、「古事記」では大雀尊(おおさざきのみこと)と表記されます。
仁徳天皇の名前に入っている「さざき」は、ミソサザイのことです。
ミソサザイの体長は10cmほど。スズメ(14~15cm)よりも小さな鳥です。でも繁殖期には、小さな体からは想像できないほどの大きな美声でさえずり続けるのが特徴。そして、その生態は一夫多妻です(笑)
「古事記」表記に入っている「雀」の字の意味はもちろんスズメのことですが、「雀」は小さな鳥を表す会意文字でもあるようです。
菅原道真公の歌も、梵天渡御も、どちらも男女が出会う七夕のイメージに小鳥が関わっているところがおもしろいですよね。
このように、七夕は古代中国から伝わった星祭りの影響が強いお祭りですが、稲作とも深くつながる行事でもあります。
7月は稲の茎の中で穂のもとができる季節。7月下旬から8月上旬ごろになると稲穂が外に出始めます。
この時期に水が枯れると稲の穂が出にくくなり、途中で止まってしまうこともあるため、この時期の雨も重要なのです。
このため、農村で行われる七夕祭りは、夏の日照りが稲の生育に影響しないように祈る「雨乞い祭り」の意味が強くなるのです。
縣神社のお祭りは、雨乞い祭りを軸に、炭治郎、カナヲ、そして宇髄さんのイメージが重なるお祭りといえそうです。
参考 国指定文化財等データベース 大磯の七夕行事 | 文化庁
能や歌舞伎に出てくる「星」と「つゆ」と「網模様」
そして、ちょっと注目なのが、7月の吉原には独特の行事があることです。
「玉菊灯籠」(たまぎくとうろう)といって、享保時代の名妓・玉菊を偲んで、それぞれのお店が趣向を凝らした灯籠や飾り物を飾るのです。
玉菊というのは、享保(1716~1736年)ごろ、新吉原の角町(すみちょう)中万字屋(なかまんじや)が抱えていた名妓です。パトロンは5代目・奈良屋茂左衛門。4代目勝豊の代で材木の御用商人として急成長した大商人です。明暦の大火の復興や日光東照宮の改築などに御用商人として関わって財をなしました。
玉菊はその美貌に加え、深い情を持つと評判の太夫で、琴、三味線をよくし、特に河東節(かとうぶし)の浄瑠璃を好んで弾いていたといいます。
気前もいいので吉原の人々からも敬愛されていましたが、お酒が好きで、それがもとで享保11年(1726年)3月に25歳の若さで亡くなってしまいます。
その三周忌の追善となる享保13年(1728年)7月に、仲の町の茶屋で軒ごとに箱提灯を飾ったのが玉菊灯籠の始まりです。
趣向を凝らした灯籠は年を追うごとに華美になり、吉原の年中行事となります。
参考 吉原周辺史跡めぐり 遊女玉菊の墓 | 浅草防犯健全強力会
「網模様灯籠菊桐」と堕姫の帯
歌舞伎では、この「玉菊」が通称となっている演目があります。「星舎露玉菊」(ほしやどるつゆのたまぎく)と「邯鄲軒端籠」(かんたんのきばかご)です。
「星舎露玉菊」は、玉菊150回忌にあたって上演された歌舞伎「網模様灯籠菊桐」(あみもようとうろうのきくきり)という話が元になっています。
ブログ「歌舞伎見物のお供」さんに、「網模様灯籠の菊桐」のあらすじがまとめられているので参考になりますよ。
ただ、「網模様灯籠菊桐」は再演時すでに「玉菊」の部分が切り離されていたようで、「歌舞伎見物のお供」さんにまとめられた「網模様~」の演目にも「玉菊」は含まれていないようです。
参考 「網模様灯籠菊桐」 あみもよう とうろの きくきり | 歌舞伎見物のお供
参考 第20話 落語「小猿七之助」 | 落語の舞台を歩く
ともあれ、登場する人物の関係を図にするとこんな感じ。
ざっくりまとめると、不思議な縁で結ばれた人々が色と欲に翻弄されるお話ですが、注目なのが御殿女中の滝川様です。
七之助に騙されて口説かれた滝川様は、この男と行動を共にすることを心に決めて御殿女中の身分から逃げ出すのですが、お金のない七之助に身売りされ、吉原の遊郭のはずれにある三日月長屋へ身を沈めてしまいます。
そして、下級遊女でありながら奥女中の仕草や言葉が残るため、「御守殿お熊」(ごしゅでんおくま)と呼ばれて人気遊女になるのです。
京極屋の旦那さんに対する話し方と、善逸や禿たちに対する話し方がコロリと変わる蕨姫花魁に重なります。(9巻 第73話)
「歌舞伎見物のお供」さんによると、口説かれる場面では半分ほどいた帯の端に七之助が座り、瀬川さまが動けなくなってしまうという場面があるそうで、歌舞伎でも帯が印象的な演出になっているようです。題名の「網模様」も蕨姫花魁の帯の模様と重なります。
また、滝川様は登場シーンから「日月の紋」(じつげつのもん)や「杏葉菊の紋」(ぎょうようぎくのもん)があしらわれていて、かなり身分の高いお大名や天皇家を連想させるキャラクターになっているというところも興味深いポイントです。
妓夫太郎と邯鄲の枕
「邯鄲軒端籠」(かんたんのきばかご)は、最後の公演が明治36年ということで内容もよくわからないのですが、「松竹大谷図書館」にあるチラシには「一睡の夢●栄花の午枕」と書かれていて、題名の「邯鄲」というのは「邯鄲の枕」のことでしょうか。(※●の部分は読み取れませんでした。「は」かな)
「邯鄲」は、能の演目にもあります。
その枕は仙術使いから女主人が貰ったというもので、自分の未来について悟りを得ることができるといいます。
盧生がこの枕で寝ていると、楚の国の勅使と名乗る男に起こされて、帝位を譲ると告げられ、栄華の日々を50年も過ごします。
そして長寿を祝宴が設けられ、興にのった盧生が自ら舞を舞うと、昼夜、春夏秋冬が目まぐるしく変わる様子が眼前に展開され、やがて途切れ途切れになり、一切が消え失せてしまいます。
盧生が目を覚ますと、そこはもとの宿屋で、夢の中で50年と思っていたのは粟ご飯が炊ける一炊の間の出来事だったのでした。
盧生が夢の中で最後に見た光景は、どこか妓夫太郎の言う「死ぬときグルグル巡らせろ」(第10巻 86話)というセリフを思い出させます。そしてこちらも「星舎露玉菊」と同じく帝位を譲る話が出てくるなど、高貴な身分の話が絡んでくるところが興味深いです。
「軒端」は、軒の端から下の部分にできる空間のこと。七夕の笹飾りが飾られる場所でもあります。元になった話が玉菊にちなむ夏の催し物なので、「籠」も七夕飾りの投網や屑籠のことを意味していそうです。
参考 今週のことわざ 黄粱(こうりょう)一炊(いっすい)の夢(ゆめ) | DICTIONARIES & BEYOND WORD-WISE WEB
まとめ
平等院周辺にある縣神社や宇治神社には、カナヲや炭治郎、宇髄さんのイメージに重なるお祭りや言い伝えがあり、雨乞いや七夕につながっていくようです。
遊郭編本編や単行本のカバー折り返しで描かれる植物も、ツツジ、紫陽花、笹の葉と、夏へ向かう季節を感じさせました。
だとすると、堕姫の帯に巻き付くように描かれる直線は、宮中行事の「乞巧奠」(きっこうでん)で供えられる、五色の糸や七夕そうめんなのかも。
そうめんは、貴船神社では神饌(お祭りなどで神様に献上する食事)として欠かせないものとされていて、お伽草子「貴船の物語」(室町後期)には古代中国の故事にちなんで、「そうめんを食うのは鬼の腸(はらわた)としてこれを食う」とあり、鬼にまつわる話があるんですよね。
その子は生前、常に小麦餅を食べていたので、死んだ日に索餅(むぎなわ/さくへい)をもって祭ったところ、病はおさまったといいます。
後の人はこの日に索餅を食べれば、年中、瘧病を免れると言い伝えるようになり、こうした風習が日本に伝えられて、七夕の行事食である、そうめんに変わっていったと考えられています。
参考 十巻本「伊呂波字類抄」(1144年~1177年)
「鬼滅の刃」では、「夏」もしくは「七夕」のキーワードは何か重要なキーワードになっていそうですね。
そして吉原には「玉菊灯籠」という7月に行われる季節行事があり、この行事にちなむ歌舞伎の演目やモチーフには、やんごとなき人々のイメージが絡んでいそうです。
これは宇髄さんの左目の化粧がヒントになっていた一条天皇や藤原道長につながっているのかもしれません。
やんごとなき人々のイメージには、平家一門の中にいたという蕨姫の伝説もありますよ。
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